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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則『あるくことば』

2018-09-01 12:16:50 | 詩集
松岡政則『あるくことば』(1)(書肆侃侃房、2018年09月01日発行)

 松岡政則『あるくことば』の「どこにいるか」に、こういう二行が出てくる。

あるくという行為は
ことばをすてながら身軽になるということだ

 これは、嘘である。松岡は、ことばを捨てずに、ことばを書いている。しかし、嘘ではない。矛盾なのだ。矛盾した「論理」でしか語れないことがある。矛盾はもともと論理のことばである。論理的には矛盾しているが、ここには矛盾していないものが隠れていることになる。では、何が隠れているのか。

お前を知っている、
という目を向けられ弱ったことがある
チョッカルをつつきながら生マッコリをやっていた
就職浪人街ノリャジンの屋台でのことだ
もう素顔などどこにもないのに
わたしはすっかり手遅れだのに

 ここに書かれていることは、最初に引用した二行と明らかに矛盾している。韓国の街を歩く。屋台で食って、飲んでいる。「ことばを捨てながら身軽になる」はずなのに、「弱ったことがある」と書いている。「身軽」ではなく、「身が重くなっている」。言いなおすと「動きにくくなっている」。
 ここに矛盾があるのだから、この矛盾を見つめれば、きっと隠れている矛盾しないものが見えてくる。

もう素顔などどこにもないのに

 という一行の「素顔」を手がかりに読んでみる。
 「素顔」とは何か。「つくった顔」ではないもの。「素の顔」。それはどうやったらあらわれるか。「つくった顔」を捨てることによって、あらわれる。「装い」を捨てることであらわれる。
 「ことばを捨てながら身軽になる」は「装いを捨てながら身軽になる」と言いなおせるかもしれない。
 たしかに「装い」(装うということ)を捨ててしまえば、身軽になる。「素」をさらけだしてしまえば、気楽になる。「装う」ということをしなくてすむという気楽さだ。「精神的な」気軽さだ。
 「装った顔」だけではなく、「素顔」さえも捨てて、つまり「素顔」が何であるかということも忘れて、松岡は韓国の街を歩いている。この完全な「無防備」を松岡は「すっかり手遅れだ」と言いなおしている。もう、「装う」ことはできない、と。「お前を知っている」と言われてしまった。「目」で、言われてしまった。もう、その「目」から逃げられない。
 どうなるのか。どう動くことができるのか。

ハラボジはその目をゆるめてくれない
ひとはみなどこか演じている
いま見られている、を生きている
カンジャンケジャンに吸いつきたくなる
イゴ ジュセヨ(これください)

 「目」に向き合うのは、ことばではない。「肉体」そのものだ。
 ハラボジは、「お前を知っている」と「目」で語る。だがお前の(松岡の)「何を」知っているのか。
 「肉体」を知っているのだ。そして、このときの「肉体」とは「肉体」の動き方のことである。松岡は屋台で飲んで、食っている。その「食い方」「飲み方」を知っている、と語るのだ。
 「方」というのは「装い」である。つまり、それは、まだ何かを隠している。「食うこと」「飲むこと」、欲望、本能を隠している。「食う」「飲む」という動詞は、まだむき出しの「素顔」になっていない。
 「お前を知っている」というのは、「お前は装って違うふりをしているが、私はお前のほんとうを知っている」という意味である。
 知られてしまって、あるいは知られることによって、松岡は、さらに「食う」「飲む」を刺戟される。松岡自身の「肉体」の欲望を知る。「装う」前の、本能、欲望が、「肉体」の奥から松岡を突き動かす。

カンジャンケジャンに吸いつきたくなる

 「吸いつきたくなる」。「食う」ではない。「食らいつく」でもない。噛まずに、すって(すすって)、飲み込んでしまう。「食う」と「飲む」が合体したような動きだが、「食う」でも「飲む」でもない「ことば」が松岡の「肉体」の奥から跳び出してきている。
 これが「ことばを捨てる」ということなのだ。

