フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』(土岐恒二訳)(集英社、1978年12月20日発行)
フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』(土岐恒二訳)を再読した。入院中に読んだ短篇再読のつづき、という感じで。ただし、再読と言っても、前に読んだときは本のページにしたがって読んだだけ。今度はコルタサルが指示している順序(指定表)で読んだ。
そして、あっ、と声を上げた。
全部で155の断章から構成されているのだが、最後の方は131→58→131と同じ「131」が前後して出てくる。まあ、こういうのは映画のラストシーンなんかにはありそうだけれど、小説では珍しい。
でも、あっ、と声を上げたのはそこではない。
指示表にしたがって読んでいくと、「55」(296ページから300ページまで)を読み落とすことになるのである。
冒頭の「指定表」以外に、各断章の末尾には、括弧で次に読むべき断章の番号が明記されているのだが、この末尾の番号も「55」に限っては書かれていない。指定表が間違っているわけではなく、意図的なのだ。
そして、というか、ということは。
コルタサルは、実は、この「55」をこそ書きたくて、『石蹴り遊び』を書いたのだ。ここにこの小説のすべてが書かれているのである。『石蹴り遊び』を「短篇」に書き直すと「55」になるのである。
『石蹴り遊び』の主要な登場人物は、オラシオとラ・マーガ、トラベラーとタリタ。舞台はパリとブエノスアイレス。オラシオとラ・マーガはパリで暮らしていた。オラシオはブエノスアイレスに帰って来てトラベラーとタリタに会う。ラ・マーガはパリで自殺している(溺死)。オラシオはタリタをラ・マーガと見間違う、という感じでストーリーは展開する。タリタ(ラ・マーガ)を真ん中に、オラシオ、トラベラーの「三角関係」のようなものが動く。オラシオは最後は飛び下り自殺(?)をする(した)らしい。瀕死のベッドで、オラシオは自分の生涯を振り返っている、という風に私は全体を把握していたのだが……。
で、それが「55」では、
<blockquote>
しかしトラベラーは眠っていなかった。悪夢は一、二度襲来を企てたのち、彼の周囲を旋回しつづけ、結局彼はベッドの上に身を起こして明りをつけた。
</blockquote>
ではじまり、
<blockquote>
--ラ・マーガはわたしだったの--とタリタは言って、トラベラーに体を押しつけた--。あなた気がついていたかしら。
</blockquote>
をはさみ、
<blockquote>
タリタはベッドの上で少し体を滑らせてトラベラーに凭れかかった。彼女は実感していた、自分がふたたび彼のそばにいることを、彼女が溺れ死にはしなかったことを、(略)二人はそのことを同時に感じ取り、互いに相手の方へ滑り込んで言ったのだった(略)、二人を包みこむ共通の領域へ落ちこんで行くように。それらの心静まる比喩、いつもの存在に戻ることに満足する、風と潮に逆らって、呼びかけと下降に逆らって、浮かび漂いつづけること、浮かび漂ったままでいることに満足する、あの古い悲哀。
</blockquote>
と終わる。
重要なのは「同時」であり「共通」である。生と死は「同時」に存在し「共通」している。オラシオの夢のなかでラ・マーガは死に、トラベラーの夢のなかでオラシオが死ぬとき、タリタの夢のなかでラ・マーガはよみがえる。単によみがえるのではなく、タリタとなってよみがえる。そして、ラ・マーガがよみがえれば、オラシオもよみがえるはずであり、そのときオラシオはトラベラーになる。
それは、だれの夢なのか。
私は突然、ジョイスの『ユリシーズ』を思い出す。『ユリシーズ』の「主役」はだれなのか。「主役」を問うて、何かが解決するわけではないが、私はブルームに身を寄せて小説を読んでいる。しかし、その最後はモーリーの「イエス」の連続で終わる。そうであるなら(?)、『石蹴り遊び』も、自分がラ・マーガであることを受け入れた(イエス、と言った)タリタの夢かもしれない。
男が(コルタサルが、ジョイスが)、自分では見ることのできない「夢」を女性を登場させることで(自分が女性になることで)、男には不可能な「夢」を見ているのかもしれない。絶対的現実、超越的現実の世界を手に入れようとしているのかもしれない。
このとき、もうひとつ、「浮かび漂う」という動詞も重要になるだろうと思う。短篇を再読したとき、コルタサルは「意識の流れ」ではなく「思いの流れ」を書いている、と指摘した。「浮かび漂う」のは「思い」である。「結論」など求めていない。「結論」へとたどりつくことを放棄して、いま、ここで、二つのもの(複数のもの)が「同時」に出会い、「同時」に漂うとき、そこに生まれてくる「共通」の思い、思いを結びつける「共通」の何か。それを味わうことが「生きる」ということなのか。
いつかは、自分の好きな順番に、私の「指定表」をつくらなければならない。それが完成したとき『石蹴り遊び』を読んだと言えるのかもしれない。
小説も詩集と同じように、自分の好きなところを、自分の好きな時間に読んで味わうものなのだろう。そういうことを『ユリシーズ』も『石蹴り遊び』も教えてくる。
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