中村稔「私は物言うのを止めねばならぬ」、長谷川龍生「胞衣(えな)と空間線量」(「現代詩手帖」01月号)
中村稔「私は物言うのを止めねばならぬ」に「嘘」はないように見える。岡井隆の「比喩」、谷川俊太郎の「虚構」とは別のところでことば動いている。
だが「嘘」「虚構」のかわりに「矛盾」がある。「私は物言うのを止めねばならぬ」と言いながら、中村はことばを書いている。ものを言っている。いや、それは思っている(わたしは思う)のであって、言っているわけではないという見方もありうるだろうが、やはりそこには「矛盾」のようなものがある。「わざと」がある。わざと「私は物言うのを止めねばならぬ。」と書くことで矛盾を引き起こしている。矛盾を引き寄せることで、中村のことばは「文学」になっている。
ただ、この「わざと」は岡井隆や谷川俊太郎の「わざと」と違って見えにくい。だから言いなおしてみる。
中村の書いていることばに「矛盾」がある。そしてその「矛盾」は私の見方では「嘘」を含んでいる。ただしこの「嘘」はそれ自体として「嘘」なのではなく、それと向き合っているものに対して「嘘」ということである。どんな主張もその人自身の「本当」にもとづいてなされるものだけれど、それはあらゆる人に受け入れられるものではない。何かが受け入れられないとき、私たちはそれを「嘘」と呼ぶことがある。最愛の人が死んだ。そう聞いた瞬間「嘘だ」という声が漏れる。そう言うしかない「嘘」というものがある。「事実」なのだけれど、それを受け入れる用意ができていないとき、私たちはそれを「嘘だ」ということばにして拒絶する。それが瞬間的、本能的なものであるだけに私たちはその「嘘だ」というこえに対して批判をしない。そのときの「嘘」の定義のなかに「矛盾」がある。事実と違うということを「知っていて」こころがその事実を否定する--その事実とこころの矛盾。矛盾は「こころ」のなかにある。
それに似た「こころ」が中村の詩のなかにある。
本当は言わなければならないのである。何かを言わなければならない。けれど、それは中村がいま書いている、
ということではない。まるでなにごとも起きなかったようなことばではない。日付が刻印されていない、どこにでもある(繰り返されてきた)春の風景ではない。そういうことではない何かを言わなければならない。
また
ということでもない。「私(中村)」の個人的な「事情」でもない。「津波に攫われた幾千の人々の阿鼻叫喚」を実際に聞いた人が本当にいるかどうかもわからない。津波に襲われた人は大声をあげて助けを求めただろう。それは確かだろうと推測できるが、そのときそのまわりには津波の大きな音があった。人の声より津波の音の方が大きかっただろう。聞きたくても聞こえない。聞こえていても聞こえない--自分が逃げるのに必死で人の声は聞こえない。むしろ、「こっちへ来い」と必死に呼んでいるのに、その声が相手に聞こえない、届かない。「こっち」と呼ぶ声も津波がのみこんでいったというのが実際だろう。私の書いていることも「空想」だが、中村の書いている「幾千の人々の阿鼻叫喚」も想像に過ぎない。
こんな「想像(空想)」は、春になれば桜が咲き、桜が散り、遊歩道に花びらがしいたようになっているという「風景」とおなじように「流通言語」である。こんなことは確かに「言うのを止めねばならぬ」ことだろう。
だが、それでは何を言うべきなのか。
書きながら中村は少しずつ「発見」している。「言うのを止めねばならぬ」けれども言わなければならない。「たちまち消失した幾百の集落」があったことを。「家屋は瓦礫と化し、生計のたつきを失った人々」がいたことを。「森や畑、屋根や道路に飛散した放射能は/いつ除去できるのか」わからないということを。「私たちは私たちの子孫に/償いがたい負の遺産をのこした」ということを。
だが、それを言うには、いま書いていることばではだめだと中村は感じている。何かが足りないと中村は感じている。
それでも書くしかないのである。いまおきたことをまねいたのは「私たち自身なのだから」、「私たちの社会が/よって立つシステムの破綻」しているということだけは、書いておかなければならない。そのことをもっと別な形でことばにできるようになるまでは、「物言うのを止めねばならぬ」。そして、もし、その言うべきことが自分のことばになったあと、もう一度
と書くべきなのだ。そう書きたいのだ。もちろんそのときは、このことばは違った形になっているだろう。今のままではないだろう。
