原口哲也「実り」(「雨期」66、2016年02月20日発行)
原口哲也「実り」はことばで世界をつかみとる、あるいはつくりだすという意識が強い詩である。
一行目は静かな描写である。これが二行目から変わっていく。「色(赤)」を色ではなく「震え」でつかんでいる。しかも「かすかな」震えであり、それは色に「やどる/震え」だ。
このとき原口は何をいちばん重要なものとして提示しようとしているのだろうか。
日本語の語順からいうと、大事なものは最後にくるから、「震え」がいちばん重要なのだろうか。三行目は「震え」を引き継いでことばが動いているから「震え」が重要なのだろう。しかし、その直前の「かすかな」も三行目の「紛れる」ということばに引き継がれているに思える。こうした連続感(緊密な接続性)のあることばの動きがあるから、ことばによって世界をつかみとる、つくりだすという印象がするのだと思う。連続感/緊密生はことばによってはじめてあらわれてくるものだからである。ことばにする前は「赤い実」という「もの」があるだけだ。
で、こんなにことばに緊密感があると、どのことばが原口のいちばん言いたいことなのかわからなくなる。「赤い実」について書いているが、その「赤い実」をいちばん的確にあらわしているのは、どのことば? それが、わからなくなる。
さらに「やどる」ということばは、四行目の「迸る」「輝く」ということばにつながっているように感じられる。「やどる」とは「内部」にやどる。その「内部」から「迸り」、それが「輝く」という具合にことばが動いていると思う。
そうなると、ますますどれが「重要」なのか、よくわからなくなる。
どのことばというよりも、やどる→迸る→輝く、かすか→震え→紛れるというふたつの運動が平行して(共存して)動いていることがよう重要なのだろう。ことばが緊密にれんぞくするということ、意識がしっかりつながるということが重要なのだろう。
「祓う」は「かすか→震え→紛れる」という表面的な動きを否定して「やどる→迸る→輝く」という運動が表に出てくるということだろう。「輝く」が「色(赤)」に、もう一度結晶するのである。この一度否定を含むというのは「弁証法」の「止揚」の動きのようだ。それがさらに緊密な論理を呼ぶ。あるいは浮かび上がる論理をいっそう緊密にする。
「赤/色」を「視覚」で「赤」とつかみ、それで終わるのではなく、その「色/赤」の「内部」を、「赤」がどのようにして「赤」になったのか、ということを「視覚」とは別の「動詞」でつかみとる、あるいはつくりだそうとしているように感じられる。
ことばが、世界を生み出していく、という印象がする。
これは二連目の一行目。「ある」のか「ない」のか、「あった」のか「なかった」のか。いったい、どっち? と、問うことは、意味がない。ここに書かれていることは「事実」ではなく、「ことば」であり、そのことばが「ある」と言えば「ある」し、「ない」と言えば「ない」。ことばが「ある」か「ない」かを決めるのである。
「事実」があって「ことば」がそれを報告するのではない。「ことば」が「事実」を生み出していくというのが原口の詩なのだ。
「ある」か「ない」か、「あった」か「なかった」かではなく、ことばがその「実」を「赤」と呼ぶときに、それは「赤」になり、「輝き」と呼ぶときに「(赤い)輝き」になり、それは「内部からあふれだすもの」であり、つまりそのとき「内部は満たされている」ということでもある。「赤」は「表面」を描写しながら、同時に「内部」の運動をあらわすものになる。
それはすべて「事実」というよりも「ことば」の緊密な運動が生み出したもの。
この「ことば」のつくりだした運動を「いのち」と言い直すとき、それは「実」の運動にとどまらず、「人間」の運動にも重なっていくる。
「運動」の結果として「ここ」にあらわれてくる。そのとき「実」は「運動」の「証し」。ひともまた「運動」の結果として「ここ」にいる。「ある」。
「運動」というのは「経過」である。たとえば弁証法の止揚である。「経過」だから、そこに「時間」もあらわれてくる。いや「時間」がつくり出される。
この「つくり出し」を原口は「呼ぶ」という動詞で表現しているが、「呼ぶ」とは「名づける」でもあるだろう。「呼ぶ」もそうだが「名づける」も、「ことば」でそうするのである。「ことば」が世界をつくりだしていく、そのつくりだすという運動に原口は「詩」で参加しているということになる。
もう一篇の「坂の名」の二連目。
「文脈(意味)」を無視して書いてしまうが、「「ある」よりさきに その「名」がある。」「言葉をつかみ取ろうとする。」は、原口のことばの運動の特徴を象徴的に語っているように思える。
「実り」では「やどる」という「動詞」があったが、この詩では「孕む」という「動詞」が動いている。「やどる」も「孕む」も「内部」の現象/運動である。そして、ともに「生む(生み出す)」という動詞へとつながっていくものである。
原口は、目の前に「ある」何か、現象/事実を、内部から「運動」としてとらえなおそうとしている。目に見えない「内部」の運動を、「ことば」によって見えるように(つかめるように)している。
原口哲也「実り」はことばで世界をつかみとる、あるいはつくりだすという意識が強い詩である。
庭の木が 赤い実をつけた。
色にやどるかすかな震えが
風に紛れようとしている。
それを祓って なお迸ろうと輝く。
一行目は静かな描写である。これが二行目から変わっていく。「色(赤)」を色ではなく「震え」でつかんでいる。しかも「かすかな」震えであり、それは色に「やどる/震え」だ。
