詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青柳俊哉「水色のゆうぐれ」、池田清子「折り返し」、徳永孝「花」

2020-10-18 18:52:12 | 現代詩講座
青柳俊哉「水色のゆうぐれ」、池田清子「折り返し」、徳永孝「花」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年10月05日)

水色のゆうぐれ  青柳俊哉

からすの声の中の 
至福につつまれる 水色のゆうぐれ 

雨まじりの 柿の木のうえの空間を
からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく
そこは 
わたしたちがいくども歩みすぎて
うたいかえしてきた道であった
そこには 
永遠に熟していく秋の穂が堆積していて
子どもの涙のように あふれだしてくるのだった

ゆきのしろから そらのあおへめぐっていく
水音の層のように  

 この詩には、「わからないけれど、ここがいいなあ」と感じるところと、ほんとうに「わからないところ」がある。
 私がいいなあ、と感じるのは「わたしたちがいくども歩みすぎて/うたいかえしてきた道であった」という二行と、「永遠に熟していく秋の穂が堆積していて/子どもの涙のように あふれだしてくるのだった」の二行。
 前者は、とても自然なリズムがある。歩み「すぎて(過ぎて)」、うたい「かえして(返して)」の往復が「いくども」になり、それが自然に「道」になる感じがなんとも美しい。「道」は、その「往復」によって次第に「道」になる。最初から「道」があるのではない。
 この自然に「道」になるという感じの「自然」は、「あふれる」という感じ。
 意識して往復するのではない。知らず知らずに往復してしまう。そうすると無意識の内に「道」ができる。ひとは「無意識」を歩く。
 「そこは」「そこには」と書くとき、青柳は、「どこ」を想定していたのか。「秋の穂が堆積していて」ということばを読むと、「地上」という気がしないでもないのだが、私は思い切って「誤読」する。
 「雨まじりの 柿の木のうえの空間を/からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく」と書かれている「空間」、つまり「空」を。「空」には常識的には、もちろん「道」はない。しかし、その空を見上げながら歩くとき、なんだか空を歩いている気持ちになる。とくに、こどもならばね。その「幸福感」が「子どもの涙のように」あふれてくる。
 つまり一連目の「至福」が二連目で言い直されていると感じた。この瞬間、青柳はおとなでありながら、「子ども」になっている。
 わからなかったのは「からすがまぶしくなきながら飛びすぎていく」の「まぶしく」という副詞のつかい方。カラスの声の鋭さをまぶしく、と言ったのか。青柳はからすの声を聞いた瞬間の印象と説明したが、わかったようでわからない。
 また三連目の「ゆきのしろ」もわかりにくい。「水」へのつながり、「水」の一形態として「ゆき」が選ばれている。その「ゆきのしろ(雪の白)」と「そらのあお(空の青)」が融合し「水色」が生まれ、それは「水音」へと別の感覚、視覚から聴覚への移行があるのだが、これはあまりに「論理」になりすぎているような気がする。また、二連目の「柿」(秋)と「ゆき」(冬)では、季節がちがうなあと感じる。季節の移行期(またぎ)と考えればいいのかもしれないが、少し整理した方か読者には親切かもしれない。



折り返し      池田清子

七転び八起き
うーん
七回転んだら七回起きるけど

人生の折り返し
うーん
どこで折り返す?

