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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(3)

2016-03-07 12:14:48 | 詩集
三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(3)(現代詩文庫206 、2014年08月25日発行)

 三角みづ紀は「現代詩手帖」の「投稿欄」に書いていた。池井昌樹と福間健二が選者。池井が三角に最初に注目し、「一席」に選んでいる。これは、私には衝撃的なことである。私は池井昌樹の詩を中学生時代から知っているが、その池井の詩から感じるものと三角の詩から感じるものが、私のなかでは大きく隔たっているからだ。三角は「ギスギス」、池井は「ぶよぶよ」が私の第一印象だ。
 池井が「谷内六郎の絵が好き」というのも、私のなかでは、どうもうまく結びつかない。谷内六郎の絵は、私は嫌いである。線と色のバランスが嫌いである。ギスギスしている。
 池井は、その「ギスギス」を「ナイーブ」と見ていたのか、ということが、詩集のあとの方に収められている「生(いのち)の真珠(たま)」という文章からわかった。「ギスギス」を池井はまた「ヒリヒリ」とも書いている。私の感じる「ギスギス」を「ヒリヒリ」と読んでいるように思える。
 うーん。
 繰り返しになるが、私の印象では、池井は「ぶよぶよ」であって「ヒリヒリ」ではない。いまの池井は違うが、私が最初に会った池井は太っていて「ぶよぶよ」していたし、中学生のときの詩は、「ぶよぶよ」の気持ち悪さに満ちていた。谷内六郎の「ギスギス」の気持ち悪さの対極にあった。
 こんなことは、どうでもいいことかもしれない。
 しかし、どうにも私には不思議なのである。池井が三角の詩に魅了されたということが。だが、池井には感謝しないといけない。池井が三角の詩を選ばなかったら、私は三角の詩を読むことはなかっただろう。読んだとしても、感想を書くことはなかっただろう。

 池井が最初に選んだ詩を読んでみる。「八月十五日」。

投じられた知らせ
酒と安定剤での彼女の自殺
私は
無感動
明け方に人として産まれたことに泣く
七夕飾りが風に揺れ
教会にて舞う白布
舞う白布と漂う聖歌
そういえば黙祷の鐘は鳴らなかった
カメラのレンズは壊れたままだった
薬が効くまでの私には
お願いだから誰も話しかけないで

(加われなかった着物の参列を想うそしてそれを浮腫の所為にする)

それだのに私は未だ
焼け跡で子供達にまじり
ばらまかれるチョコレイトを欲しているのだ

 この詩に対して、池井は「三角さんの詩は飽くまでも己のためにのみ刻されるもの。」と書いたあと、次のように書いている。

三角さんの詩にはもうひとつ重要な特徴があります。他者の痛みと深く繋がっているのです。殊に最終三行には闇に潜む研ぎ澄まされた魂の嘆きを想いました。みずからの最深部に棲む神様への渾身のうちあけは、他者の最深部に微睡む神様をも呼び覚ますのですね。

 「他者の最深部に微睡む神様をも呼び覚ますのですね。」は「池井の最深部に微睡む神様をも呼び覚ま」した、という意味になるか。私は「魂」「神」というものが存在すると想わないし、感じたこともないので、こういう感想には何の反応もできない。ただし「人間の最深部」を「魂」と呼んでいるのだとしたら、その「最深部」に関しては、いくらか感じるものがある。
 そのことにつまくつなげられるかどうかわからないが……。
 私はこの詩を次のように読んだ。
 
 この詩には「彼女」「私」「子供達」が登場する。最終連の「私」は「子供達」に混じっているのだから、「私」と「子供達」のあいだに区別はない。「私=子供」と言えるだろう。「彼女」と「私」の関係は簡単には特定できないが、私はこれまで読んできた詩と同じように「彼女=私」と読んだ。
 二行目で「彼女の自殺」と書かれている。そのことばどおりだとすると「彼女」は死んでいるのだが、私には死んだとは感じられない。自殺を図ったが、未遂に終わったということだと思う。

