谷川俊太郎『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫、2013年01月16日発行)
谷川俊太郎『自選 谷川俊太郎詩集』には、私の大好きな「父の死」が収録されていない。日本の詩のなかで、いや世界の詩のなかで1篇選ぶとしたら、私は「父の死」を選ぶ。それくらい大好きなのだが。
なぜ、収録されていないのかなあ……。
「文庫版の選詩集がもう何冊も出ているから、それらと重複する本にはしたくない。」と谷川は「まえがき」に書いている。うーん、それなら自分なりの「谷川詩集」をつくってみるしかないか、と思う。つくるなら厳選して10篇。谷川は二千数百篇(概略というところがすごい)の詩を書いているそうだから、10篇というのは乱暴な選択かもしれないけれど、どうせならそれくらいの方が私の好みをはっきりあらわすことができる。
でも、「父の詩」「かなしみ」「かっぱ」「鉄腕アトム」「臨死船」と数え上げて、あとがむずかしい。「臨死船」は最近読んだために印象が強いのかもしれない。読んでいない詩集もあるし、読んだけれど読み落としている詩もある。だいたい、詩は、その日の気分によって印象が違ってくるからなあ。生き物だからなあ……。
10篇選ぶのは私自身への「宿題」として。
「かなしみ」の感想を書いてみる。
この詩にはわからないところがある。2連目の読み方である。
「透明な過去の駅で/遺失物係の前に立ったら」。これは、「おとし物」をしました、と届けに行ったのか。それとも「おとし物」を受け取りに行ったのか。それがわからない。「おとし物」をしましたと届けたら、おとし物をした「らしい」が「らしい」ではなく「事実」になってしまって、そのために悲しみが強くなるのか。あるいは受け取りに行ったら、こんなに大事なものを一瞬でもおとしてしまうなんてと悲しくなるのか。どちらとも読めるのである。
どっち?
これは谷川に問いかけてもわからないだろう。どっちでもいいのである。読む人の勝手である。
そして、それが読者の勝手にまかせている点が谷川の詩の一番いいところであると思う。
詩にはもともと「意味」はない。「意味」を否定するところに詩の魅力がある。
そのことば、わかるけれど、どういう「意味」?
ああ、けれど、これはとても愚かしい質問である。そう質問するとき、ひとはだれでも自分の中にすでに「答え」をもっている。予感している。それはなかなかことばにならない。ことばにできない。だからついつい質問してしまうのだが、こういうときひとは「答え(正解)」を期待していない。質問することで、自分のことばがどこへ動いていくのか、それを確かめている。そうすることで、そこに書かれている「詩」そのものの中へ動いていく。詩そのものを「体験」する。自分の「肉体」のなかへ取り込んでしまう。
「透明な過去の駅」--それは具体的にはいつの、どの駅なのか書かれていないけれど、だれでも透明な過去の駅をもっている。「思い出の駅」といいかえてしまうと何かが違ってきてしまう駅。「ふるさとの駅」でも「あなたと別れた駅」でもだめである。ああ、あれは「透明な過去の駅」と呼ぶべきものだったのだ、そのときにわかる。「思い出」とか「ふるさと」とか「あなたと別れた」というようなことをすべて洗い流して、ことばが新しく誕生してくる。その誕生--それは谷川が生み出したものであるけれど、自分の肉体の中から生み出したもののように感じる一瞬。自分の中から生まれてくる「もの」--それは何かわからなくても生まれてくる「こと」はわかる。そしてそのとき、つまりうまれてくるという「こと」を感じるとき、私の「肉体」と谷川の「肉体」が重なる。ひとつになる。私が谷川になってしまう一瞬、そこに詩の不思議な喜びがある。
「透明な過去の駅」の具体的な「意味」はわからない。そして、それが何であるか言えないからこそ、私たちは「わかる」。それが、いま/ここで新しく生まれてくる「こと」を。--それは「それは何?」という質問ではほんとうは「答え」を導き出せない。「何」であると指し示すことのできる「もの」ではなく、「誕生する」という「動詞」としての「こと」だからである。
「かなしみ」には「かなしみ」という「もの」が描かれているのではない。「かなしみ」という「こと」が描かれている。
「おとし物」ということばが出てくるけれど、そのおとした「物」はここには書かれていない。「おとした」という「こと」、そういう気になった(してきてしまったらしい)という「こと」が書かれているのである。
「もの」ではなく「こと」を書き、その「こと」の中へ読者を誘い込む。そして「一体」になる。それが谷川の詩である。
だから、書き出しの「あの青い空の波の音が聞えるあたりに」の「あたり」もそれが「場所」をあらわすことばであっても、ほんとうは「場所」をこえた「こと」の現場なのである。そこでは「場」が動かずにあるのではなく、何かが起きている、動いている、ようするに「こと」が起きているのである。
で、その「こと」とは?
