詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

心配でならない・・・・

2020-10-15 23:46:57 | 自民党憲法改正草案を読む
菅の「学術会議新会員6人拒否」の問題。(フェイスブックに書いたことを再録。フェイスブックの書き込みは、ときどき消えてしまう。)


戦争法案のときも感じたが、日本の言論界は、なんというか「内戦状態」になっている。
そして、その「内戦」のいちばんむごたらしいと感じるのは、「論理」がかみ合っていないこと。
しかも、その「かみ合わない」状況を作り出しているのが権力側(権力を応援する側)ということ。
この「内戦」を戦うのは、とても難しい。
なぜか。
菅を批判している人は(私を含めて)、「6人任命拒否」が合法かどうか、拒否の基準は何か(だれが選別したのか)ということだけを問題にしているのに、菅を支援する人はそれにはいっさい答えない。
それだけではない。
菅支持派は、学術会議批判をし、存在意義を問うという「論点ずらし」をしてる。
この「論点ずらし」は、どこまでも拡大できる。
「学問はどこででもできる」というテキトウな発言にはじまり、とんでもない「6人任命拒否」が法的に正しいことなのかどうか、6人の排除に菅がどう関わっているのかということには応えず、学術会議の会員は学士院会員になれるとか、年金がたくさんもらえるとか、学術会議は中国の戦略に加担しているとかいう嘘まで飛び出している。その嘘には現職の大臣まで加わっている。
学者の世界(学者の実態)はふつうの国民にはわからない。そのわからないということを利用して、言いたい放題になっている。
この「嘘(間違い)」を放置しておくと「嘘」が社会に流布してしまうし、その「嘘」を指摘し、正していくと、その過程で「6人の任命拒否」の問題が徐々に隠れてしまう。
「論点隠し作戦」に「論点追及派」は必然的に敗北してしまうのだ。
もうひとつ、別の問題もある。(共通している部分があるのだが。)
「戦争法」のときは自衛隊が海外へ行って武力を行使することが「自衛権」になるのかどうか(そんなことをしていいのかどうか)が問題だったのに、日本が攻撃されたら自衛隊だけでは守れない、アメリカの支援が必要だ(なかには、アジア諸国を含めて、集団的に日本を間も間必要がある)という論点ずらし、さらには日本を守ろうとしないのは日本人じゃない(中国、北朝鮮へゆけ)というような、戦争法に反対するひとを「反日」ということばでくくってしまう言論が横行した。
今回の問題は、私の感じでは「戦争法」のときよりも危険だ。
それは「6人拒否」に杉田がかかわっていたとこからわかるように、「警察」がろこつに動いているということだ。「警察国家」が「内戦」を横から動かしているということだ。
そして、この「警察」の動きは、てとも見えにくい。
戦争法のときはデモの規制など、「可視化」されたもの(目で見てわかるもの)だったが、今回のことは、目には見えない。
「具体的な資料」は105人のリスト(99人と、6人のリスト)だけである。
あとは、「ことば」。
「ことば」で戦うしかないのに、「ことば」を隠す作戦(論点ずらし)が権力の力で動いている。
一部のジャーナリズムも、問題を報道しないことで、ろこつに権力の側に立って「論点ずらし」に加担している。
ほんとうにたいへんなことが起きる。
すでに起きている。
こういう「書き込み」もしっかりと監視されているに違いないのだが、この監視のなかで、どうやって「ことば」を鍛え直し、一人でも多くのひとと「共有」するか。
私は無名の「ことばの愛好者」にすぎないが、ほんとうに不安でしようがない。
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「警察国家」

2020-10-15 15:54:15 | 自民党憲法改正草案を読む
「警察国家」

   自民党憲法改正草案を読む/番外406(情報の読み方)