明け方に人として産まれたことに泣く

 は、未遂に終わって「明け方」に目覚め、「死ねなかった」と気づき、泣いているのだろう。「無感動」なのは「失敗した/未遂に終わった」という「失意」が動くからだろう。この「失意」が引き起こす世界との断絶、接続感の欠如が、「人として産まれた」は不思議な言い方につながる。「生まれた」ではなく「産まれた」なのは、「人を産んだ」という意識がまじっているからだろう。自分で「産み」、そして「生まれ変わった」のだ。
 ここに「彼女」と「私」の切断と接続がある。切断しながら接続する、接続することが切断するとも読むことができる。
 区別がない。あるいは区別して考えることをやめる、という積極的な要素があるかもしれない。どちらもほんとうなのである。「感動(感情の動き)」を排除、拒絶して「事実」と向き合っているのだろう。
 そのとき「世界」の方はどうなったか。「事実」として何が起きているのか。何が動いているのか。
 いろいろ読み方はできるだろうが「鳴らなかった」「壊れたままだった」ということばに目を止めるならば、いつもと同じ「持続」が、そこに見える。「揺れる」「舞う」「漂う」という動詞がそれに先行して動いているが、それは変化ではなく「なかった」「ままだった」へとつづき、「持続」をあらわしている。
 「世界」はかわらない。「私」のなかには「かわる」ものと「かわらない」ものがあるが、世界は「かわらない」。
 これを「私」にしぼって、「私」から見つめなおす形で言い直すと……。「私」のなかの「彼女」が「私」を「産み」、「私」が新しく「産まれる」が、そこには同じように「持続」がある。「接続」は「持続」という形で存在する。

薬が効くまでの私には
お願いだから誰も話しかけないで

 この「薬」は「安定剤」である。だから「私」というのは「彼女としての私」である。その「彼女」が「自殺=完全に死ぬ」まで、「産む/産まれた新しい人間=私」に話しかけないで、「私」のなかで「切断」が明確になるまで待ってということだろう。
 そう訴えかけながら、「私」は一方で(加われなかった……)ということ思っている。「参列」は「葬儀への参列」だろう。「浮腫の所為にする」は、奇妙な言い回しだが、「葬儀への参列」という欲望を「肉体」のなかに抱え持つということだろうか。「自殺未遂」の傷を「肉体」のなかに「持続」させるということだろうか。
 そのような形で「産み/生まれた私」は「子供」である。「おとな」ではない。まだ「おとな」になっていない。「焼け跡」は「戦後」を思い起こさせるが、それは「現実」の戦後ではなく、「自殺/自殺未遂」後の、「精神/肉体」の戦いのあとの一種の「無」の状況をさすのだろう。「子供」はひとりではなく「子供達」であるのは、三角がそういう「産み/生まれる」を「私」として知っているだけではなく「彼女」でもありうると知っているからだろう。「ひとり」ではなく「複数」。
 ここに池井の言う「他者」とのつながりがあるのかもしれない。
 ただし、私は「チョコレイトを欲してる」という「戦後の子供達」に結びつけられた「動詞」にとても疑問を感じている。その「ギブ・ミー・チョコレイト」といっしょにある「戦後」を三角のものとは思えないからである。「焼け跡」という比喩が「戦後」という比喩、「チョコレイト」をひっぱり出したのかもしれないが。
 「他者の痛みと深く繋がっている」というよりは「他者の痛みを深く頼っている」ということなのかなあ、と私はむしろ逆に思ってしまう。「他者の痛み/痛みとしての他者の存在」が、このころの三角を支えていたのかもしれない。
 そこに「ヒリヒリ」するような「不安」がある。
 これは、私は「苦手」だ。私はそういう「不安」に巻き込まれるのが怖いので、思わず身を引いてしまうなあ。そういう「怖さ」へずぶずぶ(?)と接近していくことができたのは、やっぱり池井が「ぶよぶよ」の人間だからかなあ。「ぶよぶよ」がどこかで池井がほんとうに傷つくことから守っているような気もするのである。
 なんだか変な感想になってしまった。

舵を弾く
三角 みづ紀
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*

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