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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(99)

2015-06-25 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(99) 

151 詩壇

 「詩壇」とは何か。詩人のあつまり、詩人があつまってつくりだす一種の「共同認識」のようなものか。嵯峨は、そこから距離を置こうとしている。

詩壇
卑屈で 矮小で破廉恥で蛆虫のむらがる汚辱の詩壇

 否定的なことばをつらねている。つらねてもつらねても、言い足りないのかもしれない。言い足りないと感じるのは、嵯峨には「理想」があるからだ。その反動として、憎悪が噴出している。
 嵯峨の「理想」とはなんだろう。
 「詩人」ではなく「詩」そのもののことを思っているようだ。詩人(あるいは、その詩人たちにもてはやされている詩)は死火山にほうりこんでしまえ。千年たって火山が爆発したら、

もっとも遠くへ落下した大きな火山弾を力いつぱい打ち割つてくれ
もしその中からアネモネの可憐な新芽が出てきたら
生き残りの者が涙をそそいで
氏名不詳の最後の詩人の屍の上にアネモネの大輪の花を咲かせてくれ

 甦るアネモネの花。それが嵯峨にとっての詩である。死んだものの中に、きっとそれがある、というのは、逆に言えば、「詩壇(既成の詩人/既成の詩)」はいったん死なないと詩を生み出すことができない、ということかもしれない。
 「詩壇」を嫌いながら、詩を愛しつづける詩人の姿が見える。

152 敗者へのレクイエム

 この作品は「詩壇」から離れたところで詩をみつめている嵯峨の自画像かもしれない。敗者「の」レクイエムではなく、敗者「への」レクイエムなのは、自分で自分への「レクイエム」を捧げるということなのだろう。

大きな楯を捨てた
ぼくは戦線からはるかに遠く離脱したのだ

 「大きな楯」とは「詩人」という呼称、「戦線」とは「流行の詩壇」と読むことができるかもしれない。「流行」を追わずに、自分の信じる詩を道を探す。そのために「詩学」を発行しつづける嵯峨の姿が重なる。

山頂の絶壁はきびしくぼくを待つ
ぼくはその頂上の巨岩から垂直に谷底へ投身する
卑怯者のぼくの屍の上に
もはや誰が大きな楯を覆いかぶせてくれるだろう

 「投身(自殺)」に意識が奪われてしまうが、その前に書かれている「山頂の絶壁はきびしくぼくを待つ」の「きびしい」に目を向けるべきなのだろう。投身できるのは、「きびしい」絶壁を攀じ登ることができたものだけの特権である。その特権を象徴するのが「頂上の巨岩」であり「垂直」という比喩である。
 「まっすぐな」詩がそこにある。
嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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