このとき原口は何をいちばん重要なものとして提示しようとしているのだろうか。
日本語の語順からいうと、大事なものは最後にくるから、「震え」がいちばん重要なのだろうか。三行目は「震え」を引き継いでことばが動いているから「震え」が重要なのだろう。しかし、その直前の「かすかな」も三行目の「紛れる」ということばに引き継がれているに思える。こうした連続感(緊密な接続性)のあることばの動きがあるから、ことばによって世界をつかみとる、つくりだすという印象がするのだと思う。連続感/緊密生はことばによってはじめてあらわれてくるものだからである。ことばにする前は「赤い実」という「もの」があるだけだ。
で、こんなにことばに緊密感があると、どのことばが原口のいちばん言いたいことなのかわからなくなる。「赤い実」について書いているが、その「赤い実」をいちばん的確にあらわしているのは、どのことば? それが、わからなくなる。
さらに「やどる」ということばは、四行目の「迸る」「輝く」ということばにつながっているように感じられる。「やどる」とは「内部」にやどる。その「内部」から「迸り」、それが「輝く」という具合にことばが動いていると思う。
そうなると、ますますどれが「重要」なのか、よくわからなくなる。
どのことばというよりも、やどる→迸る→輝く、かすか→震え→紛れるというふたつの運動が平行して(共存して)動いていることがよう重要なのだろう。ことばが緊密にれんぞくするということ、意識がしっかりつながるということが重要なのだろう。
「祓う」は「かすか→震え→紛れる」という表面的な動きを否定して「やどる→迸る→輝く」という運動が表に出てくるということだろう。「輝く」が「色(赤)」に、もう一度結晶するのである。この一度否定を含むというのは「弁証法」の「止揚」の動きのようだ。それがさらに緊密な論理を呼ぶ。あるいは浮かび上がる論理をいっそう緊密にする。
「赤/色」を「視覚」で「赤」とつかみ、それで終わるのではなく、その「色/赤」の「内部」を、「赤」がどのようにして「赤」になったのか、ということを「視覚」とは別の「動詞」でつかみとる、あるいはつくりだそうとしているように感じられる。
ことばが、世界を生み出していく、という印象がする。
ここにある ここにない かつてあった あったこともなかった
これは二連目の一行目。「ある」のか「ない」のか、「あった」のか「なかった」のか。いったい、どっち? と、問うことは、意味がない。ここに書かれていることは「事実」ではなく、「ことば」であり、そのことばが「ある」と言えば「ある」し、「ない」と言えば「ない」。ことばが「ある」か「ない」かを決めるのである。
「事実」があって「ことば」がそれを報告するのではない。「ことば」が「事実」を生み出していくというのが原口の詩なのだ。
ここにある ここにない かつてあった あったこともなかった
やがてくる 無数の実りが その輝きで満たされる。
いのちが此処に至った証しを
たしかに「時間」と呼びならわすのだ。
「ある」か「ない」か、「あった」か「なかった」かではなく、ことばがその「実」を「赤」と呼ぶときに、それは「赤」になり、「輝き」と呼ぶときに「(赤い)輝き」になり、それは「内部からあふれだすもの」であり、つまりそのとき「内部は満たされている」ということでもある。「赤」は「表面」を描写しながら、同時に「内部」の運動をあらわすものになる。
それはすべて「事実」というよりも「ことば」の緊密な運動が生み出したもの。
この「ことば」のつくりだした運動を「いのち」と言い直すとき、それは「実」の運動にとどまらず、「人間」の運動にも重なっていくる。
「運動」の結果として「ここ」にあらわれてくる。そのとき「実」は「運動」の「証し」。ひともまた「運動」の結果として「ここ」にいる。「ある」。
「運動」というのは「経過」である。たとえば弁証法の止揚である。「経過」だから、そこに「時間」もあらわれてくる。いや「時間」がつくり出される。
この「つくり出し」を原口は「呼ぶ」という動詞で表現しているが、「呼ぶ」とは「名づける」でもあるだろう。「呼ぶ」もそうだが「名づける」も、「ことば」でそうするのである。「ことば」が世界をつくりだしていく、そのつくりだすという運動に原口は「詩」で参加しているということになる。
もう一篇の「坂の名」の二連目。
のぼりきったところには
たとえば屋敷がある。
青空を映す屋根がある。
「ある」よりさきに その「名」がある。
閉ざされた窓が 窓の数だけ
孤独な体温を孕む。
生よりも死が 言葉をつかみ取ろうとする。
けれど 遠く水脈を引く
「文脈(意味)」を無視して書いてしまうが、「「ある」よりさきに その「名」がある。」「言葉をつかみ取ろうとする。」は、原口のことばの運動の特徴を象徴的に語っているように思える。
「実り」では「やどる」という「動詞」があったが、この詩では「孕む」という「動詞」が動いている。「やどる」も「孕む」も「内部」の現象/運動である。そして、ともに「生む(生み出す)」という動詞へとつながっていくものである。
原口は、目の前に「ある」何か、現象/事実を、内部から「運動」としてとらえなおそうとしている。目に見えない「内部」の運動を、「ことば」によって見えるように(つかめるように)している。
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