詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『どこからか言葉が』

2021-06-19 18:41:14 | 詩集

 

谷川俊太郎『どこからか言葉が』(朝日新聞出版、2021年06月30日発行)

 谷川俊太郎『どこからか言葉が』は朝日新聞に連載された詩。『こころ』の作品群に比べると若干長い。『こころ』が毎週掲載だったのに対し、『どこからか言葉が』が毎月だったことが影響しているのかなあ。そして、長くなった分だけ、少し理屈っぽくなっている。論理が目立っている気がする。

 最初の作品「私事」には「わたくしごと」というルビがある。

バッハが終わってヘッドフォンを外すと
木々をわたる風の音だけになった
チェンバロと風のあいだになんの違和もない
どこからか言葉が浮かんで来たので
ウェブを閉じてワードを開けたが
こんな始まり方でいいのだろうか 詩は


 この一連目は、新しい連載の始まりとしてとてもおもしろい。「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」という一行は散文的だが、散文的であるところに、私は詩を感じる。これは「父の死」に通じる。精神が動いていることが、ことばの動きそのものとして、とてもくっきりとわかる。
 「チェンバロと風のあいだになんの違和もない」には、それこそ「どこからか言葉が浮かんで来た(詩)」という印象があるが、それだけに「枠にはまった詩」という感じがする。すでにいまは存在しないチェンバロの音の記憶と、いま聞こえる風の音の「あいだ」にあるのは音そのものではなく、音に対する意識である。その意識は、谷川のことばを借りれば「私事」というものだろう。
 この「私事」に谷川は疑問を持っていない。
 けれども「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」という意識(私事)は疑問の形を持っている。そして、疑問が疑問として書かれているところに、意識の動きがよりわかりやすく描かれている。
 それは別なことばで言いなおせば、谷川のことばが、私に強く働きかけてくるのを感じる。谷川のことばに対して、私のことばが動こうとしている、その瞬間の動きを感じる、ということだ。私は自己中心的な人間なので、他人のことばが動いているだけでは、そこに詩を感じない。他人のことばが動き、それにつられて私のことばが動き出そうとする瞬間に、詩を強く感じる。そして、その瞬間というのは、「チェンバロと風のあいだになんの違和もない」というような、いわゆる「詩的」なことばよりも、「散文的」な動きのあることばに触れたときに感じることが多い。

これからしばらくこの紙面に月一回
何かを書かせてもらえることになった
詩として恥ずかしくないものを書きたいが
音楽と違って言葉には公私の別がある
非詩を恐れるほど臆病ではないが
独りよがりのみっともなさは避けたい


 この二連目は、著しく散文的である。ここまで散文的であると、私は詩を感じない。「私事」が書かれていないわけではないだろうが、「公にされた私事」という印象がある。言いなおすと、「言い訳」かなあ。
 そのなかにあって「音楽と違って言葉には公私の別がある」には驚かされた。私はそんなことを考えたことがない。だいたい、「音楽に公私の区別がない」と仮定して、それでは音楽は「公」なのか「私(事)」なのか。公の場で聞くか、個人的な場(たとえば自分の部屋)で聞くかの違いはあるが、音楽そのものに「公私」の別があるのか、ないのか、私にはわからない。そして、それはさらに、ことばも同じではないかという気がする。つまり「公の場」で発表されたか、公にされず「私事の場」で語られたかの違いがあるだけなのではないのか。「場」のありかたが「公私」を区別するだけで、ことばそのものに「公私」があるとは思えない。
 谷川は何を言いたかったのかなあ。
 この疑問は、さらに、では、この詩は「公」にされているので、「私事」ではないのか、というと、そうではない。「独りよがりのみっともなさは避けたい」はあくまでも谷川の「私事」の願いだろう。「公にされた私事」という変なものも、ことばにはあるのだ。音楽には、そういうものがあるかな? 誰かに個人的にささげた音楽が、いつかどこかで公開されたという場合は、それにあたるのかな?
 三連目。

今これを書いている小屋は私より年長
赤ん坊の頃から毎夏来ている
六十年前ここでこんな詩句を書いていた
「陽は絶えず豪華に捨てている
夜になっても私達は拾うのに忙しい
人はすべていやしい生まれなので
樹のように豊かに休むことがない」


