小長谷清実「誰かが、空を」(「交野が原」69、2010年09月20日発行)
小長谷清実「誰かが、空を」は短い詩である。その短い詩の、なかほどにある1行にまいってしまった。繰り返し読んでしまった。
私が気に入ったのは「そのしわしわのたるみから ヒッヒッヒッ」がなんとも生々しい。
この空は「しわしわ」だから、幼いこどものように、その表面(肌?)がすべすべでもつるつるでもない。「しわしわ」。それなのに(?)、くすぐられると、くすぐったい。それなのに--と書いたのは、くすぐったいという感じは、こどもの方が強いでしょ? 年をとるとだんだん鈍感になってくる。そのたるんだ「しわしわ」が、「突っつきくすぐられ」、反応して、我慢しきれずに声を洩らしてしまう。こどものような、きゃっきゃっというようなひびきではなく、「ヒッヒッヒッ」。「ヒ」という音の中にある弱さと輝きがいいなあ。それが「ッ」によって途切れる。途切れるけれど、つながっていく。
--と、ここまで書いて。
私は、急に、別のことが書きたくなった。
それをまず、書いておく。
途切れながら、つながる。--これは小長谷の詩の特徴ではなかったか。この詩でも、1連目は「誰かが空を」という書き出しが3回あらわれる。3回とも同じ動詞がつづくのではなく、それぞれ違う動詞が空に働きかける。「誰かが空を」というひとつのものが、別の動詞によって、別の反応をする。その「別」をさして、私は「途切れる」と感じる。「途切れる」のだけれど、「誰かが空を」ということばがあらわれると、そこにひとつの「つながり」があらわれる。
意識が「誰かが空を」に帰っていく。
帰還と逸脱が繰り返され、世界が少しずつ変わっていくのだ。
そして、そのたびに、そこから何かが漏れる。こぼれ落ちる。この何かを小長谷は「無数の虫」と2連目で呼んでいる。「漏れる、こぼれ落ちる」を「走りだす」と言っている。
そして、その「走りだす」ものを「ざわめき」「詩」と名づけ直している。
あ、そうなのか。
「詩」って、そういうものなのか。
私は、それを「詩」とは別のことばで言ってみたい。別なことばで呼んでみたい。「息」と呼んでみたい。
「ヒッヒッヒッ」。「ヒ」れが「ッ」によって途切れる。途切れるけれど、つながっていく。その途切れ、つながるもの。それは「呼吸」、「息」である。
私が、小長谷の詩を読みながら「共有」しているもの(共有していると勝手に感じているもの)は「肉体」ではなく、「息」である。
私は小長谷の詩、そのことばのリズム、音にいつもひかれるが、それは息のリズム、息の音にひかれるということである。
小長谷の詩は「息」なのだ。
こんな言い方は乱暴過ぎるかもしれない。
けれど、あれこれ思い出してみて、私は小長谷の詩から「意味」を思い出せない。「しわしわの」というような繰り返される音の不思議さである。
私は音読はしない。小長谷の朗読を聞いたこともない。小長谷が朗読をするかどうかもしらない。(声そのものを聞いたことがない。)だから、小長谷の詩から私が聞き取っているのは「音」ではなく、「息」なのだ。「声」が生まれる前の、もっと奥深いところにあるリズムなのだ。
ヒッヒッヒッ。くすぐられて笑うときの、快感と不快。そのあいだから、声にならずにこぼれる息。
私の書いていることは、わけがわからないかもしれない。私にも、実は、よくわからない。書いている私がわからないのだから、このことばを読むひとにはわからないにきまっているのだが、わからないまま、ともかく書いておきたいのだ。
私はあるひとのことばに喉を感じたり、耳を感じたりする。それと同じように、小長谷のことばに感じているのは「息」である、ときょう、気がついた。

小長谷清実「誰かが、空を」は短い詩である。その短い詩の、なかほどにある1行にまいってしまった。繰り返し読んでしまった。
誰かが爪を空で引っ掻き
その化膿した傷口から どろどろした何かが