折り目があったら
対称になる
来た道をそっくり帰るのは
いやだ
ジグザグの折り目は作れないし

真ん中ではなく
少し端から折るといいかな
紙ではなく
ふわふわの布を
自由に折るといいかな
それは
もう折り返しとはいわないなあ

うーん
でも一本の細い糸でつながって
不細工に折り返って
一瞬でもいい
重なりたい場所がある

 「七回転んだら七回起きるけど」というのは、言われてみるとそうですねえ。でも、これは「科学」(物理?/数学?)の問題ではなく、「ことば」の問題。一種の「ごろ」感覚だと思う。転んでも、起きる。倒れたままではない、ということを印象づけるには、どうしたって転んだ数より起きる数の方が「わかりやすい」。
 よくわからないが、私は、そう思う。「ことば」は弾み(勢い)でつかうものなのだ。そして、その「弾み」のなかに、きっと詩がある。「物理的/数学的正しさ」ではなく「こう思いたい」という欲望がことばになる瞬間の「間違い」。それが「詩」というものかもしれない。
 では、この詩のなかの「間違い」は何? どこが間違っている?
 「折り目があったら/対称になる」は正しいかどうかわからないが、「正しい」に近い。対称になるように折ってしまう、ということかもしれない。対称になるように折る方が簡単。「ジグザグ」の折り方は、あるのかもしないが、きっとむずかしい。
 そして、紙を折るのは簡単だが、布はむずかしいかも。いや、布は「折る」というよりも「畳む」でしょう。
 そうすると四連目に「間違い」があることになる。布は折るものではない。畳むもの。それを「折る」と考えている。なぜだろうか。
 この「布」には実は最終連の「糸」と繋がっているのだ。「紙」のままでは最終連に「糸」が登場できない。「糸」を呼び出すためには「布」が必要だった、「布」という「弾み」が必要だったのだ。
 間違うことが求められていたのだ。予感されていたのだ。
 では、「糸」とは何か。縦糸、横糸が交差して「布」になる。でも、ここに書かれている糸は、もっとちがう感じ。「布」になることを求めていない。むしろ、恋人と恋人を結ぶ「赤い糸」。運命の「糸」。一本であること。
 その「糸」は、いまは切れてしまっている。一本ではなく、向こう側のない日本になってしまった。だから、「折り返す」(過去へもどる)ことで、「つなぐ」ではなく「重なる」。切れたものは「つなぐ」のがふつうだが、それができないとわかっているからせめて「重なりたい」。
 「場所」と書いているのは、紙を「折る」という行為が、面積(場)を重ねるからである。実際は「時」と考えてもいいかもしれない。二人が「糸」で結ばれていた「時」と。



花   徳永孝

Mさんが話している

日本の花は白や紫
春の小川の岸に咲く
すみれやれんげ
白秋の詠う
からたちの花 白花たんぽぽ
黄花たんぽぽ

西洋の花はバラ
ピンククリーム色
赤 白 黄色
大輪 小輪
八重 四季咲

聞きながら想う
それぞれに咲く 日本の花 西洋の花

わたしはどちらも好き

 「日本の花」と「西洋の花」が対比される。それは一連目「話している」と三連目「聞く」という動詞と向き合う。そのとき「Mさん」と「わたし」が対比というよりも重なる。(池田が書いている最後の「重なる」に通じる。)
 これは美しい光景である。でも、その「美しさ」がいまひとつ伝わりにくい。なぜだろうか。「日本の花」と「西洋の花」の対比の仕方に「むら」があるからだ。日本の花には「春の小川の岸」や「白秋」という具体的な描写、人間が登場するのに、「西洋の花」はバラ」しか出てこない。
 いや、色や大きさ、咲き方の違いが書かれているというかもしれないが、あまりにも抽象的。もう少し具体的な描写の方が「花」を思い浮かべやすい。
 なんでもないことのようだが四、五連目の「わたし」の省略と復活には、詩がある。「わたしは聞きながら想う/それぞれに咲く 日本の花 西洋の花//どちらも好き」の方が「Mさん」(話す)と「わたし(聞く)」の関係がわかりやすいのだが、その対比を隠しておいて(想像させておいて)、最後に「わたし」を出す。この瞬間、最後の一行は、
わたしはMさんが好き

 ということばになる。もう少し言い直せば「わたしは日本の花でも西洋の花でもなく、そのどちらでもなく、Mさんが好き」ということばになる。「私は花もMさんも、どちらも好き」よりも、もっと強く言い直したのが「わたしは日本の花でも西洋の花でもなく、そのどちらでもなく、Mさんが好き」である。



**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファラド・サフィニア監督「博士と狂人」(★★)

2020-10-18 10:05:59 | 映画
ファラド・サフィニア監督「博士と狂人」(★★)

監督 ファラド・サフィニア 出演 メル・ギブソン、ショーン・ペン(2020年10月17日、キノシネマ天神、スクリーン2)

