原利代子『永遠の食卓』(砂子屋書房、2014年07月25日発行)
原利代子『永遠の食卓』の「放課後」は魅力的な詩だ。一度感想を書いたことがあると思う。もう一度書こうかとも思ったのだが、別の作品について書く。
「挿む」。
この詩がおもしろいのは、差し挟まれているものは「他人」のものなのに、そこからだんだん「他人」が消えていくことだ。「年金の葉書」まではたしかに「その人」のものであった。しかし、それに対して「こんなの見せていいのって……」、その「……」には「思った」が省略されているのだろうけれど、「思った」瞬間、そこから「思った」という動詞の「主語」(原)があらわれてくる。動きはじめる。
「年代ものの歯医者の診察券」は「その人」のものだが、その上に「けっさくは」という原の感想がくっついてしまって、「けっさく」と思った原のこころが、そのあとを引き継いで行く。「子供の頃に行った」の主語は「その人」ではなく、原。「その人」も子供の頃に歯医者に行ったかもしれないけれど(年代ものの診察券が、そう語っている)、ここに描写される「畳敷きの待合室」は原が体験したものだ。
描写と思いが整理されていない--と指摘することもできるのだが。
私は、この入り乱れがおもしろいと思った。「他人」が消えていく感覚がおもしろいと思った。
ただし、「他人」が消えるといっても完全に消えるわけではない。「その人」は、あいかわらずそこにいる。消えたのは「他人」という感覚である。そして、「もの」に
原の体験が重なることで、原は一種の「体験の共有」をする。そのときから「他人」は「知人(知っている人)」、そして「親しい人」に変わるのである。
「体験を共有する」というのは、実際に、同時に体験をするわけではないから、真の「共有」とは言えないかもしれない。「共有の捏造」ということになるかもしれない。けれど、それは実際にひとつのことを同時に体験すること(実際の体験の共有)より強い意味を持つかもしれない。積極的な何かを持っているかもしれない。「体験の共有を捏造する」とき、その共有は原が働きかけて生まれるものだからである。
原は「その人」に自分自身を重ね合わせるようにして、「その人」を感じはじめている。原は、「その人」になっているのである。
「他人」が「知人(親しい人)」になるとき、原は「その人」になってしまう。
「その人」になってしまっているから、やっていることが「おしゃれ(な、いたずら)」になる。「わけのわからない栞」ではなく、その栞に「おしゃれ」を感じている。「おしゃれないたずら」が完全にふたりに共有されている。
ここは、少し変わっている。「タバコの中包装の銀紙」までは「もの」だったが、それが「タバコの香り」を運んでくる。その「香り」を原は吸い込む。呼吸、息をする。「その人」が原の内部に入ってくる感じだ。
このあと、詩は乱れる。あるいは、核心に入る。どういってもいいけれど、それまでとは違ってくる。この違ってくるところが、なかなかいい。書いているうちにかわってしまう。過去のことを書いているのだが、書きながら「そういえば」とそこからもう一度過去を振り返るようにして、それまでを見つめなおす。
(詩集で読んでもらいたいので、あえて引用しない。)
タバコの香りといっしょに原の「肺(肉体)」に入り込んだ「その人」が原の「肉体」の内部にいて、「その人」と対話がはじまる。実際には「対話」を思い出すということなのだけれど、どうも「距離感」がない。「過去」という遠い時間を思い出すというよりも、いま、ここで「対話」している感じになる。「対話」をしながら、そのときの「その人」を思い、さらに「その人」でも「そのとき/そこ」でもない、「その人」の部屋を思う。「その人」の「部屋」を思うと「その人」がさらに原に近づいてくる。さらに親密になる。「行ってみたかったな 一度」と引用しなかった最後の部分に出てくるが、原は、「その人」になって、「その部屋」に何度も何度も行っている感じ。--この変化がほんとうにおもしろい。川の流れが途中に差し挟まれた岩か何かのためにくねって流れる。そのくねる瞬間のつややかな光のような自然が見える。原の「肉体」のなかに「その人」が差し挟まれ、原の「肉体」の内部が発光する、それがことばになってあふれてくる、という感じ。
原利代子『永遠の食卓』の「放課後」は魅力的な詩だ。一度感想を書いたことがあると思う。もう一度書こうかとも思ったのだが、別の作品について書く。
「挿む」。
その人の送ってくれる本にはいつも
しおりの代用にいろいろなものが挿んであった
たいていは同人誌の自分の作品の目印だったが
古い新幹線の座席指定券だったり
自分の庭の黄色く色づいた銀杏の一葉だったり