悪口雑言のように降ってくる
誰かが指で空を突っつきくすぐって
そのしわしわのたるみから ヒッヒッヒッ
快と不快の入り混じった笑声が漏れでてくる
誰かがことばで空を引き裂き
ぽっかり空いた裂けめから
得体の知れないざわめきが這いでてくる
無数の虫がいっせいに
ある方向に
走りだすざわめきが 詩が
私が気に入ったのは「そのしわしわのたるみから ヒッヒッヒッ」がなんとも生々しい。
この空は「しわしわ」だから、幼いこどものように、その表面(肌?)がすべすべでもつるつるでもない。「しわしわ」。それなのに(?)、くすぐられると、くすぐったい。それなのに--と書いたのは、くすぐったいという感じは、こどもの方が強いでしょ? 年をとるとだんだん鈍感になってくる。そのたるんだ「しわしわ」が、「突っつきくすぐられ」、反応して、我慢しきれずに声を洩らしてしまう。こどものような、きゃっきゃっというようなひびきではなく、「ヒッヒッヒッ」。「ヒ」という音の中にある弱さと輝きがいいなあ。それが「ッ」によって途切れる。途切れるけれど、つながっていく。
--と、ここまで書いて。
私は、急に、別のことが書きたくなった。
それをまず、書いておく。
途切れながら、つながる。--これは小長谷の詩の特徴ではなかったか。この詩でも、1連目は「誰かが空を」という書き出しが3回あらわれる。3回とも同じ動詞がつづくのではなく、それぞれ違う動詞が空に働きかける。「誰かが空を」というひとつのものが、別の動詞によって、別の反応をする。その「別」をさして、私は「途切れる」と感じる。「途切れる」のだけれど、「誰かが空を」ということばがあらわれると、そこにひとつの「つながり」があらわれる。
意識が「誰かが空を」に帰っていく。
帰還と逸脱が繰り返され、世界が少しずつ変わっていくのだ。
そして、そのたびに、そこから何かが漏れる。こぼれ落ちる。この何かを小長谷は「無数の虫」と2連目で呼んでいる。「漏れる、こぼれ落ちる」を「走りだす」と言っている。
そして、その「走りだす」ものを「ざわめき」「詩」と名づけ直している。
あ、そうなのか。
「詩」って、そういうものなのか。
私は、それを「詩」とは別のことばで言ってみたい。別なことばで呼んでみたい。「息」と呼んでみたい。
「ヒッヒッヒッ」。「ヒ」れが「ッ」によって途切れる。途切れるけれど、つながっていく。その途切れ、つながるもの。それは「呼吸」、「息」である。
私が、小長谷の詩を読みながら「共有」しているもの(共有していると勝手に感じているもの)は「肉体」ではなく、「息」である。
私は小長谷の詩、そのことばのリズム、音にいつもひかれるが、それは息のリズム、息の音にひかれるということである。
小長谷の詩は「息」なのだ。
こんな言い方は乱暴過ぎるかもしれない。
けれど、あれこれ思い出してみて、私は小長谷の詩から「意味」を思い出せない。「しわしわの」というような繰り返される音の不思議さである。
私は音読はしない。小長谷の朗読を聞いたこともない。小長谷が朗読をするかどうかもしらない。(声そのものを聞いたことがない。)だから、小長谷の詩から私が聞き取っているのは「音」ではなく、「息」なのだ。「声」が生まれる前の、もっと奥深いところにあるリズムなのだ。
ヒッヒッヒッ。くすぐられて笑うときの、快感と不快。そのあいだから、声にならずにこぼれる息。
私の書いていることは、わけがわからないかもしれない。私にも、実は、よくわからない。書いている私がわからないのだから、このことばを読むひとにはわからないにきまっているのだが、わからないまま、ともかく書いておきたいのだ。
私はあるひとのことばに喉を感じたり、耳を感じたりする。それと同じように、小長谷のことばに感じているのは「息」である、ときょう、気がついた。
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