「波の音が聞こえる」ということ。「青い空」に「波の音が聞こえる」ということは「現実」にはありえないかもしれない。しかし、それが聞こえるような気がするという「こと」はある。その「こと」のなかへ自分の肉体を運び、その音を聞く--そのとき、谷川の肉体と私(読者)の肉体が重なる。
「こと」というのは「動詞」である。「動詞」だから、動く。動きは「もの」のようには「存在」として特定できない。その「動き」にあわせるしかない。そういうものである。
この詩でおもしろいのは、もうひとつ。
「波の音の聞えるあたりに」という表現のなかにある「音(聞こえる)」。谷川は「耳」で詩を書いている。聴覚の詩人である。その「証拠」のようなものがここにある。「波が白く輝くあたり(きらきら光るあたり)」というような「視覚」で「こと」を把握するのではなく「耳」で「こと」をつかまえている。「耳」が谷川の「肉体」の中心になって、ことばを動かしている。
それはたとえば、「二十億光年の孤独」の有名な、
という行の「ら行」の音の繰り返しのなかにもある。どんな「動詞」をあてはめてもいいのだけれど、そういうことをせずにただ「ネリリ」「キルル」「ハララ」という音を声にする--そのとき動く肉体の喜び、のどや鼻腔や舌や、そして耳の喜びのなかで、ただ音が音であることが楽しくなる--そういう「こと」を求めて谷川のことばは動いてもいる。
--というようなことを10篇の詩をとおして書いてみたいなあ。
谷川俊太郎『自選 谷川俊太郎詩集』には、私の大好きな「父の死」が収録されていない。日本の詩のなかで、いや世界の詩のなかで1篇選ぶとしたら、私は「父の死」を選ぶ。それくらい大好きなのだが。
なぜ、収録されていないのかなあ……。
「文庫版の選詩集がもう何冊も出ているから、それらと重複する本にはしたくない。」と谷川は「まえがき」に書いている。うーん、それなら自分なりの「谷川詩集」をつくってみるしかないか、と思う。つくるなら厳選して10篇。谷川は二千数百篇(概略というところがすごい)の詩を書いているそうだから、10篇というのは乱暴な選択かもしれないけれど、どうせならそれくらいの方が私の好みをはっきりあらわすことができる。
でも、「父の詩」「かなしみ」「かっぱ」「鉄腕アトム」「臨死船」と数え上げて、あとがむずかしい。「臨死船」は最近読んだために印象が強いのかもしれない。読んでいない詩集もあるし、読んだけれど読み落としている詩もある。だいたい、詩は、その日の気分によって印象が違ってくるからなあ。生き物だからなあ……。
10篇選ぶのは私自身への「宿題」として。
「かなしみ」の感想を書いてみる。
あの青い空の波の音の聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった
この詩にはわからないところがある。2連目の読み方である。
「透明な過去の駅で/遺失物係の前に立ったら」。これは、「おとし物」をしました、と届けに行ったのか。それとも「おとし物」を受け取りに行ったのか。それがわからない。「おとし物」をしましたと届けたら、おとし物をした「らしい」が「らしい」ではなく「事実」になってしまって、そのために悲しみが強くなるのか。あるいは受け取りに行ったら、こんなに大事なものを一瞬でもおとしてしまうなんてと悲しくなるのか。どちらとも読めるのである。
どっち?
これは谷川に問いかけてもわからないだろう。どっちでもいいのである。読む人の勝手である。
そして、それが読者の勝手にまかせている点が谷川の詩の一番いいところであると思う。
詩にはもともと「意味」はない。「意味」を否定するところに詩の魅力がある。
そのことば、わかるけれど、どういう「意味」?
