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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇430)Obra, Emilio Sanchez Garcia

2024-01-30 22:00:25 | estoy loco por espana

Obra, Emilio Sanchez Garcia

 Sólo puedo reconocer lo que ya sé. Además, sólo puedo reconocer las cosas como quiero reconocerlas. Por ejemplo, estas obras de Emilio. No quiero reconocerlas como hierro, piedra o madera. No puedo evitar reconocerlas como pájaros. ¿Me pregunto a mi mismo porque? Estas obras no ponen huevos. No vuelan en el cielo. Sin embargo, los reconozco como pájaros.
La cognición, el cerebro, es extremadamente egoísta. Distorsionan arbitrariamente los hechos. Y me siento aliviado por el hecho de haberlo "entendido". ¿Pero está bien?
 El gran arte siempre me pregunta: "¿Es correcta tu percepción? ¿Está bien?". Lo que reconozco como pájaro, su forma, tiene el poder de preguntar si es correcta. Siento que estas son pájaros, pero por alguna razón siento como si me estuvieran golpeando en la cabeza. Algo me grita: "¡Despierta!" Ese algo es el "lo real" en la obra de Emilio.

 私はすでに知っているもの(知っていること)しか認識できない。しかも、自分が認識したいようにしか、認識できない。たとえば、このEmilioの作品。それが鉄であるとか、石であるとか、木であるという具合には認識できない。どうしても鳥だと感じてしまう。なぜなんだろうか。この作品は、卵を生むわけではない。空を飛ぶわけではない。しかし、鳥だと認識してしまう。
 認識、脳というのは、非常にわがままなのだ。勝手に事実をねじ曲げてしまうのだ。そして、「理解」したことのなかで安心してしまう。しかし、それでいいのか。
 優れた芸術は、いつも、「お前の認識は正しいのか、それでいいのか」と問いかけてくる。私が鳥として認識しているもの、その形は、それで正しいのかと問いかけてくる力を持っている。これは鳥だと感じながら、私はなぜか頭を殴られているような気持ちになる。目覚めろ、と何かが叫んでいる。何かとは、Emilioの作品のなかにある「本物」だ。

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ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)

2024-01-30 17:18:43 | 映画

ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)(中洲大洋スクリーン1、2024年01月29日)

監督 ヨルゴス・ランティモス 出演 エマ・ストーン、マーク・ラファロ、ウィレム・デフォー

 簡単に言ってしまえば、これは映画ではなく「安直な文学(大衆小説)」です。つまり、スクリーンで展開されていることをことばに置き換え、ストーリーにすると、それなりにおもしろい。趣向が変わっているので「純文学」と思い、ストーリーがよくわかるというので、絶賛する人がいるかもしれない。ちなみに、映画COMには、ストーリーをこんなふうに要約している。「不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は、放蕩者の弁護士ダンカンに誘われて大陸横断の旅に出る。大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく。」
 問題は、「新生児の目線で世界を見つめる」なんだけれど、これは「驚くべき成長を遂げていく」に合致しない。成長するに従って「新生児の目線」ではなくて、「成熟した女性の視線」で世界を見つめる。つまり、女性の目覚めを描いているという点では「ジュリア」のようなものなのだが、これを「新生児」なのに「大人の体」を持った女性を登場させることで、なんといえばいいのか、一種の「パロディー」にしてしまっている。女性が自分自身の性に、そして社会の不平等さに目覚め、自立していくということが、ひとりの女性の生き方として描かれるのではなく、「女性というものはこういうもんだよ」と要約されてしまっている。女性が、肉体を持った魅力的な人間としては描かれてはいない。あからさまにいって、エマ・ストーンの繰り広げるセックスシーンを見て、あ、こんなセックスをしてみたいと思った観客が何人いるだろうか。エマ・ストーンに、こんな表情をさせてみたい、エマ・ストーンのこんな表情をセックスのときにしてみたい、そう思った人が何人いるだろうか。だれも、そんなことを思わないのではないのではないか。肉体を抜きにして、頭のなかで、ことばだけで、想像していた方が楽しいだろう。
 さらに言えば、成長を遂げていくのが主人公だけであって、主人公に出会うことによって「世界」(他人)が目覚めていかないというのが、この映画(ストーリー)の最大の問題点。世界は変わりません、エマ・ストーンだけがかわります、というのでは、ストーリーを人間が体現して見せるだけの「意味」がない。アニメでも人形劇でもいい。いっそう、その方が「リアル」だったと思う。
 予告編や宣伝をかなりいい加減に見ていたせいか、私は「大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめる」ことによって「世界の本質があばかれていく」という映画だと思っていた。ぜんぜん、そうではなかった。世界の本質も暴かれなければ、女性が目覚めるわけでもなかった。(目覚めたのかもしれないが、それは、もう語り尽くされた目覚めにすぎなかった。)
 唯一おもしろかったのは、エマ・ストーンが乗る馬車、というか、車というか。エンジン(?)つきの車なのだが、まわりが馬車の時代なので、運転手がハンドルではなく、機械仕掛け(?)の馬の上半身を手綱であやつっている。ほんとうは「進歩」しているのに、世界の(周囲の)状況にあわせて、あえて「古い」を装っている。これは、いわばこの映画の逆説にもなっている。ほんとうは「古い」のに「新しい」を装っている。装いにだまされることが好きな人は、まあ、満足するかもしれない。月に2本映画を見るのは厳しい、という年金生活者には、ああ、金を無駄遣いしてしまったなあという気持ちが残ってしまう映画だった。