 これも「公私」の問題でいえば「公にされた私事」である。そして、その「公にする」という動きは、きっとことばのどこかに影響しているはずである。
 どこかなあ。
 ややこしいことに「六十年前」のことばが「引用」されている。それは「公」にされたものか、未公表のものか。私のような中途半端な読者には判断がつかない。好きな詩ならば、あ、これは読んだことがあると記憶しているが、読んだときに強く印象に残らなければ記憶していない。私は、最後の四行に記憶がない。
 これが、私の書いていることをさらにややこしくする。
 「公にされた言葉」だからといって、それがほんとうに「公」のものであるかどうかはわからない。どんなに「公」にされたことばであっても私の意識のなかで「公事」にはならないものがある。そして、それはさらに複雑な問題を引き起こす。谷川の書いたことば(公にしたことば)のなかのどのことばを私(谷内/読者)が「私事/私のもの」として受け取るか、そんなことはだれにも決められないということである。
 私は詩を読むとき、いつでも「私事」を探して読む。その詩のなかに、どうしてもあらわれてこないければならなかった「個人的な肉体そのもの」のようなことばを探す。それを「キーワード」と読んでいる。『女に』という詩集では、一回だけ出てきた「少しずつ」がキーワードだった。そういう指摘は、谷川にどう届いたか、私にはわからない。谷川には「少しずつ」に「私事」という意識はないというかもしれない。「公にした」という意識もないかもしれない。でも、その「意識がない」ところに、私は「肉体」を感じ、どうしても何かを書きたくなるのである。

 さて。
 「言葉には公私の別がある」とは、どういうことだろうか。
 まあ、「答え」は出さすに、放置しておく。「結論」には意味がない。考えている途中、ことばが動くだけである。

 さて、と私はもう一度書く。考え直す。一連目の最後「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」と谷川は書いていた。私は、それで「いい」と思う。
 でも、詩の終わり方は? 新しい詩の終わりが、旧作からの引用? そういう終わり方でいいのだろうか、詩は。
 書かれていない一行が、ふっと浮かびあがってくる。そのときの「こんな終わり方でいいのだろうか、詩は」という一行は、だれのものだろう。谷川は、そういうことを思いながら書いたかどうか。こんなことを思うのが私だけだとしたら、それは「私事」の疑問。そのことに気づくと、私は最初に戻って「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」と対話していることになる。
 「対話」を誘ってくれるものが、私にとっては「詩」なのだ。というのは「私事」。あくまでも「私の定義」であって、ほかのひとが詩をどう定義するかは知らない。
 そして付け加えておけば、私は、いわゆる詩よりも、対話を誘ってくれることばの方に惹かれるのである。プラトンの対話篇。あれはたしかに「散文」と呼ばれるものだけれど、私にはかけがえのない詩。単独で、何にも頼らずに存在している一行の美しさは美しさとして、多くの詩が持っているが、そういう屹立した美しさとは別の、対話を誘い出すことばの方が、私は好き。
 「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」は、とても好きな一行である。

 

 

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読売新聞6月19日「編集手帳」

2021-06-19 18:35:10 | 自民党憲法改正草案を読む

読売新聞6月19日「編集手帳」(https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20210619-OYT8T50000/)

 6月19日の読売新聞「編集手帳」が、先のG7の復習(?)をしている。
 https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20210619-OYT8T50000/
 NATOがなぜ誕生したかを、架空のドラマに登場する米国務長官のことばを引用して説明している。「大戦を招いたのは近隣国間の軍事力の格差よ。強大な武器を持った国は何かが欲しくて弱い国を征服したくなる。NATOができるまではその繰り返し…」
 そのあとで、台湾問題に触れて、こう書くのである。

先頃の先進7か国首脳会議の宣言に台湾問題が初めて明記された。現状変更に向かう中国の動きを 牽制したものである。(略)海峡を挟んで位置する国が、「征服したくなる」欲求を抑える気もないことは言うまでもない。先々が不安だ。


