詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中庸介「こぼれ、倒す」「洗濯男」、細田傳造「思想少年」

2020-09-09 08:18:53 | 詩(雑誌・同人誌)
田中庸介「こぼれ、倒す」「洗濯男」、細田傳造「思想少年」(「妃」2020年09月10日発行)

 田中庸介「こぼれ、倒す」は「できごと」と「認識」の関係が時間を逆行するところがおもしろい。

醤油がこぼれたから醤油注しを倒されたことがわかる
そのような順番でものごとは進行していく
テーブルの上を一瞥するだけで危険のすべては把握されなければならない

 おさない子供がいる食卓、というだけのことなのだが。「順番」「進行」というものをきちんとことばにすることができるところに田中の「文体」の特徴がある。「意識の流れ」というよりも「物理の流れ/事実の流れ」だね。人間の「感情」を受け入れない。非情の美しさがある。この「非情」を認識する田中の文体(特にリズム)が、私はとても好きである。
 「洗濯男」に、その「本領」のようなものがある。

洗濯家の中村祐一さん(一九八四年伊那市生まれ)によれば

 ドラム式の洗濯機を使っている方から、
 タオルが黒ずむっていうご相談を受けたのですが(中略)

 その1回のすすぎは服から洗剤と汚れを水に移す作業に当てられるべきなのですが、
 そこに柔軟剤が入ってしまうと、
 繊維に逆に汚れをくっつけてしまう様な状態にさせてしまいます。

 繊維から、不要なものをとりたいのか?
 それとも、繊維にある種の機能を付けたいのか??

 もうそれがぐっちゃぐっちゃになってしまっているのが、今の洗濯です。
      (2020-07-24・アメーバーブログ「洗濯を繰り返すと、衣類が黒ずむ。
       それは衣類からのメッセージ。」から引用)

ということである。

--それが今の洗濯である

 田中の「作品」はほとんどが「引用」で成り立っている。わたしは、それをまた引用しているのだが、この引用されるものと引用するものの「事実の流れ」は変えることができない。そして、それだけが詩なのである。どんなにことばを駆使して「意識の流れ」を書いてみたって、そんなものを「事実」は配慮したりはしない。
 そういうことに対して、ことばはどう向き合えるか。

 視点を変えると、細田傳造「思想少年」が、ことば自体として「非情」のまま存在しようとしているのがわかる。

おまえのちんちんどれくらい
堂山木の下の土塊から
顔をだしてきた螻蛄にいきなり聞く
これくらい 律儀にこたえる子虫を皆して●った
         (「●った」は「わらった」。原文は「口」編+「西」のつくり)

 と無邪気(?)に始まり、日本では隠され続けている「歴史」が語られる。全文引用しないと「意味」を紹介したことにはならないのだが、詩は「意味」ではないから、そこは省略して。

あとどれくらいですか ハラモニに無体なことを聞く
また更なる螻蛄が穴から半身を出してケラケラ●う これくらいこれくらい
キミら黙ってろ 烈女史にお尋ねしているんだ
「七十五日」清釋姉は貌をあからめて告げた 早すぎますよハラモニ
このくらいにしろ がき大将の朴秀崑が大地に一物を曝す
チャガヨー 更に更更なる螻蛄が六匹連なって●う
ちっけぇー 俺たちもくすくす笑う
チュバルダー
鵲川面君子里小鬼隊総員トッケビ坂の繁みに潜り
猛龍千丈の出来を待つ 巨
そういうものを見てみたい
俺たちこのごろ知覚している
螻蛄とか蚯蚓(チロイン)とか雀(チャムセ)とかの目疲れ遊びに飽きている

ふんっ なにが少国民だ

 引用するとよくわかるのだが、細田のつかっていることばは、私のつかっていることばとはぜんぜん違う。引用するのに「一字一句」見ないとわからない。「一字一句」見ても、正しく見ているかわからない。だからもちろん、私は正しく認識していない。それでも、そのことばは、そこに存在している。それは、「事実」なのだ。「非情」の事実なのだ。ことばは事実といっしょに動いて「肉体」になる。
 そこには「おまえのちんちんどれくらい」とか「ちっけぇー」のように、わかったようになることばもある。でも「ふんっ、わかってねえだろう」と言われたらそれでおしまいの「わかり方」だ。
 それは田中の書いている「洗濯男」の「洗剤/柔軟剤」のような「わかり方」にすぎない。言われて「わかった」つもりになるだけだ。それは「わかる」かどうかとは関係なく、「受け入れる」しかないものなのだ。「事実」として。
 そして、そこから、ことばをどう動かしていくか。つまり、自分の肉体(思想)を抱えて、どう「事実」の中に入っていく。
 私はいつでも細田のことばから「拒絶」されていると感じる。細田は「受け入れる」ようにことばの肉体を開いている。その寛大さの前で、私のことばは、細田の肉体と向き合うための実践を何もしてこなかったことを自覚させられる。その瞬間の、その「非情」が、しかし、私は好きだ。



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