高橋睦郎「船へ ゲーリー・スナイダーと七つの国の詩人たちに」(「現代詩手帖」2010年05月号)
高橋睦郎「船へ ゲーリー・スナイダーと七つの国の詩人たちに」には何回か数字が出てくる。タイトルにも「七つの国」とある。その「数字」に私は惹きつけられた。
3行目の「一週間 七日のあいだ」。ここに私は、この詩のすべてを見た、ここに詩がある、と感じた。
学校教科書的に、国語作文風にいうと、これはことばの重複である。「一週間」は「七日」に決まっている。「一週間」か「七日のあいだ」のどちらかで「意味」は充分につうじる。わざわざいいかえる必要はない。
ところが、3行目で、その言い換えがあるために、「一」と「七」が同じものであることが明確になるのだ。3行目の「一」と「七」は2行目の「一」つの船、「七」つの国の詩人たちの「一」と「七」と重なり、そこには「七」つの国の詩人たちがいるのだけれど、そこにそうしているのは、実はその「七」が「一」だからである。
「詩人」という「一」であり、そしてそれは5行目の「もう一つの声」の「一」につながっていく。詩人というのはどんなにたくさんいても、同じ「一」の声をもとめているのだ。同じ「一」の声と結びつくことで、詩人になる。それを確認する。その旅なのだ。高橋が参加していた旅は。
そして、いったん「一」になれば、それはどこへ行こうと「一」なのである。それがどこであっても「一」つの声につながる「いのち」をそこに出現させる。つまり、詩を出現させる。だから、もう何を書いてもいい。何を書いても、その「一」に触れているから、詩なのだ。
ワープロでは出てこない文字があるので、あとは省略。(「現代詩手帖」で確認してください。)そういう旅、インドもアラビアも区別しない「一」つのものにつながるものとしてとらえてしまう旅のあと、また、数字が出てくる。
詩人が旅をしたのは、「五時間」ではなく「五億年」。「五」という「一」の文字のなかで「時間(1時間、2時間という単位)」と「億年(年という単位)」が結びついて、そのはるかなひろがりを一気に「一」つにしてしまう。
それが詩なのだ。
場所も時間も超えてしまう。場所も時間も超越することばの力が詩である。それは「何億もの」人間、ひとりひとりの人間の違いさえも超越してしまう力をもっている。
最後にもう一度数字が出てくる。
どこに数字がある?と質問されるかもしれない。「数えきれない」が数字である。「無数」という数字である。
いま、何気なく「無数」と書いて、書きながら気づいたのだが、これは不思議なことばである。「ぜろ」を「無数」とは言わない。「数」がないなら、それこそ「ぜろ」なのに、「無数」というとき私たちは、数えきれない、多くの数を思う。
そしてその「無数」とは、実は「一」つの数なのだ。
この詩には「一」「七」「五」という数字がでてきたが、その最後には「無数」という数字がでてきて、その「無数」は「一」「七」「五」という数と同じように「一」つなのだ。「一」のことがらとしてあらわすことのできるものなのだ。
一則多。多則一。「多」のかわりに、高橋は「無(数)」をおいている。それは詩の最後(ことばの運動の最後)になってきたもののように見える(構成ささている)が、書き出しの部分で、すでにすべてを含んでいる。
高橋睦郎「船へ ゲーリー・スナイダーと七つの国の詩人たちに」には何回か数字が出てくる。タイトルにも「七つの国」とある。その「数字」に私は惹きつけられた。
私たちは 乗りこんだ
一つの船 七つの国の詩人たち
一週間 七日のあいだ
めいめいの詩を めいめいに朗読
共通の詩 もう一つの声について
論じあった あげくのこと
3行目の「一週間 七日のあいだ」。ここに私は、この詩のすべてを見た、ここに詩がある、と感じた。
学校教科書的に、国語作文風にいうと、これはことばの重複である。「一週間」は「七日」に決まっている。「一週間」か「七日のあいだ」のどちらかで「意味」は充分につうじる。わざわざいいかえる必要はない。
ところが、3行目で、その言い換えがあるために、「一」と「七」が同じものであることが明確になるのだ。3行目の「一」と「七」は2行目の「一」つの船、「七」つの国の詩人たちの「一」と「七」と重なり、そこには「七」つの国の詩人たちがいるのだけれど、そこにそうしているのは、実はその「七」が「一」だからである。
「詩人」という「一」であり、そしてそれは5行目の「もう一つの声」の「一」につながっていく。詩人というのはどんなにたくさんいても、同じ「一」の声をもとめているのだ。同じ「一」の声と結びつくことで、詩人になる。それを確認する。その旅なのだ。高橋が参加していた旅は。
そして、いったん「一」になれば、それはどこへ行こうと「一」なのである。それがどこであっても「一」つの声につながる「いのち」をそこに出現させる。つまり、詩を出現させる。だから、もう何を書いてもいい。何を書いても、その「一」に触れているから、詩なのだ。
言葉と論理を すべて忘れ
頭と心を からっぽにして
軽くなって さて 何処へ?
塵あくた ゆれる波づら
高く 低く 群れる海どり
高層ビルの ひしめき立つ
半島 と 島 のあいだの
海峡を抜け 外洋に出て
インドへ? アラビアへ?
アララトへ? アトランティスへ?
ワープロでは出てこない文字があるので、あとは省略。(「現代詩手帖」で確認してください。)そういう旅、インドもアラビアも区別しない「一」つのものにつながるものとしてとらえてしまう旅のあと、また、数字が出てくる。
--けれど きっかり五時間後には
めくるめく 五億年から 帰ってくる
詩人が旅をしたのは、「五時間」ではなく「五億年」。「五」という「一」の文字のなかで「時間(1時間、2時間という単位)」と「億年(年という単位)」が結びついて、そのはるかなひろがりを一気に「一」つにしてしまう。
それが詩なのだ。
場所も時間も超えてしまう。場所も時間も超越することばの力が詩である。それは「何億もの」人間、ひとりひとりの人間の違いさえも超越してしまう力をもっている。
最後にもう一度数字が出てくる。
いったい何処へ 行こうというのか
私という船は? 船を乗っ盗った
我儘な 数えきれない船客たちは?
どこに数字がある?と質問されるかもしれない。「数えきれない」が数字である。「無数」という数字である。
いま、何気なく「無数」と書いて、書きながら気づいたのだが、これは不思議なことばである。「ぜろ」を「無数」とは言わない。「数」がないなら、それこそ「ぜろ」なのに、「無数」というとき私たちは、数えきれない、多くの数を思う。
そしてその「無数」とは、実は「一」つの数なのだ。
この詩には「一」「七」「五」という数字がでてきたが、その最後には「無数」という数字がでてきて、その「無数」は「一」「七」「五」という数と同じように「一」つなのだ。「一」のことがらとしてあらわすことのできるものなのだ。
一則多。多則一。「多」のかわりに、高橋は「無(数)」をおいている。それは詩の最後(ことばの運動の最後)になってきたもののように見える(構成ささている)が、書き出しの部分で、すでにすべてを含んでいる。
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