坂本法子「鰯」(「どぅるかまら」19、2016年01月10日発行)
坂本法子「鰯」は、
とはじまる。
虫歯の記憶、歯医者に行ったときのこと、というよりも「食べた」記憶が刺戟される。歯のあいだに食べたものがはさまった感触とか。虫歯の「穴(洞穴)」にイワシの骨が残っているということはありうるか。ないと思うが、「肉体感覚」としては、「わかる」。あ、小骨がはさまった……という感じが。
そういう「思い出」が刺戟されるからだろうか。坂本の詩は、やっぱり「食べた」ことを思い出す。ただし、ここに少し飛躍がある。家でイワシを食べるのではない。ポルトガル旅行中に食べる。「場」がすこし「日常」から離れる。
これが効果的だ。
二連目を省略して、三連目。
どこに泊まろうが、「見るところはあなたと同じ」という主張はいいなあ。はつらつとしている。
こういう会話が日本でもなりたつかどうか、ちょっと微妙だ。
で、「あなたと同じ」は、また、そこに住んでいるひとと「同じ」ということにもつながる。漁師といっしょにイワシを食べれば、「私たち(彼も)」は、きっと漁師になる。漁師になって、イワシを食べる。家でイワシを食べるのと、少し違う。
その「少し」とは何か。
それが四連目(最終連)なのだが、うーん、「少し」のはずが、「少し」ではない。「大きく」変わる。
イワシを食べながら、坂本はイワシになっている。四連目の「主語」は「イワシ」なのである。この「主語」の変化がとてもおもしろい。三連目で「私/わたし」が、「彼」になるのを拒んで「漁師」になった弾み(勢い?)で、「イワシ」にまでなってしまう。その「勢い」が、海外旅行という「非日常」と重なっておもしろい。
「私/わたし」は「イワシ」になって、フィッシュボール(魚群のかたまり)になりながら泳ぐ。クジラやシャチから逃げる。でも、つかまってしまう。結局人間に食べられるのだけれど……大西洋を泳いできたことを思い出しながら、食べられる。
この「思い出しながら」というのは、まあ、人間の錯覚というか、かってな思い込みなのだけれど。このかってな「思い込み」のなかで、「思い出す」が交錯する。自分がイワシをポルトガルで食べたこと。ポルトガルのイワシは大西洋を、クジラやシャチや中国船の網から逃げてきた。食べられることを逃げてきた。それが食べられているということが、不思議な形で重なる。
あのイワシの骨。きっと、イワシからの復讐。
そんなこともないのかもしれないけれど。
最終行で「主語」は「わたし」にもどっているようにも読める。「わたし」が「イワシの匂いが歯にしみついていると感じる」という「意味」に受け取るのが自然なのだろうが、私はここでも「イワシ」を主語にして読みたい。
「イワシの匂い」がではなく「イワシ」が歯の中に、「しみついている」ではなく「すみついている」(生きている)と読みたい。「イワシの匂い」がではなく「イワシ」がそのまま「主語」になって、坂本の虫歯にすみついて、歯の洞穴を泳いでいる感じがする。
坂本の「肉体」は「大西洋」になって、その「肉体」のなかをイワシが泳いでいる。坂本に食べられながら、なお、生きている。そう思うと楽しい。
で、詩を読み返してみると……。
一連目、書き出しこそ「わたし」が「主語」である。しかし、最終行は「イワシの骨が残っています」と「イワシの骨」が「主語」になっている。「イワシ」が「主語」なのだ。
あ、こういうことは、「文法」を厳密にあてはめて考えることではないね。
「主語」は「わたし」と「イワシ」を自在に行き来している。「私」と「イワシ」は最初から入れ替え可能な「主語」である。というか、ある「状況」は「主語」を入れ替えることでさまざまに変化するのだから、「主語」を入れ替えながら「世界」をつかみなおすしかないのだろう。
そのつかみなおし、「主語」の入れ替え、読み直しのなかに、詩は生きているのだと思う。
急にイワシを食べたくなった。食べながら、イワシがクジラやシャチからフィッシュボールになっ逃げたことや、大西洋/太平洋を泳ぎ回ること、中国の船から逃げ回るイワシになってみたい気持ちになった。
坂本法子「鰯」は、
わたしは歯医者へ行った
右下の大臼歯が虫歯になって
大きな洞穴があいています
神経もやられています
洞穴の中にイワシの骨が残っています
とはじまる。
虫歯の記憶、歯医者に行ったときのこと、というよりも「食べた」記憶が刺戟される。歯のあいだに食べたものがはさまった感触とか。虫歯の「穴(洞穴)」にイワシの骨が残っているということはありうるか。ないと思うが、「肉体感覚」としては、「わかる」。あ、小骨がはさまった……という感じが。