それまでは、ものを言えないということを言っておかなければならない。この「矛盾」を解消する方法があるのかどうかわからないが、中村はそれを矛盾として自覚しているから、こう書いているのだと思う。
*
長谷川龍生「胞衣(えな)と空間線量」は中村と違って、あえて「物言う」、「物言うことを止めない」。
長谷川の「矛盾」は「頭脳で 考えている」ときは「何もかも/見えると思っていた」のに「いまは 何も見えない」というところに凝縮している。
このとき「見える」「見えない」は何にとっての見える、見えないなのか。「頭脳」にとって見えないのか。それとも「眼(肉体)」には見えないのか。「頭脳」で「見える」ことは「肉体」にも見えると思っていたが、頭脳で考えたことが正しくないとわかったので、そのために肉体的にも何も見えなくなってしまったということか。
この疑問が長谷川を突き動かしていることに私は衝撃を受けた。
「頭脳」で見えることは「肉体(眼)」にも見える--と私たちは考えがちだ。あるいは「眼(肉眼)」に見えなくても「頭脳」で見えるなら、それは「見えた」ということだと信じがちだ。半径一センチの円に内接する正千角形と正九百九十九角形を「頭脳」で考えることができる。そしてそれは「千」と「九百九十九」という数字として正確に「見える」、識別できる。そうすると、私たちはそれを「見た」という気持ちになる。でもそうではない。それは私たちの錯覚であって、それは「眼」では見えない。数字に頼って「頭脳」が「見ている」(識別している)と思い込んでいるだけである。--こういうことは私のような凡人にはしょっちゅう起きることだが、長谷川にそういうことが起きるとは私は思っても見なかった。
「瞠視慾」を書いた長谷川はいつでも「眼」でしっかりものを見ている。「見る」ということが、そのまま「肉体」のなかに侵入していく。「肉体」が「頭脳(ことば)」を支配している。そこに書かれている「欲望」は「肉体」のものであって「頭脳」のものではない。長谷川は「肉体で見る」詩人であって、「頭脳で見る」詩人ではないというのが私の印象だった。
だがこの詩で長谷川は「頭脳」で考え、その結果「見えると思っていた」と反省し、「いまは 何も見えない」と言う。そのことを「言わなければならない」と「肉体」が感じ、そして叫んでいる。
乱暴な言い方になるかもしれないが、中村は「頭脳」で考えて「私は物言うのを止めねばならぬ。」と語るのだが、長谷川はそういう「頭脳」を否定して、「肉体」そのものに「何も見えない」と言わせる。「何も見えない」のだから語れないはずなのだが、その「語れない」ことを「見えない」という叫びにするのである。
この「見えない」と書かれているものを、もう一度見直してみる。「過去も 近未来も」--これは「もの」ではなくて「時間」のなかにある「こと」だから、そういうものは「見える」というより「想像」するしかない。だからこれは「想像」することが拒絶されている、拒否されている、ということになる。「想像」は「いま/ここ」を離脱して「いま/ここ」ではないところを動くものである。想像することが拒絶されている。
「想像」が拒絶されたとき(「瞠視慾」も「想像」で書かれているといえば言えるのだけれど、それは「頭脳の想像」ではなく「肉体の想像」である。共感である。道に倒れて腹をかかえている人間を見たら、腹が痛いのだと思うときの共感である)、言い換えると「いま/ここ」から離れて何かを「見る」ことを拒絶されたとき、それでは残されたものは何か。「いま/ここ」である。リアルな「いま/ここ」があり、それはリアルすぎてことばを超えている。--ことばを拒絶するリアルというものがある。
そして「いまは 何も見えない」は、「いまは いま/ここを離れたものは何も見えない」であり、「何も見えない」は「何も語れない」ということでもある。「語れない」長谷川の「眼」に「いま/ここ」が迫ってくる。目が近づいていくのではなく、「いま/ここ」が「眼」に直接迫ってくる。そこに「頭脳」が入り込むことを拒絶する。この拒絶に長谷川の「肉体」の「正直」がある。「本能」がある。
ふつう「瓦礫しか見えない」とひとは言う。しかし長谷川にはその「瓦礫」が見えない。そのかわりに「白い残骸」が見える。「瓦礫」は消えてしまって「白い残骸」が見える。それは「瞠視慾」で長谷川には「女」が消えてしまって「排泄の欲望」が見えるのと同じ感じだ。長谷川は「肉体」で「白い残骸」と共感しているのだ。「肉体」で見ているのだ。