 「辞書作り」の苦労を感じたくて見に行ったのだが、肩すかしを食った感じ。
 ショーン・ペンが「ことば」にのみこまれていくのは、「ことばを読んでいるとき、自分が救われる」というような言い方で表現されている。そして、「本のなかのことば」を読んでいたときは、確かにそうだったのだが、「現実のことば」に直面すると救われるどころか、もっともっと深い苦悩に引き込まれていく。「ことば」を「現実」(自分の肉体)で定義しようとすると、どうしていいかわからなくなる。ここが、この映画のクライマックスで、こういう「矛盾」のなかに潜む「絶対的真実」(一回かぎり、その人かぎり)を具現するには、やはりショーン・ペンが必要だったというともわかる。
 こうした「ことばを超えた絶対(一回かぎりの真実)」をどうやって「ことば」としてとらえ直し、「現実を定義するか」。言い直すと、ことばはどうやってことばになるか。この哲学的問題を考えるには……。
 あ、あ、あ、あ。
 私は「英語」がわからないのだった。「字幕」にはアルファベットと日本語が交錯して映し出されるが、ここはどうしたって英語そのものの「来歴」というか「歴史」がぼんやりとでも感じられないと、起きていることが実感できない。
 困ったなあ。
 ここがクライマックスだぞ、ということはショーン・ペンの動きと、それを補足する「日本語字幕」で「ストーリー」としては理解できるが、その「ストーリー」に私の「肉体」が重ならない。言い換えると「感情移入」できない。
 英語が母国語の人なら感じるに違いない「ことばの響き(深み)」が、私の頭のなかを素通りしていく。かすめる、という感じすらしないのだ。
 まいったなあ。
 だからね、逆に言うと。
 その「クライマックス」よりちょっと前の、ショーン・ペンの人生をほんとうの苦悩に引き込む女性が、「文字が読めない」とわかった瞬間、それに対するショーン・ペンの説得というか、励まし、その後女性が文字を覚え、読めるようになっていく、ついには「ことばをこえることば」(深い真実)を書くようになるまでの、なんというか、「さらり」とした部分が、とても私の「肉体」には響いてくる。実に、実に、実に、せつせつと感じられる。
 場違いを承知で書くと、石川淳や森鴎外の、「ここはちょっと簡単に書いておくね。あとで必要になる(伏線のはじまり)なのだから」という感じの「(映画)文体」になっている。
 あ、ショーン・ペンのことばかり書いたが、一方のメル・ギブソンにも妻との愛の葛藤、家族への愛と「学問」への愛の両立というような問題が起きるのだが、その苦悩のなかに「ことば」はあまり重要な要素としては入ってこない。なんというか、「謎解き」というか、「頭脳の解釈」で完結しているように思える。これは、私が英語がわからないということと原因があるかもしれないが。
 で、また、ショーン・ペンの逸話にもどるのだが、「ことば」を覚えるということはとても危険なことなのだ。とくに「ことば」を書くということは。知らなかった自分を発見し、その知らなかった自分になってしまう。そうするともう、その知らなかった自分を信じて、それについていくしかない。「ことば」を生み出しながら、「ことば」に導かれ、「ことば」についていく。
 辞書には。とくにこの映画が題材としている「オックスフォード英語大辞典」には、そうやって「肉体(生活)」に定着してきた「ことば」の歴史(変遷/つまり揺らぎ)が書き込まれている。そのうちのなんとかということば(私はもう忘れてしまった)には、ショーン・ペンの逸話がなければわからないものがある。いや、それよりも重要なのは、この映画では「見出し言語」としては紹介されていないが、たとえば「love(愛)」というだれもが知っているようなことば、日常語になりきってしまっていて、その意味を真剣に考えることのないことばにも、それがいままでの「愛」の定義ではとらえきれないものが隠れているということを教えてくれる。

 こんなふうに感想を書いてしまうと、とてもいい映画、みたいになってしまうが。
 これはね、これはこれで、ことばの「罠」なのだ。ことばは「書きたい」と思っていることを書くとき、その他を切り捨ててしまう。その結果、「結論」がどうしても「結晶」してしまうということが起きる。
 「異端の鳥」は大傑作であるけれど、たったひとつ、通俗映画そのものに通じるエピソードのために台無しになってしまっている。この「博士と狂人」は逆に、たったひとつ、ショーン・ペンが女性の「弱点」のようなものに気づき、それを女性が「弱点」であると認識し、自覚を持って越えていく、その「超越」の向こうになにがあるかわからないが、それについていくことからはじまる「破滅」が映画を駄作から救い出している。ここだけなら、まるでギリシャ悲劇だ。
 でもね、★はやっぱり、2個のまま。肝心の「英語」がわからない。英語がわかるようになれば★4個かも。



**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする