詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(35)

2013-08-30 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(35)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「まどろみ」という作品の「話者」は「老人」である。「老い」と抽象化して、誰とは書いていないが、谷川も高齢者なので、その「老い」を谷川と思って読むこともできる。

老いはまどろむ
記憶とともに
草木とともに
家猫のかたわらで
星辰を友として

 「星辰を友として」ということばにちょっと驚く。どういう意味でつかっているのかな? 星? うーん、宇宙かな……。星そのものではなく、星のある「場」とういことかな? 「友として」と「とともに」「かたわらで」にはどんな使い分けがあるのだろうか。「意味」はきっと重なり合っているのだと思う。
 まどろんでいるとき、「老い」は何をしているのか。

老いは夢見る
一寸先の闇にひそむ
ほのかな光を
まどろみのうちに
世界と和解して

 そうだねえ。世界と対立したまま、まどろむということはむずかしい。うつらうつらしているのは、世界と和解しているからだ。
 で、そのあと、

老いは目覚める
自らを忘れ
時を忘れて

 まどろんで、夢見て、目覚める--その「主語」を谷川は「老い」と書いているが、ここに書かれていることは「老い」に限られたことだろうか。
 「星辰を友として」という表現は若者にはできないけれど、若者もやはり、記憶や草木や家猫とともにまどろみ、そのときは世界と和解しているだろう。そして、目覚めるとき、やっぱり自分のことを瞬間的に忘れている。時間を忘れている。--これも、また、人間誰にでもあてはまることだと思う。
 それなのに。
 「老い」ということばが主語であるときの方が、「若者」が主語であるときよりも、この詩はぐいと迫ってくるように感じられる。だからこそ谷川は「老い」を主語にしているのだけれど、
 うーん、
 なぜだろう。なぜ「老い」が主語の方がぴったりと感じるのだろうか。
 私が「老い」の領域に近づいているからか。
 そして。
 ああ、老いたら、こんなふうにまどろみから目覚めたいと感じたいと思っているからだろうか。自分が何歳であるか忘れ、いまが何時かも忘れ、まったく新しい瞬間の誕生そのものとして目覚めたいと思っているからだろうか。
 若いときは自分が誰であるか、何ものかを忘れてはいけないし、何をするべきときなのかを忘れてはいけないけれど、老いたら、そういうことを忘れて、「放心」して生きる--それが、人間の「理想」かもしれない。
 なんだかよくわからないが、ここには不思議な「しあわせ」がある。

ことばあそびうた (また) (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店

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