ああ、けれど、これはとても愚かしい質問である。そう質問するとき、ひとはだれでも自分の中にすでに「答え」をもっている。予感している。それはなかなかことばにならない。ことばにできない。だからついつい質問してしまうのだが、こういうときひとは「答え(正解)」を期待していない。質問することで、自分のことばがどこへ動いていくのか、それを確かめている。そうすることで、そこに書かれている「詩」そのものの中へ動いていく。詩そのものを「体験」する。自分の「肉体」のなかへ取り込んでしまう。
「透明な過去の駅」--それは具体的にはいつの、どの駅なのか書かれていないけれど、だれでも透明な過去の駅をもっている。「思い出の駅」といいかえてしまうと何かが違ってきてしまう駅。「ふるさとの駅」でも「あなたと別れた駅」でもだめである。ああ、あれは「透明な過去の駅」と呼ぶべきものだったのだ、そのときにわかる。「思い出」とか「ふるさと」とか「あなたと別れた」というようなことをすべて洗い流して、ことばが新しく誕生してくる。その誕生--それは谷川が生み出したものであるけれど、自分の肉体の中から生み出したもののように感じる一瞬。自分の中から生まれてくる「もの」--それは何かわからなくても生まれてくる「こと」はわかる。そしてそのとき、つまりうまれてくるという「こと」を感じるとき、私の「肉体」と谷川の「肉体」が重なる。ひとつになる。私が谷川になってしまう一瞬、そこに詩の不思議な喜びがある。
「透明な過去の駅」の具体的な「意味」はわからない。そして、それが何であるか言えないからこそ、私たちは「わかる」。それが、いま/ここで新しく生まれてくる「こと」を。--それは「それは何?」という質問ではほんとうは「答え」を導き出せない。「何」であると指し示すことのできる「もの」ではなく、「誕生する」という「動詞」としての「こと」だからである。
「かなしみ」には「かなしみ」という「もの」が描かれているのではない。「かなしみ」という「こと」が描かれている。
「おとし物」ということばが出てくるけれど、そのおとした「物」はここには書かれていない。「おとした」という「こと」、そういう気になった(してきてしまったらしい)という「こと」が書かれているのである。
「もの」ではなく「こと」を書き、その「こと」の中へ読者を誘い込む。そして「一体」になる。それが谷川の詩である。
だから、書き出しの「あの青い空の波の音が聞えるあたりに」の「あたり」もそれが「場所」をあらわすことばであっても、ほんとうは「場所」をこえた「こと」の現場なのである。そこでは「場」が動かずにあるのではなく、何かが起きている、動いている、ようするに「こと」が起きているのである。
で、その「こと」とは?
「波の音が聞こえる」ということ。「青い空」に「波の音が聞こえる」ということは「現実」にはありえないかもしれない。しかし、それが聞こえるような気がするという「こと」はある。その「こと」のなかへ自分の肉体を運び、その音を聞く--そのとき、谷川の肉体と私(読者)の肉体が重なる。
「こと」というのは「動詞」である。「動詞」だから、動く。動きは「もの」のようには「存在」として特定できない。その「動き」にあわせるしかない。そういうものである。
この詩でおもしろいのは、もうひとつ。
「波の音の聞えるあたりに」という表現のなかにある「音(聞こえる)」。谷川は「耳」で詩を書いている。聴覚の詩人である。その「証拠」のようなものがここにある。「波が白く輝くあたり(きらきら光るあたり)」というような「視覚」で「こと」を把握するのではなく「耳」で「こと」をつかまえている。「耳」が谷川の「肉体」の中心になって、ことばを動かしている。
それはたとえば、「二十億光年の孤独」の有名な、
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
という行の「ら行」の音の繰り返しのなかにもある。どんな「動詞」をあてはめてもいいのだけれど、そういうことをせずにただ「ネリリ」「キルル」「ハララ」という音を声にする--そのとき動く肉体の喜び、のどや鼻腔や舌や、そして耳の喜びのなかで、ただ音が音であることが楽しくなる--そういう「こと」を求めて谷川のことばは動いてもいる。
--というようなことを10篇の詩をとおして書いてみたいなあ。
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