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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

若尾儀武『流れもせんで、在るだけの川』

2014-08-27 11:30:17 | 詩集
若尾儀武『流れもせんで、在るだけの川』(ふらんす堂、2014年06月25日発行)

 若尾儀武『流れもせんで、在るだけの川』の詩篇は、どれも芝居(ドラマ)のようである。
 芝居の特徴は、そこで演じられるストーリーの「過去」はことばでは説明されないということだ。役者が出てきて、役者の「肉体」が登場人物の「過去」を語る。「肉体」は過去を噴出させ、未来へと時間を突き動かすのだが、噴出してくる過去が強烈だと、時間は前へ(未来へ)進んでいるのに、過去の量が増えてきて、過去が未来をのっとるという感じになる。過去が未来をのっとる瞬間をカタルシスという。(『オイディプス』の悲劇を思い起こしてもらいたい。)
 若尾の詩は、そういう印象を引き起こす。「印象」と書いてしまうのは、若尾が書いているのが「現在」ではなく「過去」だからである。書かれている「過去」を「いま」と思って読んでみる。そうすると、その「いま」の中に、書かれる前の「過去」が噴出してきて、時間が「未来」へ進んでいるにもかかわらず、「過去」にのっとられている、という感じがする。
 ここに書かれていることは「過去」にのみ起きたことなのか。そうではなく「いま」も起きていることならば「過去」ではなく、「いま」を書いてほしかったと私は思うけれど……。まあ、それはそれとして、噴出してくる「過去」、「いま」を突き破って、「いま」の先(未来)を「過去」でのっとる作品を読んでみる。
 「名前」。花街で花を行商する母親の手伝いをしていると「白い花」を買いつづける若い女がやってくる。

なんであのひとは白い花ばっかり買うんやろ
赤い花のほうがきれいやのに
お母ちゃんは
ムエンブツには白い花のほうがええと思うてはるのやろ
あの娘は気だてのやさしい娘やという
ほんまにそう思うてはるのやろか
ぼくは女のひとにたしかめる
そうか そない思うてくれてはったん
おおきに
そして
あとは黙って
白い花は
客の目を楽しませるためではありません
自分の目を楽しませるためでもありません
骨のため
骨のため
白いまんまで海峡を渡れますようにと……
ここの水は骨まで赤くするのです

 「骨を赤くする」とは何か。骨はほんらい白い。赤くなったりはしない。「赤くなる」ではなく「赤くする」と若い女は言っている。血が流れ、血に染まって赤くする。しかし、この「する」はされるのだろう。だから「血が流れ」も「血が流され」ということになる。血が流され、血に染まって、「骨が赤くされる」。
 「骨を赤くされる」と書けないので、若い女は「骨を赤くする」と書いている。そこに切ないほどの怒りがある。
 若い女は、骨が赤くなるのを、骨が赤くされるのを見てきた。過去にそういうことがあった。その過去を思い出しながら、そういう人の冥福を祈りながら、自分がそういう目にあわないようにと祈っている。花をささげることで、過去の「赤い骨」が「白い骨」を思い出せますように、と祈っているかもしれない。
 だが、若い女は「白い骨」のまま海峡を渡れなかった。

洞仙寺の一隅
墓石か石か
白い石が傾ぶいている
夕子さんだったか
夕顔さんだったか
思い出したところで
そのひとの名前ではない

 自分のほんとうの名前ではなく、別の名前をつけられて生きたひと。その墓(?)の前にたつと、そのひとの「過去」の「さらなる過去」が噴出してくる。若い女の「過去」だけではなく、彼女といっしょに生きたひとたちの「過去」も噴出してくる。



 この詩集の感想を書くのは、とても難しい。
 若尾にとって、ここに書かれていることはけっして「過去」ではないのだすうけれど、どうしても「少年時代の思い出」の形で見えてくる。それは「現在」のようになまなましくない。どんなに過酷なことであっても、何か「美しい」ものになっている。美しさは、過去の悲しみの中にあるのではなく、「いま」動いていて、汚れても汚れても、その汚れを振り落として動いていくもののなかにあってこそほんものだと私は思う。
 なんだ、これは、こんなに汚いなんて、美しすぎる--というような矛盾したことばでしか向き合えない美しさに出会いたい、とこの詩集を読みながら思った。
詩集 流れもせんで、在るだけの川
若尾 儀武
ふらんす堂
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(158)(未刊5)

2014-08-27 09:49:38 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(158)(未刊5)   2014年08月27日(水曜日)

 「一九〇三年九月」は男色に踏み出す前の苦悩と歓喜を描いている。

せめて幻で自分をまやかしていたい。
私の人生はほんとうは虚ろだもの。

 「虚ろ」なのは男色の欲望がありながら、その世界に踏み出せないからである。だから、せめて「幻(の恋)」で自分をまやかすのだが、相手は「幻」ではない。さらに欲望も「幻」ではない。

あまたたび、あれほども、あのひとの近くに、
あの官能の眼差しの、あのくちびるの、
あの、夢に現れて愛した身体の、
あまたたび、あれほどのそばにありつつ。

 「あの」が繰り返される。カヴァフィスには「あの」と言えばそれだけでわかる「あの」。読者にはもちろん「あの」が具体的にはわからない。これはカヴァフィスのいつもの調子である。口調である。初期から、カヴァフィスは具体的な描写(個性的な描写)を回避して「あの」「その」で対象を描いている。
 いや、対象を描いているのではない。
 カヴァフィスは、自分自身の「あり方(ありよう)」を描いている。もう何度も何度も思い浮かべた。何度も何度も欲望に突き動かされた。欲望は具体的なことばなど必要としない。欲望に必要なのは肉体を動かすことである。「あれ(あのこと)」がしたい。具体的に描写する必要などない。「あの」で、自分にはすっかりわかってしまう。余分なことばをつかうと、それだけ対象が遠くなる。いちばん短いことば「あの」で「あのひと」を呼び寄せる。
 自分自身の恋。欲情。誰かにわかってもらう必要などない。だから「あの」で充分なのだ。充分すぎる。
 その「あの」と関係しているのだが、この詩には「あ」の音が多い。ギリシャ語ではどうなのかわからないが、中井久夫は「あ」を繰り返す形で訳している。「あ」またたび、「あ」れほど、「あ」のひと、さらには「あ」らわれ、「あ」いした、「あ」りつつ。その繰り返しは、まるでため息のようである。そしてまた、自分のため息に自分で酔っているような感じでもある。
 だから、苦悩なのに、同時に歓喜の声も聞こえる。苦悩こそが歓喜を与えてくれるとわかっていて、カヴァフィスは苦悩を選んでいる。
 これは矛盾だが、矛盾しているからこそ、詩なのである。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
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