詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

近藤久也「情事」、中上哲夫「名前抄」

2016-11-19 09:57:43 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「情事」、中上哲夫「名前抄」(「ぶーわー」37、2016年09月30日発行)

 「ぶーわー」は近藤久也の個人誌ということになるのだろうか。表紙を含めて四ページ。A4判を二つ折りにしたもの。簡潔でいいなあ。
 「情事」は、こう始まる。

マッ暗ナ
小部屋
大キナベッド
セカイノ最重要事ノヨウニ
睦ミ合ッタアト
一人ハ出テイキ
一人ガ残ッタ

 私はカタカナが読めない。書けない。だから正確に引用しているかどうかわからない。わからないまま感想を書く。
 この一連目では、私は「残ッタ」だけが「わかった」。「のこった(残った)」であると「わかった」。そして、そこから前に引き返して読み直すのだが、やっぱりわからない。カタカナが読めない。「マッ暗ナ」がどんな暗さなのか見当がつかない。「ノウヨウニ」は固いものがうねっている感じ。「睦ミ合ッタ」は「ニクミアッタ」と読んでしまいそうだ。その結果、何かわけのわからないものが「残る」。「残ッタ」。「一人」と近藤は書いているが、この「一人」が「人間」とは感じられない。言い換えると「近藤」とは感じられない。
 そういうもの(こと?)が「残ッタ」。

ソノ些事ヲ受ケトメテイルノハ
体ヲ包ム冷タイシーツ?
ソノ汗ト体液ノ
染ミ?
匂イ?

 詩は、こう続いていく。一連目で印象的だった「残ッタ」を私は知らず知らずに補って読む。つまり、

ソノ些コトヲ受ケトメテイル(ノハ)
体ヲ包ム冷タイシーツ「ガ残ッタ」
ソノ汗ト体液ノ
染ミ「ガ残ッタ」
匂イ「ガ残ッタ」

 「?」を「ガ残ッタ」にかえて読んでしまう。そうすると、そこに書かれていることが「わかる」。「シーツ」「染ミ」「匂イ」は「一人(人間/近藤)」ではないが、「人間」以上というか、「人間」をつくりあげる「未生」の何かのように思えてくる。
 「一人」が「シーツ」「染ミ」「匂イ」になって「残ッタ」のか、「シーツ」「染ミ」「匂イ」が「一人」になって「残ッタ」のか。同じことに感じられる。「残ッタ」だけが「残ッタ」と「わかる」。

サツキマデ弾ンデイタベッドノ底ノ
錆ノ浮イタ古イスプリング?
出テイク時ニ右ニ回シタ金色ノノブ?
床ニ舞イ降リル
ミエナイ埃タチ?
知ラナカッタ二人ノ
シジマノザワメキ?
ソバダテル耳?
乾イタ肌ニ触レニ来ル毛布ノ温モリ?

 ひとつひとつの「もの」「こと」が「残っている」。それもただ残っているのではない。「?」と問いかけるとき、その問いの奥から「生まれてくる」という形で残っている。問いが「生み出している」と言い換えてもいい。
 「残ッタ」ではなく「生まれている」。
 「残った」と書かなかったのは、それが「残る」ではなく「生まれる/生み出す」という違った「動詞」を含んでいるからなのだ。「流通言語」ではない、ということをはっきりさせるためなのだ。

ソンナコトモ解ラナイ
セカイヲ 小部屋ヲ
ベッドヲ
遠クカラ見テイル生キモノノ
非情ナ目?

 「非情ナ目」こそが、「流通言語」ではあらわせない「詩」を「生み出している」と言いなおすことができる。「解ラナイ」という「詩の状態/詩がことばになる前の状態/詩が生まれてくる運動」を「生キモノ」の姿としてとらえなおしている。
 読み終わると、その「生キモノ」が、「残っている/ことばのなかから生まれて生きている」と、「わかる」。



 近藤の詩は、また同じ号に発表されている中上哲夫「名前抄」の「解説/注釈」としても読むことができる。

大きな木の下で掌の堅い実を見つめている人よ
きみはいま世界にふれているのだ
手で
目で
鼻で
耳で
舌で

      *

サルトル少年はずっと苦しんでいたんだと
物と名前とが一致しないので

      *

ぼくらはいっせいに懐かしむのだ
かつて無名者として泳ぎまわっていた海を

 「名前」をつける。自分だけの「名前」で世界をとらえなおす。それを「詩」と呼ぶ。その「新しい名前」として「残された」もの/ことが「詩」なのだ。
オープン・ザ・ドア
クリエーター情報なし
思潮社

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