「何か うごめいている」の「何か」は「白い残骸」が内包している「排泄」に通じる「肉体」そのものの「欲望(本能)」だ。それが「時間」となって「いま」を動かしている。「過去」や「近未来」ではなく、「いま/ここ」があるだけなのだ。
「いま/ここ」は「過去」も「未来」も区別しないのだ。ただ「いま/ここ」があり、それは「肉体」の「共感」のなかに、「過去(八十五年間)」も「未来」もひっくるめてしまう。「ひとつ」にしてしまう。「いま/ここ」に「過去」という「いま」から断絶した「こと」や「未来」という「いま」から断絶した「こと」はないが、「過去」も「未来」も区別できない「混沌」という「時間」がある。それが「肉体」を襲ってくる。「肉体」は「頭脳」を叩き割られて、無防備に、むきだしにされている。
この「思想(肉体)」は中村の書いている「頭脳」のことばでは「混沌(無)」にしか見えないかもしれない。それは「ことば」にしても「流通」しないかもしれない。けれど語らねばならない。中村は「物言うのを止めねばならぬ」と書いたが、長谷川は「物言うのを止めてはならない」と言うのである。そのとき中村の「主語」は「頭脳」であり、長谷川の「主語」は「肉体」である。
中村稔「私は物言うのを止めねばならぬ」に「嘘」はないように見える。岡井隆の「比喩」、谷川俊太郎の「虚構」とは別のところでことば動いている。
葉桜が翳を落とす遊歩道を歩めば、
道いっぱいに散りしいた白い花々。
さみどりの梢を仰ぎながら、私は思う、
私は物言うのを止めねばならぬ。
災厄に襲われた日から一年余、
津波に攫われた幾千の人々の阿鼻叫喚を
耳を澄ましても聞くことはできないから
私は物言うのを止めねばならぬ。
だが「嘘」「虚構」のかわりに「矛盾」がある。「私は物言うのを止めねばならぬ」と言いながら、中村はことばを書いている。ものを言っている。いや、それは思っている(わたしは思う)のであって、言っているわけではないという見方もありうるだろうが、やはりそこには「矛盾」のようなものがある。「わざと」がある。わざと「私は物言うのを止めねばならぬ。」と書くことで矛盾を引き起こしている。矛盾を引き寄せることで、中村のことばは「文学」になっている。
ただ、この「わざと」は岡井隆や谷川俊太郎の「わざと」と違って見えにくい。だから言いなおしてみる。
中村の書いていることばに「矛盾」がある。そしてその「矛盾」は私の見方では「嘘」を含んでいる。ただしこの「嘘」はそれ自体として「嘘」なのではなく、それと向き合っているものに対して「嘘」ということである。どんな主張もその人自身の「本当」にもとづいてなされるものだけれど、それはあらゆる人に受け入れられるものではない。何かが受け入れられないとき、私たちはそれを「嘘」と呼ぶことがある。最愛の人が死んだ。そう聞いた瞬間「嘘だ」という声が漏れる。そう言うしかない「嘘」というものがある。「事実」なのだけれど、それを受け入れる用意ができていないとき、私たちはそれを「嘘だ」ということばにして拒絶する。それが瞬間的、本能的なものであるだけに私たちはその「嘘だ」というこえに対して批判をしない。そのときの「嘘」の定義のなかに「矛盾」がある。事実と違うということを「知っていて」こころがその事実を否定する--その事実とこころの矛盾。矛盾は「こころ」のなかにある。
それに似た「こころ」が中村の詩のなかにある。
本当は言わなければならないのである。何かを言わなければならない。けれど、それは中村がいま書いている、
葉桜が翳を落とす遊歩道を歩めば、
道いっぱいに散りしいた白い花々。
ということではない。まるでなにごとも起きなかったようなことばではない。日付が刻印されていない、どこにでもある(繰り返されてきた)春の風景ではない。そういうことではない何かを言わなければならない。
また
災厄に襲われた日から一年余、
津波に攫われた幾千の人々の阿鼻叫喚を
耳を澄ましても聞くことはできないから
ということでもない。「私(中村)」の個人的な「事情」でもない。「津波に攫われた幾千の人々の阿鼻叫喚」を実際に聞いた人が本当にいるかどうかもわからない。津波に襲われた人は大声をあげて助けを求めただろう。それは確かだろうと推測できるが、そのときそのまわりには津波の大きな音があった。人の声より津波の音の方が大きかっただろう。聞きたくても聞こえない。聞こえていても聞こえない--自分が逃げるのに必死で人の声は聞こえない。むしろ、「こっちへ来い」と必死に呼んでいるのに、その声が相手に聞こえない、届かない。「こっち」と呼ぶ声も津波がのみこんでいったというのが実際だろう。私の書いていることも「空想」だが、中村の書いている「幾千の人々の阿鼻叫喚」も想像に過ぎない。