 日本学術会議の新会員任命を巡って、突然(でもないのかもしれないが)、杉田という人物が浮上してきた。「元公安」の人物らしい。
 ここで思い出すことがひとつある。
 平成の天皇が「生前退位の意向」というニュースが2016年の参院選直後にNHKから放送された。NHKのスクープである。「情報源」はまだ明らかにされていない。私は、これを安倍の「リーク」だと思っているのだが、安倍は「宮内庁」側に情報源があるという見立てから、宮内庁長官の風岡を更迭し、内閣危機管理監だった西村を宮内庁次長に送り込んだ。「報復人事」だと言われた。私は、この「報復人事」というのは、一種の「やらせ」だと思っている。宮内庁というか、「天皇(一家)」の動きをより拘束するために仕組んだものと思っている。西村を宮内庁にいれるために仕組んだ「壮大な罠」だと思っている。
 杉田の浮上で、ふいに、それを思い出した。
 私が「天皇退位意向」情報が「宮内庁ではない」と確信している理由は、非常に細かいできごとにある。
 天皇の関係する行事に「園遊会」というのがある。毎年、園遊会の前に「招待者名簿」が発表される。この「招待者名簿」というのは宮内庁が発表し、各新聞社に事前に知らされる。「掲載日(解禁日)」は指定されている。ある新聞(の、ある県版)に、これが間違って指定の掲載日前に掲載されてしまった。こんなことは一般国民から見れば単なるミスである。間違いを発表したわけでもなく、たまたま発表がほかの新聞(テレビ)よりも早くなったというだけである。そのことで「招待者」が迷惑を受けたとか、天皇に何かが起きたということでもない。しかし、宮内庁は激怒し、その新聞社を「記者クラブ」から一時的に追放した。
 こんなに「情報管理」の厳しい宮内庁側から「天皇退位の意向」というニュースが「リーク」されるはずがない。
 それに天皇が「退位したい」という意向を持っているという情報は、だいたい、それ以前から新聞社などでは共有されていた。天皇は「退位」の意向を持っているが、安倍が選挙の都合があるので、天皇が「天皇誕生日の会見」などで発表することをおさえてきた。そういうことは、「事後」に読売新聞などに詳しく書かれている。
 つまり、宮内庁を取材している人、安倍の周辺を取材している人ならだれもが知っているが、それは発表をおさえられてきたのである。「これは、書いてはいけない」と宮内庁なり、安倍の方から「指示」があったはずなのである。
 それがなぜ「スクープ」という形で表面化したか。
 理由は2016年の参院選の自民の大勝にある。安倍は、いまなら「改憲」ができると踏んだのだ。そして、改憲を推し進めるためには、平成の天皇、護憲派といわれている天皇が邪魔だったのだ。口封じをしたかった。だから「生前退位意向」というニュースを流させたのだ。(当時のNHKは「政府の言うがまま」の籾井であった。)そして、実際に、退位に追い込んだのである。
 このスクープの「生前退位」ということばからも、これがこの情報が「宮内庁」から漏れたものではないということが推測できる。皇后は、その後の誕生日の会見で「生前退位」ということばは聞いたことがない、胸を痛めたと語った。(宮内庁で語られるとしたら「譲位」だろう。)すると、大あわててマスコミから「生前退位」ということばが消えた。「生前退位」という表現をつかっているかぎり、スクープの情報源が宮内庁ではないとわかるからだ。真っ先に「生前退位」という表現をやめたのは読売新聞であり、「退位」だけで意味が通じるから、という「ことわり」を掲載していた。新聞を読んでいる人間ならだれでもわかるが、新聞というのはなるべく「短く」表現する。「生前退位」という表現は最初につかえば、あとは「退位」だけで通じるのに、マスコミは皇后が批判するまで「生前退位」をつかいつづけた。それは、ある意味では、マスコミ主導のことばではなく、別の機関から「生前退位」ということばがリークされたという証拠でもある。
 この「生前退位」報道のあと、天皇はビデオメッセージで国民に語りかけている。そのなかで、天皇は「天皇に国政に関する権能はない」と2度言っている。一度言えば十分なのに、2度言っている。これは「言わせられている」と見る方が自然だろう。メッセージは、政府の「検閲」なしに放送されたのではない。放送前に、文言の調整がおこなわれている。天皇のことばは、政府の責任だからである。
 そういうことのあとで「報復人事」名目で西村が宮内庁に送りこまれたのだが、これは宮内庁から他の情報がリークされるのを防ぐというよりも、天皇をより厳しく監視するためということだろう。先にも書いたが、宮内庁は「園遊会の名簿」が指定日以前に公表されたことに怒り、その新聞社を記者クラブから締め出すくらいである。もし「生前退位」の報道が「特ダネ(どこも報道していないもの)」なら、そういう報道をしたNHKを記者クラブから締め出すと同時に、あらゆる取材を拒否しただろう。しかし、そういうことは起きていないのではないか。(私はNHKが宮内庁からどういう処分を受けたのかしらないのだが、きっと処分など受けていないと思う。もし、受けているなら、そのことは報道されただろう。「園遊会名簿」のフライング発表とはニュースの規模がちがう。)
