松岡政則『あるくことば』(1)(書肆侃侃房、2018年09月01日発行)
松岡政則『あるくことば』の「どこにいるか」に、こういう二行が出てくる。
これは、嘘である。松岡は、ことばを捨てずに、ことばを書いている。しかし、嘘ではない。矛盾なのだ。矛盾した「論理」でしか語れないことがある。矛盾はもともと論理のことばである。論理的には矛盾しているが、ここには矛盾していないものが隠れていることになる。では、何が隠れているのか。
ここに書かれていることは、最初に引用した二行と明らかに矛盾している。韓国の街を歩く。屋台で食って、飲んでいる。「ことばを捨てながら身軽になる」はずなのに、「弱ったことがある」と書いている。「身軽」ではなく、「身が重くなっている」。言いなおすと「動きにくくなっている」。
ここに矛盾があるのだから、この矛盾を見つめれば、きっと隠れている矛盾しないものが見えてくる。
という一行の「素顔」を手がかりに読んでみる。
「素顔」とは何か。「つくった顔」ではないもの。「素の顔」。それはどうやったらあらわれるか。「つくった顔」を捨てることによって、あらわれる。「装い」を捨てることであらわれる。
「ことばを捨てながら身軽になる」は「装いを捨てながら身軽になる」と言いなおせるかもしれない。
たしかに「装い」(装うということ)を捨ててしまえば、身軽になる。「素」をさらけだしてしまえば、気楽になる。「装う」ということをしなくてすむという気楽さだ。「精神的な」気軽さだ。
「装った顔」だけではなく、「素顔」さえも捨てて、つまり「素顔」が何であるかということも忘れて、松岡は韓国の街を歩いている。この完全な「無防備」を松岡は「すっかり手遅れだ」と言いなおしている。もう、「装う」ことはできない、と。「お前を知っている」と言われてしまった。「目」で、言われてしまった。もう、その「目」から逃げられない。
どうなるのか。どう動くことができるのか。
「目」に向き合うのは、ことばではない。「肉体」そのものだ。
ハラボジは、「お前を知っている」と「目」で語る。だがお前の(松岡の)「何を」知っているのか。
「肉体」を知っているのだ。そして、このときの「肉体」とは「肉体」の動き方のことである。松岡は屋台で飲んで、食っている。その「食い方」「飲み方」を知っている、と語るのだ。
「方」というのは「装い」である。つまり、それは、まだ何かを隠している。「食うこと」「飲むこと」、欲望、本能を隠している。「食う」「飲む」という動詞は、まだむき出しの「素顔」になっていない。
「お前を知っている」というのは、「お前は装って違うふりをしているが、私はお前のほんとうを知っている」という意味である。
知られてしまって、あるいは知られることによって、松岡は、さらに「食う」「飲む」を刺戟される。松岡自身の「肉体」の欲望を知る。「装う」前の、本能、欲望が、「肉体」の奥から松岡を突き動かす。
「吸いつきたくなる」。「食う」ではない。「食らいつく」でもない。噛まずに、すって(すすって)、飲み込んでしまう。「食う」と「飲む」が合体したような動きだが、「食う」でも「飲む」でもない「ことば」が松岡の「肉体」の奥から跳び出してきている。
これが「ことばを捨てる」ということなのだ。
でも「食う」「飲む」という「ことば」は捨てられていた。「やっている」(やる)という、生々しい「動詞」がそこに動いていた。(もちろん、「食う」「飲む」と言いなおすことのできる動詞である。)
歩くということは「装ったことば」を捨てて、「ことばの装い」から身軽になることである。「装わないことば」の中へ「肉体」を投げ込むことである。「肉体」が「装わないことば」のままに動くことである。
そう読み直すことができる。
「肉体」そのもの、「肉体」の本能、欲望をそのまま「肉体」としてあらわす。「ことば」を必要としない。
と松岡は言っているが、これは「ことば」であっても「ことば」ではない。そんなことは言わなくても、「肉体」で伝えることができる。指しながら「これをくれ」と言ってもカンジャンケジャンに吸いつくことができる。いきなりカンジャンケジャンに吸いつき、ハラホジに怒鳴られたら、そのあとで金を払う、ということだってできる。
そのときの「肉体」は、「装った顔/素顔」という対比を超越している。むき出しの「肉体」そのものである。「素顔」でさえなくなる。生きている「いのち」そのものになる。
この「肉体」そのものになることを、松岡は、こんなふうに言いなおしている。
「わたしを消す」、「装ったわたし」を消す。「素顔」になる。「素顔」さえも捨てる。ただの「肉体」になる。「いのち」になる。
いつでも「いのち」になって、そこから「ことば」をもう一度生み直す。
詩のタイトルは「どこにいるか」。それに答えるなら、松岡は「肉体の中にいる」「いのちの中にいる」ということになる。
その「実況中継」として、詩が書かれている。
*
「SNS」云々は、松岡にしては珍しい「批評」である。そういうことを書かなくても批評になっているが、今回は、そういうことも書きたかったのかもしれない。
でも、そういう「現象批評」よりも、私は松岡の「肉体」そのものが強いと思う。もうしばらく松岡の詩を読み続けたい。(つづく)
*
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松岡政則『あるくことば』の「どこにいるか」に、こういう二行が出てくる。
あるくという行為は
ことばをすてながら身軽になるということだ
これは、嘘である。松岡は、ことばを捨てずに、ことばを書いている。しかし、嘘ではない。矛盾なのだ。矛盾した「論理」でしか語れないことがある。矛盾はもともと論理のことばである。論理的には矛盾しているが、ここには矛盾していないものが隠れていることになる。では、何が隠れているのか。