 ドラマ(架空の話)と現実をごちゃまぜにするのは「論理」としておかしい。さらに、その論理のなかに「台湾=中国の隣国」といういままで採用して来なかった論理をすりこませて結論を展開するのはどうしたっておかしい。
 オリンピックにだって、台湾は「国」としては参加していない。「地域」として参加している。菅が強行開催する予定の東京オリンピックにだって、台湾が参加するとしたら「地域」として参加するだろう。けっして「台湾」という「国」として参加するわけではない。(他のジャーナリズムも同じはず。)
 いま、なぜ、台湾を「国」と定義するのか。
 台湾を「国」にしたがっているのは、だれなのか。日本か。アメリカか。
 アメリカである。
 台湾を「国」として認定し、台湾と国交を締結する。その後、アメリカ軍基地を台湾につくる。もし、台湾が独立した国であるなら、台湾がどこの国と国交を結ぼうが、他国はそれに干渉できないし、台湾がアメリカ軍基地を受け入れることについても干渉はできない。反発は表明できるが、阻止することはできない。
 アメリカは台湾を基地にして、中国(本土)に圧力をかけたいだけなのだ。「小国」を守るという口実で、「大国」との敵対をあからさまにしてみせるだけなのである。
 ケネディ・フルシチョフ時代のキューバを思い出す。
 そして、同時に、私は沖縄を思う。
 アメリカは台湾を沖縄のように利用しようとしている。
 菅がアメリカの姿勢に同調するのは、すでに沖縄をアメリカの支配下に置くことに同意しているからである。沖縄がアメリカの支配下になっても、何も感じていないからである。
 ここから逆に考えてみよう。
 日本は沖縄が日本の一部(領土)であることを認識しながら、沖縄がアメリカの基地となって、対中国政策に利用されることを、沖縄県民の(地本国民の)人権侵害ととらえていない、ということなのだ。沖縄がどうなろうが、日本本土(なんという、いやらしいことばだろう)さえ安全ならばそれでいい、という考えなのだ。
 こう考える菅政権が、台湾がどうなろうが、台湾にアメリカ軍基地ができれば、日本の安全はより高まる、と考えるのは当然である。
 こういう考えを、正面切って展開するのではなく、ドラマのなかの米国務長官のことばを引用しながら展開する。
 ここに、なんともいえない、むごたらしい暴力が潜んでいる。
 読者をあまりにもばかにしている。
 さらに。
 「小国」に対する「大国」の侵略という構造で問題にするなら、いま問題にしなければならないのはイスラエルとパレスチナであろう。イスラエルはパレスチナ人の住んでいる土地に移り住み、どんどん「国」を拡大していった。パレスチナ人は住むところを失い続けている。
 なぜ、パレスチナ人を支援しようという動きが、アメリカ・日本の連係として起きないのか。
 理由は簡単である。アメリカはイスラエルを「国」とは考えているが、パレスチナを「国」と認めていないからである。イスラエルとパレスチナの間で起きていることを「戦争」(人権侵害)と認めていないからである。
 そういう国が、台湾を「国」として支援し、中国という「国」に圧力をかけようとしている。
 こうした論理矛盾に目をつむり、知らん顔してドラマの中の米国務長官のことばを引用し、「正論」を展開しているつもりになっている。「正論」を装って、アメリカの暴力を蔓延させようとしている。
 引用で省略した部分を読むと、そのごまかしの「手口」の薄汚さがいっそう際立つ。

JR仙台駅の大型モニターに今、台湾の人たちの笑顔があふれているという。東日本大震災の際に届いた義援金や励ましへのお礼を伝えたところ、礼の礼として「東北が大好き」「東北を旅行したい」などの思いを紙に書いて掲げる人たちの映像が返ってきたそうだ


 台湾の人(国民?)は、こんなに日本人に親しみを感じている。台湾の安全を守るために日本も協力しよう。アメリカと一緒になって、中国に立ち向かおう。そう言いたいがために、台湾のひとたちの「笑顔」を利用している。
 国際政治の問題と、市民交流の問題をごちゃまぜにして、市民の味方をするふりをして、政治の暴力を隠している。
 悪辣極まる論理展開である。
 

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(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
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読売新聞は、いつから台湾を「国」と呼ぶようになったのか。