 その後なのか、その前なのか、皇室に関心がない私にはよくわからないが、秋篠の長女の「婚約騒動」が起きている。相手の「素性」に問題がある。こんなことは、杉田あたりが(言い換えれば西村あたりが)ちょっと手配すれば事前にわかり、助言できることである。しかし、それは、たぶん知っていて助言しなかったのだ。わざと「騒動」を引き起し、こういうことがふたたび起きた内容にするためには「警察」が皇族の周辺もしっかり監視するという体制を確立するための「方便」に利用したのだ。私がかってに想像するのだが、皇族と接触のある人は以前よりも厳しく調査されていると思う。そして、そのことは皇室に「婉曲的」に影響していると思う。(あくまで、推測。何のニュースも報道されないからね。)
 あ、どんどん話がずれてしまうが。
 今回の「6人任命拒否」でわかったことは、杉田は6人の「学術的評価」をしたのではないということ。素行調査をしたかどうかはわからないが(きっとしているだろうが)、除外の「根拠」を政府の方針に従わない(政府の方針を批判したことがある)に置いたと考えられることである。(それ以外には考えられない。)
 で。
 なぜ、平成の天皇の「生前退位」が、2016年の参院選自民大勝の直後に「リーク」されたかである。くりかえすが、あのときのいちばんのポイントは天皇のビデオメッセージであり、そのビデオメッセージで天皇が「天皇には国政に関する権能がない」と2度言ったことなのだ。そんなことは言わなくても憲法に書いてある。言うにしろ、1回で十分なのに2回言った。これは「言わせられた」としか言いようがない。天皇は「天皇には国政に関する権能がない」ということを強調するために利用されたのである。
 政府が天皇を支配しているということを知らせるために利用された。そして、それは天皇でさえ政府の方針にしたがっている。批判せず、だまっている。天皇さえそうなのだから、国民は、もっと黙っていろ、政府にしたがっていろ、といいたいのである。
 したがわなかったら(批判したら)、どうする?
 警察の力で身辺を調査し、いつでも社会から抹殺するぞ、そう言っているのである。
 その「手始め」が「学者」だった。(あ、前に前川問題があったか。)「学者」はふつうの国民からは遠い存在。何をしているかわからない。その何をしているかわからない人が、学術会議の新会員に選ばれようが選ばれまいが、それがどう自分の生活に影響してくるのか、さっぱりわからない。「学問の自由」なんて、自分で好きなことを勉強するだけだから、べつに「新会員」に選ばれなくたってできるはず、と思ってしまう。(前川問題で言えば、文部省の次官も、普通の国民には何をしているかわからない。けれど、「風俗店通い」は普通の国民にもわかる。不謹慎。排除されてもぜんぜん問題がない、排除すべきだ、と普通は考えてしまう。)
 分かりにくいところ、見えにくいところから手をつける。(前川が実際に何をしていたかは、読売新聞の報道とはかけはなれていた。「善行」といえるものだったが、そんなことは実際に「善意」を受けたひとしかわからない。「善行」は見えにくい。だから見えやすい「風俗店通い」に焦点を絞る。)
 これは、ほら、そのまま「皇室」にあてはまるでしょ? 「皇室」で何が起きているのか、天皇や皇后が「自由」に活動しているのか、「不自由」な生活をしているのか、何に「自由」を感じ、何に「不自由」を感じているか、わからないでしょ? 天皇が何を考えている、もちろんわからない。だからこそ、「天皇、生前退位の意向」ということが「スクープ」にもなるのだ。なったのだ。
 西村がいま宮内庁長官のようだ。長官と次長では、どれくらい仕事内容がちがうのかしらないが、どこもかしこも「警察」よって監視されていることだけは確かだろう。
 (余談だが。
 私は安倍の改憲に反対する映画の上映会の準備をしていたとき、横断歩道を自転車に乗ったまま走行し、歩行者に危険を与えたということで、警察の摘発を受けた。歩行者のだれかが「危ない」と抗議してきたわけではない。みんな知らん顔をして歩いていた。そのとき、顔写真付きの身分証明書を持っていなかった(たまたま保険証を持っていたが写真月ではないので、盗んだものである可能性がある)との理由で、警察に「公的機関の発行した郵便物と顔写真入りの証明書」を持ってくるようにと呼び出され、のちに地検にも呼び出されたことがある。)