こんな「想像(空想)」は、春になれば桜が咲き、桜が散り、遊歩道に花びらがしいたようになっているという「風景」とおなじように「流通言語」である。こんなことは確かに「言うのを止めねばならぬ」ことだろう。
だが、それでは何を言うべきなのか。
あの日、たちまち消失した幾百の集落、
家屋は瓦礫と化し、生計のたつきを失った人々に
私たちが差しのべる絆はあまりに細く脆いから
私は物言うのを止めねばならぬ。
(略)
森や畑、屋根や道路に飛散した放射能は
いつ除去できるのか。私たちは私たちの子孫に
償いがたい負の遺産をのこしたのだから
私は物言うのを止めねばならぬ。
書きながら中村は少しずつ「発見」している。「言うのを止めねばならぬ」けれども言わなければならない。「たちまち消失した幾百の集落」があったことを。「家屋は瓦礫と化し、生計のたつきを失った人々」がいたことを。「森や畑、屋根や道路に飛散した放射能は/いつ除去できるのか」わからないということを。「私たちは私たちの子孫に/償いがたい負の遺産をのこした」ということを。
だが、それを言うには、いま書いていることばではだめだと中村は感じている。何かが足りないと中村は感じている。
復興や復旧の目途が立たない政府の
無策無能を非難することはやさしいけれど
彼らに権力を与えたのは私たち自身なのだから
私は物言うのを止めねばならぬ。
さみどりの木立の中、足許からムクドリが飛び立つ。
私たちのうけた傷痕は、私たちの社会が
よって立つシステムの破綻によるのだから
私は物言うのを止めねばならぬ。
それでも書くしかないのである。いまおきたことをまねいたのは「私たち自身なのだから」、「私たちの社会が/よって立つシステムの破綻」しているということだけは、書いておかなければならない。そのことをもっと別な形でことばにできるようになるまでは、「物言うのを止めねばならぬ」。そして、もし、その言うべきことが自分のことばになったあと、もう一度
葉桜が翳を落とす遊歩道を歩めば、
道いっぱいに散りしいた白い花々。
と書くべきなのだ。そう書きたいのだ。もちろんそのときは、このことばは違った形になっているだろう。今のままではないだろう。
それまでは、ものを言えないということを言っておかなければならない。この「矛盾」を解消する方法があるのかどうかわからないが、中村はそれを矛盾として自覚しているから、こう書いているのだと思う。
*
長谷川龍生「胞衣(えな)と空間線量」は中村と違って、あえて「物言う」、「物言うことを止めない」。
頭脳で 考えていると
過去も 近未来も 何もかも
見えると思っていた
いまは 何も見えない
長谷川の「矛盾」は「頭脳で 考えている」ときは「何もかも/見えると思っていた」のに「いまは 何も見えない」というところに凝縮している。
このとき「見える」「見えない」は何にとっての見える、見えないなのか。「頭脳」にとって見えないのか。それとも「眼(肉体)」には見えないのか。「頭脳」で「見える」ことは「肉体」にも見えると思っていたが、頭脳で考えたことが正しくないとわかったので、そのために肉体的にも何も見えなくなってしまったということか。
この疑問が長谷川を突き動かしていることに私は衝撃を受けた。
「頭脳」で見えることは「肉体(眼)」にも見える--と私たちは考えがちだ。あるいは「眼(肉眼)」に見えなくても「頭脳」で見えるなら、それは「見えた」ということだと信じがちだ。半径一センチの円に内接する正千角形と正九百九十九角形を「頭脳」で考えることができる。そしてそれは「千」と「九百九十九」という数字として正確に「見える」、識別できる。そうすると、私たちはそれを「見た」という気持ちになる。でもそうではない。それは私たちの錯覚であって、それは「眼」では見えない。数字に頼って「頭脳」が「見ている」(識別している)と思い込んでいるだけである。--こういうことは私のような凡人にはしょっちゅう起きることだが、長谷川にそういうことが起きるとは私は思っても見なかった。
「瞠視慾」を書いた長谷川はいつでも「眼」でしっかりものを見ている。「見る」ということが、そのまま「肉体」のなかに侵入していく。「肉体」が「頭脳(ことば)」を支配している。そこに書かれている「欲望」は「肉体」のものであって「頭脳」のものではない。長谷川は「肉体で見る」詩人であって、「頭脳で見る」詩人ではないというのが私の印象だった。