2021-06-19 10:28:54 | 自民党憲法改正草案を読む
 
6月19日の「編集手帳」が、先のG7の復習(?)をしている。
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NATOがなぜ誕生したかを、架空のドラマに登場する米国務長官のことばを引用して説明している。「大戦を招いたのは近隣国間の軍事力の格差よ。強大な武器を持った国は何かが欲しくて弱い国を征服したくなる。NATOができるまではその繰り返し…」
そのあとで、台湾問題に触れて、こう書くのである。
↓↓↓↓
「先頃の先進7か国首脳会議の宣言に台湾問題が初めて明記された。現状変更に向かう中国の動きを 牽制したものである。(略)海峡を挟んで位置する国が、「征服したくなる」欲求を抑える気もないことは言うまでもない。先々が不安だ。」
↑↑↑↑
ドラマ(架空の話)と現実をごちゃまぜにするのは「論理」としておかしい。さらに、その論理のなかに「台湾=中国の隣国」といういままで採用して来なかった論理をすりこませて結論を展開するのはどうしたっておかしい。
オリンピックにだって、台湾は「国」としては参加していない。「地域」として参加している。菅が強行開催する予定の東京オリンピックにだって、台湾が参加するとしたら「地域」として参加するだろう。けっして「台湾」という「国」として参加するわけではない。(他のジャーナリズムも同じはず。)
いま、なぜ、台湾を「国」と定義するのか。
台湾を「国」にしたがっているのは、だれなのか。日本か。アメリカか。
アメリカである。
台湾を「国」として認定し、台湾と国交を締結する。その後、アメリカ軍基地を台湾につくる。もし、台湾が独立した国であるなら、台湾がどこの国と国交を結ぼうが、他国はそれに干渉できないし、台湾がアメリカ軍基地を受け入れることについても干渉はできない。反発は表明できるが、阻止することはできない。
アメリカは台湾を基地にして、中国(本土)に圧力をかけたいだけなのだ。「小国」を守るという口実で、「大国」との敵対をあからさまにしてみせるだけなのである。
ケネディ・フルシチョフ時代のキューバを思い出す。
そして、同時に、私は沖縄を思う。
アメリカは台湾を沖縄のように利用しようとしている。
菅がアメリカの姿勢に同調するのは、すでに沖縄をアメリカの支配下に置くことに同意しているからである。沖縄がアメリカの支配下になっても、何も感じていないからである。
ここから逆に考えてみよう。
日本は沖縄が日本の一部(領土)であることを認識しながら、沖縄がアメリカの基地となって、対中国政策に利用されることを、沖縄県民の(地本国民の)人権侵害ととらえていない、ということなのだ。沖縄がどうなろうが、日本本土(なんという、いやらしいことばだろう)さえ安全ならばそれでいい、という考えなのだ。
こう考える菅政権が、台湾がどうなろうが、台湾にアメリカ軍基地ができれば、日本の安全はより高まる、と考えるのは当然である。
こういう考えを、正面切って展開するのではなく、ドラマのなかの米国務長官のことばを引用しながら展開する。
ここに、なんともいえない、むごたらしい暴力が潜んでいる。
読者をあまりにもばかにしている。
さらに。
「小国」に対する「大国」の侵略という構造で問題にするなら、いま問題にしなければならないのはイスラエルとパレスチナであろう。イスラエルはパレスチナ人の住んでいる土地に移り住み、どんどん「国」を拡大していった。パレスチナ人は住むところを失い続けている。
なぜ、パレスチナ人を支援しようという動きが、アメリカ・日本の連係として起きないのか。
理由は簡単である。アメリカはイスラエルを「国」とは考えているが、パレスチナを「国」と認めていないからである。イスラエルとパレスチナの間で起きていることを「戦争」(人権侵害)と認めていないからである。
そういう国が、台湾を「国」として支援し、中国という「国」に圧力をかけようとしている。
こうした論理矛盾に目をつむり、知らん顔してドラマの中の米国務長官のことばを引用し、「正論」を展開しているつもりになっている。「正論」を装って、アメリカの暴力を蔓延させようとしている。
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台湾の人(国民?)は、こんなに日本人に親しみを感じている。台湾の安全を守るために日本も協力しよう。アメリカと一緒になって、中国に立ち向かおう。そう言いたいがために、台湾のひとたちの「笑顔」を利用している。
国際政治の問題と、市民交流の問題をごちゃまぜにして、市民の味方をするふりをして、政治の暴力を隠している。
悪辣極まる論理展開である。
 
 
 
 
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