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糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(4)

2020-10-15 10:52:09 | 詩集


糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(4)(書肆山田、2020年09月30日発行)

 同じことを書いてしまうことになるが、もう少し糸井の詩について書いておく。77ページ。

腐敗、成熟、珠、観念の、抽象の、完成、と中断、ふたたび珠、希
求するもの、大なる白紙の、迂回、断念、不眠、と安堵、さらに墜
落、不意の歪みの、つめたい、そしていつもの捻れ、と訪れ、ずれ

 「ちがう」をそれぞれのことばの間にさしはさむことができる、とすでに書いた。ほかにも「ちがう」と同様につかわれることばがある。
 「ふたたび」「さらに」「そして」。
 これは「ちがう」のように明確に前に存在するものを否定するわけではない。
 それなのに、なぜ「ちがう」と「おなじ」なのか。
 ともに「ことば(論理)」を前に動かすからである。「ふたたび」は「もどる」ということを意味するが、「方向性」を無視すれば、ともにことばを動かすために存在する。ことばを動かすために「ふたたび」「さらに」「そして」を糸井はつかっている。副詞や接続詞は、糸井にとっては動詞に分類されない動詞であり、それは動詞以上に動詞であるとさえいえるだろう。
 そして、それがたどりつくのは「いつも」である。普遍。永遠。奇妙なことだが、どれだけ動いても、それは動いたことにならないのだ。だからこそ、ひたすら「動詞」になろうとする。
 「ずれ」を、いま、ここに出現させようとする。
 「ずれ」によって、存在がより明確になる。「ずれ」は何かをあいまいにするのではなく、むしろ「繊細な違い」を明確に意識させるための「方法(文体/コンテキスト)」なのだ。
 111 から112 ページ。「メモ 空腹でみじめにすうすうする寝床で」

野生のルッコラと無花果とカテージチーズのサラダ(塩はふらずに
ブラックペパーの粗挽きとオリーブオイルで。柿と春菊でも)

ツナのリエット(自家製。他のもろもろももちろん自家製)

野兎のマスタード焼き(トマト味にするかクリーム味にするか。裏
山に仕掛けた罠にかかるまで)

くたくたに煮た莢隠元(冷めたとき薄茶色になるまで煮込む。筋は
しっかり取ること)

タルトタタン(ホールで焼くなら小ぶりのリンゴ十個分)

バニラアイスに濃いエスプレッソをかけて

 「献立」である。最後の一行にだけ括弧入りの補足がない。私は、ここに、とても注目してしまった。ここには「ずれ」というと大げさだが、意識の「分裂」がないのだ。集中している。
 あ、そうか。
 糸井にも「絶対」というものがあるのだ。私は、この行に出会うまで、糸井に「絶対」というものがあるとすれば、「ずれ(ちがう、という主張)」、その「ずれ」をつくりだしていく動詞の動き(動詞になること)だと思って読んできた。そして、こういう運動では結局「虚無」が「永遠」になってしまうぞと考えたが、どこかで糸井は踏みとどまっている。それがどこか、ぱっと詩集を読んできただけではわからない。でも、そうした何かが「ある」はずだと、この一行から、私は感じた。
 それを探して提出するのが「批評(あるいは研究)」というものなのだろうけれど、私は「批評/研究」をめざしているわけではないので、そのままにしておく。気が向いたら、そのとき探してみるかもしれない。
 思うのは。
 「バニラアイスに濃いエスプレッソをかけて」というのが「日本発祥(?)のデザート」ではないということ。メインが日本料理ではないから当然なのだが、この「日本発祥ではない」ということは、糸井のことばにとっては重要なことなのだと思う。
 いままで比較してきた高貝にかこつけていうと、高貝はこういう「外国発祥」のもの、ことばをつかって高貝の肉体(つまり、思想/ことば)を動かしてはいない。糸井は、高貝のように、日本文学の古典に通じるようなことばの深みへ降りていこうとはしない。高貝も糸井も「繊細」なのだが、その「繊細」には絶対に相いれないものがある。

 だからね。(というのは補足だが。)
 ある詩集(詩)を「繊細」だとか「精緻」だとかというだけで「批評」にしてしまってはいけないのだ。「繊細だけれど、強靱さを感じる」「精緻だけれど、それを支えるしなやかな強さがある」というようなことは、実は、詩集や詩を読まずに書ける「ことば」なのだ。そして、そういうことばのいいかげんさをごまかすために、はやりの「西洋思想のことば」をくっつけるのも、やはり何も読まずにも書けることだろうと私は感じている。「論理」というのはいつでも「後出しじゃんけん」で逃げきることができる「嘘」だからである。
 と書いているこの私のことばも、もちろん「嘘」である。
 だから、私は「嘘」を叩き壊すために、明日はまた別のことを書く。




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