そういう「思い出」が刺戟されるからだろうか。坂本の詩は、やっぱり「食べた」ことを思い出す。ただし、ここに少し飛躍がある。家でイワシを食べるのではない。ポルトガル旅行中に食べる。「場」がすこし「日常」から離れる。
これが効果的だ。
二連目を省略して、三連目。
彼は「ぼくは五ツ星ホテルに泊まっているのだよ
ここに来たらイワシを食べないと」と言う
私は「私たちは民宿に泊まっています
でも見るところはあなたと同じだから」と言い返す
皆で白いテントに入ってイワシを食べた
漁師たちはイワシを食べながらワインを片手に持って
ファドを歌っている
どこに泊まろうが、「見るところはあなたと同じ」という主張はいいなあ。はつらつとしている。
こういう会話が日本でもなりたつかどうか、ちょっと微妙だ。
で、「あなたと同じ」は、また、そこに住んでいるひとと「同じ」ということにもつながる。漁師といっしょにイワシを食べれば、「私たち(彼も)」は、きっと漁師になる。漁師になって、イワシを食べる。家でイワシを食べるのと、少し違う。
その「少し」とは何か。
それが四連目(最終連)なのだが、うーん、「少し」のはずが、「少し」ではない。「大きく」変わる。
大西洋から泳いできたイワシのフィッシュボール
クジラやシャチに食べられながら
おじいさんが網で受けとめたイワシ
中国船にぶつかりながら捕ってきた
イワシ イワシ イワシ
今もイワシの匂いがわたしの歯の中にしみついている
イワシを食べながら、坂本はイワシになっている。四連目の「主語」は「イワシ」なのである。この「主語」の変化がとてもおもしろい。三連目で「私/わたし」が、「彼」になるのを拒んで「漁師」になった弾み(勢い?)で、「イワシ」にまでなってしまう。その「勢い」が、海外旅行という「非日常」と重なっておもしろい。
「私/わたし」は「イワシ」になって、フィッシュボール(魚群のかたまり)になりながら泳ぐ。クジラやシャチから逃げる。でも、つかまってしまう。結局人間に食べられるのだけれど……大西洋を泳いできたことを思い出しながら、食べられる。
この「思い出しながら」というのは、まあ、人間の錯覚というか、かってな思い込みなのだけれど。このかってな「思い込み」のなかで、「思い出す」が交錯する。自分がイワシをポルトガルで食べたこと。ポルトガルのイワシは大西洋を、クジラやシャチや中国船の網から逃げてきた。食べられることを逃げてきた。それが食べられているということが、不思議な形で重なる。
あのイワシの骨。きっと、イワシからの復讐。
そんなこともないのかもしれないけれど。
最終行で「主語」は「わたし」にもどっているようにも読める。「わたし」が「イワシの匂いが歯にしみついていると感じる」という「意味」に受け取るのが自然なのだろうが、私はここでも「イワシ」を主語にして読みたい。
「イワシの匂い」がではなく「イワシ」が歯の中に、「しみついている」ではなく「すみついている」(生きている)と読みたい。「イワシの匂い」がではなく「イワシ」がそのまま「主語」になって、坂本の虫歯にすみついて、歯の洞穴を泳いでいる感じがする。
坂本の「肉体」は「大西洋」になって、その「肉体」のなかをイワシが泳いでいる。坂本に食べられながら、なお、生きている。そう思うと楽しい。
で、詩を読み返してみると……。
一連目、書き出しこそ「わたし」が「主語」である。しかし、最終行は「イワシの骨が残っています」と「イワシの骨」が「主語」になっている。「イワシ」が「主語」なのだ。
あ、こういうことは、「文法」を厳密にあてはめて考えることではないね。
「主語」は「わたし」と「イワシ」を自在に行き来している。「私」と「イワシ」は最初から入れ替え可能な「主語」である。というか、ある「状況」は「主語」を入れ替えることでさまざまに変化するのだから、「主語」を入れ替えながら「世界」をつかみなおすしかないのだろう。
そのつかみなおし、「主語」の入れ替え、読み直しのなかに、詩は生きているのだと思う。
急にイワシを食べたくなった。食べながら、イワシがクジラやシャチからフィッシュボールになっ逃げたことや、大西洋/太平洋を泳ぎ回ること、中国の船から逃げ回るイワシになってみたい気持ちになった。
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