小倉金栄堂の迷子(1)
「ことばが逃げ出した」。夢のなかへ、顔色をうかがうことが得意な「ことば」が密告しに来た。駆けてきたらしく、やっと、それだけを言った。私は、雪道で転び、大腿骨を骨折し、手術の麻酔のあいまいな意識のなかで、そう知らされたのだった。「どのことばだ」と私は聞き返したが、麻酔の夢から覚めると同時に、密告した「ことば」は消えてしまい、同時に「こたえ」も消えたのだった。
しかし、私にはわかった。「あのことば」に違いない。小倉金栄堂の二階、売れ残っていた『廃棄された詩のための注釈』だったか『廃棄された注釈のための詩』だったか、タイトルははっきりとは覚えていないが、その本に、栞のようにノートの切れ端が挟んであり、そこに書いてあった「あのことば」。
活字のように正確な文字。群青のインク。メモというよりは、テキストを筆写したような揺るぎない筆跡。私は、その五文字を記憶すると、紙片を破いてポケットの中に入れ、書店を出ると、側溝に捨てた。雪の季節で、それは雪のように舞った。服のなかに忍び込んだ雪が、服を揺らすとこぼれるように。
「あのことば」は、私が手術で歩けないと知って、つまり追いかけることができないと知って、逃げ出したのだ。だからこそ、私は行かなければならない。小倉金栄堂へ行って、「あのことば」をつかまえ、印刷し、私の詩集に閉じ込めなければならない。なぜなら、「あのことば」は私のものではなく剽窃したものだからだ。そのままにしておくと、「あのことば」は「私は剽窃された。私のいる場所はここではない」と大声を張り上げるに違いない。