坂多瑩子「赤い屋根の家」(「ぶらんこのり」11、2011年06月25日発行)
坂多瑩子「赤い屋根の家」は、わからないのことろもあるのだけれど、わからないところはわからなくていい--というのが私の読み方なので、わかるところ(勝手に共感するところと言った方かいいのかな)だけ、書くことにする。
「するとたしかにあたしだ/あたしは/あたしが好きでないから/捨ててやろうとおもった」という部分がとても気に入った。
人間には誰だって「好きな部分」と「好きではない部分」がある。--と、書いて、私は実は、違うと思う。「好きではない部分」というのは、実は、ない。「好きではない」と思っている部分こそ、どうにも捨てられない。ちょうど、この詩の前半に書かれている「年老いた犬」のようなものである。「あたしじゃない」といいたいのだが「懐かしそうな目」で見つめ返してくる。
この「懐かしい」がいいなあ。
「懐かしい」とは何だろう。どういう感覚だろう。「よく知っている」ということかもしれない。「よく知っている」を通り越して、自分が知らないことまで知っているということかもしれない。無意識のほんとう、本能のほんとう--とでもいうべきものかもしれない。
そして、よくよく正直に考えてみると「あたしじゃない」と否定したものこそ、「たしかにあたしだ」なのだ。「なつかしい・あたし」なのだ。それは、「たしか」なことである。
だから(?)という接続詞でいいのかどうか、まあ、よくわからないが、「懐かしい」と「たしかに」というのは、どこかでつながっている。強引に言ってしまえば、私がさっき書いた「ほんとう」とつながっている。「ほんとう」だから「たしか」なのだ。そしてそれは「ほんとう」だから「懐かしい」。
それは、ちょっと視点をずらして考えると--あ、「いま/ここ」が嘘である、ということにならない?
「いま/ここ」が「好き」なふりをしているが、同時に「むり」をしている。「いま/ここ」は「懐かしく」ない。「ほんとう」に思えない。「ほんとう」であり、「たしか」なのは、あの「懐かしい」何かなのだ。
でも、そんなことは認めるわけには行かない。「いま/ここ」を生きているのだから。「懐かしく」「たしか」なもの、「あたしの・ほんとう」を振り切って「いま/ここ」を生きているのだから。
だから、そういう「思い」を引き起こすものは、「捨ててやる」しか、ほかに方法がないのだ。
でも、これって、こういうことって、矛盾だよねえ。どこかが変な具合にもつれあっていて、変じゃない?としか言えない何かだ。
でも(と私は繰り返すのだ)、だからこそ「ほんとう」なのだと思う。何かを自分のことばで言いなおすと、どうしてもわけのわからないことにぶつかってしまう。どっちが「ほんとう」なのか、わからなくなる。茶色の毛のすりきれて、きたない犬が「あたし」なのか、それともそれをきたないと思っているのが「あたし」なのか。「あたし」が犬ではないという証拠はどこにあるのか。
もしかしたら、「犬」が「この犬はきたない」と思っている「坂多瑩子」のことを詩に書いているのかもしれない。「ほんとうは犬のおれが詩を書いてやっているのに、自分で書いているつもりになっている。人間って世話の焼けるやつだね」と思っているのかもしれない。--というのは、私のことばの暴走だけれど。
でも(と、また繰り返してみる)、こうした「矛盾」を正直に書いたことばのなかに、やはり人間はいるのだと思う。矛盾していると感じながら、その矛盾をなんとか潜り抜けようともがく。そこに、詩があるのだと思う。「ほんとう」に触れる一瞬があるのだと思う。

坂多瑩子「赤い屋根の家」は、わからないのことろもあるのだけれど、わからないところはわからなくていい--というのが私の読み方なので、わかるところ(勝手に共感するところと言った方かいいのかな)だけ、書くことにする。
年老いた犬がやってきて
私はお前だよというから
違う
おまえは
茶色の毛はすりきれてるし
きたなくて
後ろ足は棒みたいにつっぱっている
あたしじゃないよ
それでも懐かしそうな目をするから
連れてかえってやった
するとたしかにあたしだ
あたしは
あたしが好きでないから
捨ててやろうとおもった
それである日
赤い屋根の家ごと
みんな
井戸にすてた
「するとたしかにあたしだ/あたしは/あたしが好きでないから/捨ててやろうとおもった」という部分がとても気に入った。
人間には誰だって「好きな部分」と「好きではない部分」がある。--と、書いて、私は実は、違うと思う。「好きではない部分」というのは、実は、ない。「好きではない」と思っている部分こそ、どうにも捨てられない。ちょうど、この詩の前半に書かれている「年老いた犬」のようなものである。「あたしじゃない」といいたいのだが「懐かしそうな目」で見つめ返してくる。
この「懐かしい」がいいなあ。
「懐かしい」とは何だろう。どういう感覚だろう。「よく知っている」ということかもしれない。「よく知っている」を通り越して、自分が知らないことまで知っているということかもしれない。無意識のほんとう、本能のほんとう--とでもいうべきものかもしれない。
そして、よくよく正直に考えてみると「あたしじゃない」と否定したものこそ、「たしかにあたしだ」なのだ。「なつかしい・あたし」なのだ。それは、「たしか」なことである。
だから(?)という接続詞でいいのかどうか、まあ、よくわからないが、「懐かしい」と「たしかに」というのは、どこかでつながっている。強引に言ってしまえば、私がさっき書いた「ほんとう」とつながっている。「ほんとう」だから「たしか」なのだ。そしてそれは「ほんとう」だから「懐かしい」。
それは、ちょっと視点をずらして考えると--あ、「いま/ここ」が嘘である、ということにならない?
「いま/ここ」が「好き」なふりをしているが、同時に「むり」をしている。「いま/ここ」は「懐かしく」ない。「ほんとう」に思えない。「ほんとう」であり、「たしか」なのは、あの「懐かしい」何かなのだ。
でも、そんなことは認めるわけには行かない。「いま/ここ」を生きているのだから。「懐かしく」「たしか」なもの、「あたしの・ほんとう」を振り切って「いま/ここ」を生きているのだから。
だから、そういう「思い」を引き起こすものは、「捨ててやる」しか、ほかに方法がないのだ。
でも、これって、こういうことって、矛盾だよねえ。どこかが変な具合にもつれあっていて、変じゃない?としか言えない何かだ。
でも(と私は繰り返すのだ)、だからこそ「ほんとう」なのだと思う。何かを自分のことばで言いなおすと、どうしてもわけのわからないことにぶつかってしまう。どっちが「ほんとう」なのか、わからなくなる。茶色の毛のすりきれて、きたない犬が「あたし」なのか、それともそれをきたないと思っているのが「あたし」なのか。「あたし」が犬ではないという証拠はどこにあるのか。
もしかしたら、「犬」が「この犬はきたない」と思っている「坂多瑩子」のことを詩に書いているのかもしれない。「ほんとうは犬のおれが詩を書いてやっているのに、自分で書いているつもりになっている。人間って世話の焼けるやつだね」と思っているのかもしれない。--というのは、私のことばの暴走だけれど。
でも(と、また繰り返してみる)、こうした「矛盾」を正直に書いたことばのなかに、やはり人間はいるのだと思う。矛盾していると感じながら、その矛盾をなんとか潜り抜けようともがく。そこに、詩があるのだと思う。「ほんとう」に触れる一瞬があるのだと思う。