お前を知っている、
という目を向けられ弱ったことがある
チョッカルをつつきながら生マッコリをやっていた
就職浪人街ノリャジンの屋台でのことだ
もう素顔などどこにもないのに
わたしはすっかり手遅れだのに
ここに書かれていることは、最初に引用した二行と明らかに矛盾している。韓国の街を歩く。屋台で食って、飲んでいる。「ことばを捨てながら身軽になる」はずなのに、「弱ったことがある」と書いている。「身軽」ではなく、「身が重くなっている」。言いなおすと「動きにくくなっている」。
ここに矛盾があるのだから、この矛盾を見つめれば、きっと隠れている矛盾しないものが見えてくる。
もう素顔などどこにもないのに
という一行の「素顔」を手がかりに読んでみる。
「素顔」とは何か。「つくった顔」ではないもの。「素の顔」。それはどうやったらあらわれるか。「つくった顔」を捨てることによって、あらわれる。「装い」を捨てることであらわれる。
「ことばを捨てながら身軽になる」は「装いを捨てながら身軽になる」と言いなおせるかもしれない。
たしかに「装い」(装うということ)を捨ててしまえば、身軽になる。「素」をさらけだしてしまえば、気楽になる。「装う」ということをしなくてすむという気楽さだ。「精神的な」気軽さだ。
「装った顔」だけではなく、「素顔」さえも捨てて、つまり「素顔」が何であるかということも忘れて、松岡は韓国の街を歩いている。この完全な「無防備」を松岡は「すっかり手遅れだ」と言いなおしている。もう、「装う」ことはできない、と。「お前を知っている」と言われてしまった。「目」で、言われてしまった。もう、その「目」から逃げられない。
どうなるのか。どう動くことができるのか。
ハラボジはその目をゆるめてくれない
ひとはみなどこか演じている
いま見られている、を生きている
カンジャンケジャンに吸いつきたくなる
イゴ ジュセヨ(これください)
「目」に向き合うのは、ことばではない。「肉体」そのものだ。
ハラボジは、「お前を知っている」と「目」で語る。だがお前の(松岡の)「何を」知っているのか。
「肉体」を知っているのだ。そして、このときの「肉体」とは「肉体」の動き方のことである。松岡は屋台で飲んで、食っている。その「食い方」「飲み方」を知っている、と語るのだ。
「方」というのは「装い」である。つまり、それは、まだ何かを隠している。「食うこと」「飲むこと」、欲望、本能を隠している。「食う」「飲む」という動詞は、まだむき出しの「素顔」になっていない。
「お前を知っている」というのは、「お前は装って違うふりをしているが、私はお前のほんとうを知っている」という意味である。
知られてしまって、あるいは知られることによって、松岡は、さらに「食う」「飲む」を刺戟される。松岡自身の「肉体」の欲望を知る。「装う」前の、本能、欲望が、「肉体」の奥から松岡を突き動かす。
カンジャンケジャンに吸いつきたくなる
「吸いつきたくなる」。「食う」ではない。「食らいつく」でもない。噛まずに、すって(すすって)、飲み込んでしまう。「食う」と「飲む」が合体したような動きだが、「食う」でも「飲む」でもない「ことば」が松岡の「肉体」の奥から跳び出してきている。
これが「ことばを捨てる」ということなのだ。
チョッカルをつつきながら生マッコリをやっていた
でも「食う」「飲む」という「ことば」は捨てられていた。「やっている」(やる)という、生々しい「動詞」がそこに動いていた。(もちろん、「食う」「飲む」と言いなおすことのできる動詞である。)
歩くということは「装ったことば」を捨てて、「ことばの装い」から身軽になることである。「装わないことば」の中へ「肉体」を投げ込むことである。「肉体」が「装わないことば」のままに動くことである。
そう読み直すことができる。
「肉体」そのもの、「肉体」の本能、欲望をそのまま「肉体」としてあらわす。「ことば」を必要としない。
イゴ ジュセヨ(これください)
と松岡は言っているが、これは「ことば」であっても「ことば」ではない。そんなことは言わなくても、「肉体」で伝えることができる。指しながら「これをくれ」と言ってもカンジャンケジャンに吸いつくことができる。いきなりカンジャンケジャンに吸いつき、ハラホジに怒鳴られたら、そのあとで金を払う、ということだってできる。
そのときの「肉体」は、「装った顔/素顔」という対比を超越している。むき出しの「肉体」そのものである。「素顔」でさえなくなる。生きている「いのち」そのものになる。
この「肉体」そのものになることを、松岡は、こんなふうに言いなおしている。
SNSに上げないと体験したことにならないらしい
そこにいる
不謹慎でごめん不適切でごめんそこにいる
なにがそんなに許せないのかわたしら
あるくしかなかった
いつもあるき回るしかなかった
だいじょうぶ
わたしの消しかたなら知っている
「わたしを消す」、「装ったわたし」を消す。「素顔」になる。「素顔」さえも捨てる。ただの「肉体」になる。「いのち」になる。
いつでも「いのち」になって、そこから「ことば」をもう一度生み直す。
詩のタイトルは「どこにいるか」。それに答えるなら、松岡は「肉体の中にいる」「いのちの中にいる」ということになる。
その「実況中継」として、詩が書かれている。
*
「SNS」云々は、松岡にしては珍しい「批評」である。そういうことを書かなくても批評になっているが、今回は、そういうことも書きたかったのかもしれない。
でも、そういう「現象批評」よりも、私は松岡の「肉体」そのものが強いと思う。もうしばらく松岡の詩を読み続けたい。(つづく)
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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