チョッカルをつつきながら生マッコリをやっていた

 でも「食う」「飲む」という「ことば」は捨てられていた。「やっている」(やる)という、生々しい「動詞」がそこに動いていた。(もちろん、「食う」「飲む」と言いなおすことのできる動詞である。)
 歩くということは「装ったことば」を捨てて、「ことばの装い」から身軽になることである。「装わないことば」の中へ「肉体」を投げ込むことである。「肉体」が「装わないことば」のままに動くことである。
 そう読み直すことができる。
 「肉体」そのもの、「肉体」の本能、欲望をそのまま「肉体」としてあらわす。「ことば」を必要としない。

イゴ ジュセヨ(これください)

 と松岡は言っているが、これは「ことば」であっても「ことば」ではない。そんなことは言わなくても、「肉体」で伝えることができる。指しながら「これをくれ」と言ってもカンジャンケジャンに吸いつくことができる。いきなりカンジャンケジャンに吸いつき、ハラホジに怒鳴られたら、そのあとで金を払う、ということだってできる。
 そのときの「肉体」は、「装った顔/素顔」という対比を超越している。むき出しの「肉体」そのものである。「素顔」でさえなくなる。生きている「いのち」そのものになる。
 この「肉体」そのものになることを、松岡は、こんなふうに言いなおしている。

SNSに上げないと体験したことにならないらしい
そこにいる
不謹慎でごめん不適切でごめんそこにいる
なにがそんなに許せないのかわたしら
あるくしかなかった
いつもあるき回るしかなかった
だいじょうぶ
わたしの消しかたなら知っている

 「わたしを消す」、「装ったわたし」を消す。「素顔」になる。「素顔」さえも捨てる。ただの「肉体」になる。「いのち」になる。
 いつでも「いのち」になって、そこから「ことば」をもう一度生み直す。
 詩のタイトルは「どこにいるか」。それに答えるなら、松岡は「肉体の中にいる」「いのちの中にいる」ということになる。
 その「実況中継」として、詩が書かれている。



 「SNS」云々は、松岡にしては珍しい「批評」である。そういうことを書かなくても批評になっているが、今回は、そういうことも書きたかったのかもしれない。
 でも、そういう「現象批評」よりも、私は松岡の「肉体」そのものが強いと思う。もうしばらく松岡の詩を読み続けたい。(つづく)




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(55)

2018-09-01 08:50:44 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
55 美しい墓

 「54 海辺の墓」の続篇。

すこしずつ忘れられ ついには無になる記憶には
朽ちない石より朽ちる木のほうが ふさわしい

 この石と木の対比、朽ちないと朽ちるの対比は、私にはなじみやすいが、ギリシア人もそう思うかどうか、あやしい。
 石の文化のギリシア人は、そんなふうには思わないかもしれない。
 高橋は、ギリシアではなく、日本を「復習」している。高橋の「肉体」にある日本がギリシアという場で動いている。ギリシアでなくても、アイルランドでも同じように動くかもしれない。言い換えると、この詩はギリシアを舞台として必要としているとは思えない。
 ここから高橋のことばは不思議な展開をする。「舞台」(土地)を無視して、ことばが勝手にことばを増殖させ、動き始める。
 石と木を「朽ちない」「朽ちる」という動詞を対比した上で、「朽ちる」という動詞のはかなさに重心を移したのに、「朽ちない」へと再び転換する。

だが もっと美しいのは朽ちるべき墓標もない墓
寄せては返す海が塚で ときに立ちあがる虹が墓標

 虹は「消える」が「朽ちない」(朽ちるわけではない)。ことばは「朽ちない」「朽ちる」から飛躍している。この飛躍を詩と呼べば詩になるが、「でっちあげ」でもある。つまり、このとき高橋は肉眼で虹を見ていない。ことばを動かして、ことばの中に虹を見ているだけである。
 美しいが、ああ、これは「嘘」だなあ、と思ってしまう。言い換えると、ギリシアで高橋が発見した「事実」とは感じられない。
 私は、ここで「古今和歌集」や「新古今和歌集」の技巧に満ちた和歌を思い出してしまう。消えてしまう虹を「朽ちない」「立ち上がる」ととらえ直す技巧的精神に。
















つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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