年金のお知らせの葉書を半分に切ったものもあって
こんなの見せていいのって……
けっさくは年代ものの歯医者さんの診察券
手書きの文字が薄れ 四隅がすれて丸くなっているもの
子供の頃に行った
畳敷きの歯医者さんの待合室にワープする
この詩がおもしろいのは、差し挟まれているものは「他人」のものなのに、そこからだんだん「他人」が消えていくことだ。「年金の葉書」まではたしかに「その人」のものであった。しかし、それに対して「こんなの見せていいのって……」、その「……」には「思った」が省略されているのだろうけれど、「思った」瞬間、そこから「思った」という動詞の「主語」(原)があらわれてくる。動きはじめる。
「年代ものの歯医者の診察券」は「その人」のものだが、その上に「けっさくは」という原の感想がくっついてしまって、「けっさく」と思った原のこころが、そのあとを引き継いで行く。「子供の頃に行った」の主語は「その人」ではなく、原。「その人」も子供の頃に歯医者に行ったかもしれないけれど(年代ものの診察券が、そう語っている)、ここに描写される「畳敷きの待合室」は原が体験したものだ。
描写と思いが整理されていない--と指摘することもできるのだが。
私は、この入り乱れがおもしろいと思った。「他人」が消えていく感覚がおもしろいと思った。
ただし、「他人」が消えるといっても完全に消えるわけではない。「その人」は、あいかわらずそこにいる。消えたのは「他人」という感覚である。そして、「もの」に
原の体験が重なることで、原は一種の「体験の共有」をする。そのときから「他人」は「知人(知っている人)」、そして「親しい人」に変わるのである。
「体験を共有する」というのは、実際に、同時に体験をするわけではないから、真の「共有」とは言えないかもしれない。「共有の捏造」ということになるかもしれない。けれど、それは実際にひとつのことを同時に体験すること(実際の体験の共有)より強い意味を持つかもしれない。積極的な何かを持っているかもしれない。「体験の共有を捏造する」とき、その共有は原が働きかけて生まれるものだからである。
原は「その人」に自分自身を重ね合わせるようにして、「その人」を感じはじめている。原は、「その人」になっているのである。
「他人」が「知人(親しい人)」になるとき、原は「その人」になってしまう。
ああ何でも栞にしてしまう人だった
あの方流のおしゃれないたずらだったのかしら
「その人」になってしまっているから、やっていることが「おしゃれ(な、いたずら)」になる。「わけのわからない栞」ではなく、その栞に「おしゃれ」を感じている。「おしゃれないたずら」が完全にふたりに共有されている。
最後に送ってくれた古い詩誌には
タバコの中包装の銀紙がきっちりたたんで挟んであった
ほのかにタバコの香りがした
たぶんセブンスターの
そういえば
送ってくれる本にはいつもタバコの匂いがしみていた
ここは、少し変わっている。「タバコの中包装の銀紙」までは「もの」だったが、それが「タバコの香り」を運んでくる。その「香り」を原は吸い込む。呼吸、息をする。「その人」が原の内部に入ってくる感じだ。
このあと、詩は乱れる。あるいは、核心に入る。どういってもいいけれど、それまでとは違ってくる。この違ってくるところが、なかなかいい。書いているうちにかわってしまう。過去のことを書いているのだが、書きながら「そういえば」とそこからもう一度過去を振り返るようにして、それまでを見つめなおす。
(詩集で読んでもらいたいので、あえて引用しない。)
タバコの香りといっしょに原の「肺(肉体)」に入り込んだ「その人」が原の「肉体」の内部にいて、「その人」と対話がはじまる。実際には「対話」を思い出すということなのだけれど、どうも「距離感」がない。「過去」という遠い時間を思い出すというよりも、いま、ここで「対話」している感じになる。「対話」をしながら、そのときの「その人」を思い、さらに「その人」でも「そのとき/そこ」でもない、「その人」の部屋を思う。「その人」の「部屋」を思うと「その人」がさらに原に近づいてくる。さらに親密になる。「行ってみたかったな 一度」と引用しなかった最後の部分に出てくるが、原は、「その人」になって、「その部屋」に何度も何度も行っている感じ。--この変化がほんとうにおもしろい。川の流れが途中に差し挟まれた岩か何かのためにくねって流れる。そのくねる瞬間のつややかな光のような自然が見える。原の「肉体」のなかに「その人」が差し挟まれ、原の「肉体」の内部が発光する、それがことばになってあふれてくる、という感じ。
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