 


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こころ(精神)は存在するか(6)

2024-01-30 15:39:10 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第六巻。「ホメーロス批判」の125ページに「まとめなおす」ということばが出てくる。「まとめる」という動詞と「なおす」という動詞が組み合わさったことばである。「イリアス」を完成させたのは誰か。複数の人間が、現在残っている形に「ととのえおなした」のではないか。そこには複数の人物の「構想力」が交錯しているのではないか。
 この「まとめる」という動詞は170ページにも登場し、「まとめなおす」は171ページでは「整理して」「編み込む」という形で出てくる。
 私が「構想力」ということばで呼んだものを、和辻は「見渡す」ということばをつかいながら「全体の構図を見渡す」(177ページ)と書いている。「全体の構図(全局ということばが178ページにある)」を見渡す力が「構想力(和辻のつかっている構図ということばのなかに、同じ構という漢字がある)」である。「見渡す」そのものは(175ページ)に出てきて、それは「見とおす」(183ページ)ということばにもつながっている。
 和辻の文章の基底には、いつも肉体の動き、具体的な動詞が存在する。
 「編み込む」という動詞に関連しては、195ページで「手の働きが見出せる」と書いている。和辻には、「手」が見えるのである。「頭の動き」ではなく、「手の働き」として、ことばをとらえているのである。精神の動き、こころの動きというような、抽象的なものではなく、あくまで「手の働き」に引き戻して、ことばと肉体をつないでいるように感じる。私が和辻の文章に惹かれるのは、それがあるからだ。
 ついでに書いておくと、和辻は「手の動き」ではなく「手の働き」と書く。「動く」は単独で可能だが、「働く」という動詞は「相手(対象)」が必要である。そこには「具体的な接触」がある。自分の肉体が、何かと「接触」し、それを「動かす」。それは逆に言えば、「対象(相手)」しだいで、自分自身の「働き方」を変えないと何もできないということでもある。「働く」ということは、自分自身が変化することでもある。

 このことと関連すると私は考えているのだが、和辻は「思想」ということばを否定的な意味合いでつかっている。168ページ。

この作者にあるのは人間の運命が神々に支配されているという「思想」だけであって、神々の世界と人間界という二つのことなった世界の並行的なヴィジョン(幻視)ではない。

 和辻は、「思想」と鍵括弧付きで、このことばをつかっている。「固定化された考え方」(規定の考え方、動きのないもの)という意味であるだろう。それは「意図(結論が想定されている)」につながるかもしれない。動く「思考」ではなく、動いたにしろ「結論」が判明している何か、それにつながるものが「思想」である。そこでは、自分は動いていかない、変化しない。
 ここから、もう一度、43ページのことば読み直してみる

 Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができた

 「思想」とは「哲学」である。「約束された世界(結末)」である。一方「文学」には「約束された結末」がない。ただ「構想力」があるだけで、それはどこへ動いていくかわからない。人間が、生きて、動いていく。
 和辻は文学の登場人物に人間の動きを見ると同時に、その作者にも「肉体の動き」を見ている。「まとめなおす」「見渡す」「見とおす」「編み込む」「手の働きが見出せる」ということばが、それを語っている。
 人間に精神とかこころとか呼ばれるものがあったにしろ、それは「目(で見る)」とか「手(で編む)」とか、肉体の動きに還元できるものである。

 これは、逆の言い方もできる。和辻のことばではないが、百人一首の平兼盛の歌、「忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。恋(こころの動き)は色(素振り、態度)になって、人にわかってしまう。見られてしまう。どんなときにも、人間には「肉体」がある。

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(73)

2024-01-30 14:44:33 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「陶工」。壺や鍋をつくっている陶工。土が残った。だから、

女を造った。乳房を硬く大きくした。

 ギリシャ語では、どう書いてあるのだろうか。たぶん、句点「。」ではなく読点「、」でつながる一行、いや、読点さえもないかもしれない。それ以上に気になるのが「硬く」ということばである。
 粘土でつくるおんな。乳房がやわらかいわけがない。どうしたって硬い。
 そこで、思うのだ。たとえばミロのビーナスの乳房。あれは硬いか、やわらかいか。大理石だから、触れば硬い。しかし、見かけはどうか。どれくらいのやわらかさか。
 ここには、男(陶工)の夢が託されている。それは詩を最後まで読むとわかるのだが、「硬さ」というひとことで、詩の展開を「予言」させているところがとてもおもしろい。そのポイントを緊張感のあることば、文体で中井は訳出している。

 

 

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