だがこの詩で長谷川は「頭脳」で考え、その結果「見えると思っていた」と反省し、「いまは 何も見えない」と言う。そのことを「言わなければならない」と「肉体」が感じ、そして叫んでいる。
乱暴な言い方になるかもしれないが、中村は「頭脳」で考えて「私は物言うのを止めねばならぬ。」と語るのだが、長谷川はそういう「頭脳」を否定して、「肉体」そのものに「何も見えない」と言わせる。「何も見えない」のだから語れないはずなのだが、その「語れない」ことを「見えない」という叫びにするのである。
頭脳で 考えていると
過去も 近未来も 何もかも
見えると思っていた
いまは 何も見えない
この「見えない」と書かれているものを、もう一度見直してみる。「過去も 近未来も」--これは「もの」ではなくて「時間」のなかにある「こと」だから、そういうものは「見える」というより「想像」するしかない。だからこれは「想像」することが拒絶されている、拒否されている、ということになる。「想像」は「いま/ここ」を離脱して「いま/ここ」ではないところを動くものである。想像することが拒絶されている。
「想像」が拒絶されたとき(「瞠視慾」も「想像」で書かれているといえば言えるのだけれど、それは「頭脳の想像」ではなく「肉体の想像」である。共感である。道に倒れて腹をかかえている人間を見たら、腹が痛いのだと思うときの共感である)、言い換えると「いま/ここ」から離れて何かを「見る」ことを拒絶されたとき、それでは残されたものは何か。「いま/ここ」である。リアルな「いま/ここ」があり、それはリアルすぎてことばを超えている。--ことばを拒絶するリアルというものがある。
そして「いまは 何も見えない」は、「いまは いま/ここを離れたものは何も見えない」であり、「何も見えない」は「何も語れない」ということでもある。「語れない」長谷川の「眼」に「いま/ここ」が迫ってくる。目が近づいていくのではなく、「いま/ここ」が「眼」に直接迫ってくる。そこに「頭脳」が入り込むことを拒絶する。この拒絶に長谷川の「肉体」の「正直」がある。「本能」がある。
水もかくれ 土もひそみ 石も埋もれ
こまかい断崖の底に 白い残骸だけが見えている
何か うごめいている
そこだけに時間がきざまれている
ふつう「瓦礫しか見えない」とひとは言う。しかし長谷川にはその「瓦礫」が見えない。そのかわりに「白い残骸」が見える。「瓦礫」は消えてしまって「白い残骸」が見える。それは「瞠視慾」で長谷川には「女」が消えてしまって「排泄の欲望」が見えるのと同じ感じだ。長谷川は「肉体」で「白い残骸」と共感しているのだ。「肉体」で見ているのだ。
「何か うごめいている」の「何か」は「白い残骸」が内包している「排泄」に通じる「肉体」そのものの「欲望(本能)」だ。それが「時間」となって「いま」を動かしている。「過去」や「近未来」ではなく、「いま/ここ」があるだけなのだ。
ぼくは 小宇宙の一端の 複合した時間の隙間に入っているようだ
つい さっき ぼくは ながいながい 眠りの淵から
目ざめたような気がする
つぎに このまま 白い残骸をこえて
稲のむらがる低地の方に
突入していくだろう
目ざめてから 数秒間のうち
ぼくの八十五年間の胞衣(えな)の記憶が よみがえった
この記憶は 過去のものなのか
これから始まる 予感なのか
「いま/ここ」は「過去」も「未来」も区別しないのだ。ただ「いま/ここ」があり、それは「肉体」の「共感」のなかに、「過去(八十五年間)」も「未来」もひっくるめてしまう。「ひとつ」にしてしまう。「いま/ここ」に「過去」という「いま」から断絶した「こと」や「未来」という「いま」から断絶した「こと」はないが、「過去」も「未来」も区別できない「混沌」という「時間」がある。それが「肉体」を襲ってくる。「肉体」は「頭脳」を叩き割られて、無防備に、むきだしにされている。
この「思想(肉体)」は中村の書いている「頭脳」のことばでは「混沌(無)」にしか見えないかもしれない。それは「ことば」にしても「流通」しないかもしれない。けれど語らねばならない。中村は「物言うのを止めねばならぬ」と書いたが、長谷川は「物言うのを止めてはならない」と言うのである。そのとき中村の「主語」は「頭脳」であり、長谷川の「主語」は「肉体」である。
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