詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』

2018-09-08 11:31:43 | 詩集
 沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』(編集工房ノア、2018年09月01日発行)

 沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』は静かな詩集だ。ことばが、静かだ。巻頭の「一台の自転車のような祈りが道を行く」の一連目。

一台の自転車のような祈りが道を行く
ある晴れた日に
祈りを抱きしめた人は
まだ問い続けている 河口までの
選ぶほどではない道をそれでも決めてきたことについて

 何が書いてあるのか、わからない。けれど「祈り」ということばと「決めてきた」ということばが響きあい、そこに人間が見えてくる。「抱きしめる」という動詞が、「祈り」と「決める」をつないでいる。
 「祈る」というのは何かを「決める」ことなのだと教えられる。「決める」が先にあって、それから「祈る」。
 「自転車のような」という比喩はわかりにくい。自転車を引いているのか、自転車に乗っているのか。私は自転車を引いて、人があるいていく姿を思い浮かべた。それでもなお「自転車のような」ということばが「比喩」として響いてくるのは、「決めて/祈る」ことが、自転車に乗るときのように、ペダルを漕ぎ続けること、持続することが「倒れない」ことにつながるからだろう。
 「決めた」ことを胸に「抱きしめ」つづける、持ちつづける、維持するということが「祈り」なのだと教えられる。その「持ちつづける」ときの「強さ」がことばを貫いている。
 そしてその「強さ」を支えているのは「問い」なのだ。「問い/問う」があるからこそ、それに「答える」があり、その反芻がある。そうやって「つづける」ことができる。単純に信じる(身を任せる)ではないのだ。
 この「強さ」(祈り)に通じるものを、「Infant-本の破れ」にも感じた。

わたしのダイニングテーブルの上に
市外の図書館から借り出され、届いた一冊の本
捲ると一枚の紙が挿まれていた

  この資料には汚れがあります。
  (P44、63-65、115、120、155、228)
  書き込みがあります。
  (そで)
  破損個所があります。
  (表紙破れ、ワレ P117、130)
  その他。
  (折れあと P69)

この本のなんというしずかさだろう
あまたのいたみをくぐりきて

その一ページには惨憺たる証言が記されているのに

       (注=本文は「P」の後にドットがあるのだが、私のワープロでは
        表記できないので省略した)

 「惨憺たる証言が記されている」からこそ、人はそこに「書き込み」をしてしまうのだろう。「問い」と「答え」が交錯する。こころが動き、何かを書かずにはいられない。
 その書き込みこそが「祈り」だろう。それを読んだ瞬間、何かを「決めた」のだ。そして、それを胸にしっかりと「抱いた」。でも、抱いても抱いても、こぼれてくるもの、あふれてくるものがある。それが「書き込み」となって、そこにある。
 読んだ人の「祈り」(決めたこと)がそこに残っている。本は、読んだ人の「祈り」を抱いたまま、次から次へと人をわたっていく。
 「祈り」が引き継がれていく。

 詩の最終行。

(いかなる指が、そこをなぞったのだろう)

 こう書きながら,沢田の指もまた、そこに書かれている「文字」を、「祈り」をなぞっているのだろう。声に出さず、「祈り」を固く抱きしめるように。




*

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詩集 ねいろがひびく
沢田 敏子
砂子屋書房
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(62)

2018-09-08 09:55:03 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
62 画家たちに

 ギリシアの芸術と言うと、彫像を思い出す。絵画は、壺に描かれた絵くらいしか思い浮かばない。画家がいなかったのか。描いたけれど、失われたのか。
 高橋は、こう書いている。

その作品が跡形なく滅び亡せたがゆえに ギリシアの画家たちよ
あなた方を讃えよう 讃えるこれらの言葉も消えて無くなれ

 失われたらしい。何に描いたにしろ、布や木は形を失いやすい。色も褪せるだろう。それでもひとは描かずにはいられない。そう認めた上で、高橋はこう書いている。

男神 女神 若者たち 少女たちの彫像を残した彫刻家より
描いたすべてを喪われるに委せた画家たちのほうが 美に叶っている
この世の美は仮のもの その彼方にある真の美をこそ見つめよ

 美は描いたものの彼方にある。だから絵は失われてもかまわない。描く瞬間に見つめている、いま、ここにないものこそが美だからである。「美の定義」に叶う。
 この「叶う」という動詞がおもしろい。「一致する」、「望み通りになる」ということだが、そのとき「ふたつ」のものが存在する。
 「一致する」ためには「ふたつ」以上のものがないと「一致する」ということは起きない。また「望み通りになる」というのは、「対象」とは別の存在(別の人間)が「望む」のである。
 「一致」ということばとは裏腹に、そこには「一致しない」ものがあるという現実(事実)がある。
 そうだからこそ、「真の美をこそ見つめよ」と書いた後、詩は急展開する。

そうくりかえし言う智者の言葉さえ 真実へ到る道への躓きの石

 「真の美」を見つめる(想起する)ということは、「真の美(真実)」がいま、ここに存在していないと認めることであり、同時に「真の美(真実)」は永遠に存在しないと認めることだ。
 「真」は「想起」のなかにしかない。そして「想起する」という動きは、ことばになって動く。だからこそ「言葉も消えて無くなれ」と高橋は言わざるを得なくなる。
 ただこの「論理」は「詭弁」に似ている。技巧的だ。古今、新古今のことばを動かしている「美」のようなものに似ている。私にはギリシアとは違うもののように感じられる。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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