青柳俊哉「日付のない朝」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年02月03日)
受講生の作品ほか。
日付のない朝 青柳俊哉
きょうも目が覚める
菜の花の蜜を蝶が吸う
川がせせらぐ
きょうはきのうの続きではない
わたしは詩を書いて
わたしがうまれていない日付をしるす
詩を野にはなつ
花野の野の花
の真珠のような分散和音
うまれるまえからしんだあとまでみつめる
川の音楽
花野をながれていく
谷川俊太郎の詩を取り込みながら(青柳の書いていることばを借用すれば、谷川のことばを「はなつ」ように)書かれた作品。「花野」だけではなく「わたしがうまれていない日付」や「うまれるまえからしんだあとまで」にも、谷川のことばと通い合うものがある。
この作品では、先に触れたが「詩を野にはなつ」が効果的。「はなつ」のなかに「はな」が隠れており、それが直前の「の」と結び合う。その隠れ方/結びつき方は「分散和音」のように、ということになる。
「分散和音」が「音楽」になり、「川」のように「ながれていく」ということばの散らし方が「分散和音」的と言えるだろうか。
青柳の詩は「絵画的イメージ」(重なり合う絵画)が強いのだが、今回は「音楽的」な印象が強い。
*
企業戦士の逃避行 堤隆夫
もうこのあたりでフィナーレでいいんじゃないかと
思い続けて二十年
いつか晴耕雨読の日々を夢見続けて
わたしの顔は もはや躁鬱病のデスマスク
わたしの足は すでに象皮病のエンタシス
わたしの手は ついに白蝋病の白鍵
自己嫌悪の「陰翳礼讃」の快晴日
眼窩のシャドウは 紋白蝶をなぞり
既視感覚の囚われ人は 終身刑
わたしは ウィーンの大観覧車の窓から
二十一世紀の カタストロフィーを予感する
わたしは アマゾネスの乳房に顔を埋め
歓びを演出する
登校拒否の少年と ゲームセンターの小宇宙を漂流し
舞台上と舞台裏の落差に「生存苦の寂寞」を感じ
わたしは 今日も通勤ジャムの渦の中
「銀河鉄道の夜」を夢想する
わたしは理解した
後戻りできない日々の 錆びた悔恨を
取り戻すことのできない日々の 焦燥の緑青を
わたしは歯嚙みし 地団駄を踏む
堤の詩は「音楽的」な要素が多い。終わりから二行目の「焦燥の緑青」は絵画的(色彩的)美しさを「音楽的美しさ」が超越する。「しょうそうのろくしょう」。この美しさは「白蝋病の白鍵」(はくろうびょうのはっきん)と比較してみれば、よりわかりやすいだろう。「白蝋病の白鍵」にも音楽的工夫はあるのだが、それよりも色の方が押さえつけている。「焦燥の緑青」の方が、音にずれがあって、そのずれが技巧を超えた調和になっている。「和音」によって世界が「ふくらむ」感じがする。
音楽的工夫でいえば、もうひとつ、一連目にもおもしろい工夫がある。音よりも「リズム」の工夫といえばいいかもしれない。「私の**は もはや/すでに/ついに」のたたみかけがとてもいい。私は欲張りなので、こういう工夫を見ると、ただこの工夫だけで作品を成り立たせてほしいといいたくなる。
「私の**はもはや/すでに/ついに」だてではなく、「やがて/かつて/やっと」など重ねるとおもしろくなる。時間をあらわす変化だけではなく「きっと」のように、えっ、これ違うじゃないかという要素を紛れ込ませるのもきっと変化があっておもしろい。そのとき、前半と後半、あるいは前後の行の連絡(イメージの関連性)というのは、まあ、あるならあるにこしたことがないけれど、関連させようとしないでも自然に関連してくるものである。作者が関連づけられなくても、読者がかってに関連づける。
こういうとき大事なのは、堤のように論理的な詩人には納得しにくいことかもしれないが、「結論」を捨てることである。リズムさえ守っていれば、旋律は即興で楽しむ。そのためにリズムを守り通すのだから。クラシックは旋律は変えないがテンポは変える、ポップスはリズムは変えないが旋律は変える、という感じかなあ。
ちょっと試してもらいたい。昔(1970年代なら)寺山修司、その弟子(?)の秋亜綺亜が得意としたことばの展開なのだが。
*
ゲーテの椅子 山本和夫
文豪の書斎の
文豪の椅子に坐る。
--私は心の中で自問自答する。
私は日本の詩人です。
無告の民をもって独り任じています。
私は幼稚園の子どもたちのように今日も精いっぱい生きています。
--私は髪をかきむしり、自問自答をつづける。
私は神に誓っていい。
私は影を売ったことがありません。
ただ、それだけで、
ただ、それだけで、
やはり、あなたの椅子に坐る権利を持っています。
--マイン川に沿うた古い都・フランクフルトは、爽やかな初秋だった。
日本の、無告の、無名の詩人が、
いま
ゲーテの椅子にどっかり座って
にっこり。
--フランクフルトのゲーテの家で--
《無告の民》自分の苦しみを告げる所のない民族。孤独な人。
ゲーテの椅子に、ほんとうに座ることができるのかどうか私は知らないが、想像の中で座ったとしてもそれを座ったと言ってかまわないだろう。
「ファウスト」が間接的に引用されているが、そのあとの「ただ、それだけで、/ただ、それだけで、」の繰り返しがおもしろい。一回「ただ、それだけで、」と言っただけでは十分ではない。一度目と二度目の「ただ、それだけで、」の間には、飛躍がある。何かを超えるために、繰り返しが必要だったのである。
リズムは、ことばに、説明できない何か「意味」を超える何かを与える。
「無告の民」「無告の、無名の」が繰り返しにも作者はそういう「意味」を込めているのかもしれないが、「無告の民」ということばに注釈がついているので、なんだか「リズム」が壊された気がする。作者が感じていることを自分で考えてみようという気持ちを、私はそがれてしまった。
「注釈」は、なかなかむずかしい。
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