北川透『海の古文書』(4)(思潮社、2011年06月15日発行)
「二章 一九七二年の幽霊船」。
この章では「語り手」が交代している。「第三の男」が「語り手」としてことばを動かしている。この男は海岸で二度、「船の幻影」を見る。最初に見た時の描写。
ここには不思議な「矛盾」がある。「親しかった人たち」への思いが「矛盾」している。
「親しかった人たち」はほんとうに「死者」なのか、その「死者」は「比喩」なのか。「比喩」であるとしたら、何をあらわす「比喩」なのか。「第三の男」にとって死んでいるということか。あるいは、「親しい人たち」から見れば男の方が死んでいるのかもしれない。(少なくとも、男は失踪して存在が消えている。その存在の消えたことを「死」と言えるかもしれない。--という論理の進め方は、飛躍を含んでいるのだが……)。
その「親しかった人たち」の「名前を呼ぶ」とはどういうことだろうか。それは「私はここにいる」ということの裏返しである。失踪した人間が、失踪したということを「放棄」して、名乗りを上げるというのに等しい。「爆笑」は、失踪した男の、そういう「矛盾」に気づいての嘲笑かもしれない。あるいは、やっと現われたことに対する喜びかもしれない。どのようにでも「誤読」することができる。
「期待に胸をいっぱいにしながら」というのは、一義的には、「爆笑」が起きるだろうという「期待」である。でも、なぜ、それが期待? 「爆笑」されることが「期待」であるということは、ちょっとおかしい。「矛盾」である。誰も他人から「爆笑」されたくはないだろう。
「期待」と「爆笑」ということばの組み合わせ--そこには、不思議な「矛盾」があるのだ。
それから、そういう「期待」を抱きながら、実際は、そういうことが起きないことを男とはしてしまう。親しかった人たちの名前をではなく、一人の女の名前を呼ぶ。これも「矛盾」である。自分で自分を裏切っている。
この自分を自分で裏切るという行為のために、「客船」が消える。
そして、その客船は、消えることによって、さらに強い印象を残す。だから、その後、
ということをしてしまう。これもまた「矛盾」である。そして、それが「矛盾」だから、一瞬の幻影、客船の明かり、親しい人たちが声を殺して潜んでいるという印象が強くなる。鮮やかになる。
北川のことばを読んでいると、北川の書いている「男」と「親しかった人たち」の関係を超えて、私は私の「親しかった人たち」が身を隠している豪華な船を思い浮かべてしまう。そこに書かれていることが私の体験ではないにもかかわらず、私にもそういう体験をする「夢」があるように思えてくる。
こういう感じに誘われるのは、そこに「矛盾」があるからだ。
「矛盾」を抱え込んでいる人間の「思い」、それを正確に書き表すことばは、「矛盾」しているがゆえに、まっすぐに届くのである。--変な言い方になるが、私は、そう感じる。
幻の船は、二度目は「幽霊船」となって「第三の男」の前に現われる。豪華な客船とは対照的な描写がつづく。
ここには「心情」の「矛盾」がない。最初に明かりのあふれる客船を見た時、男(老人)をとらえたのは「感情」の「矛盾」であった。「親しい人たち」に会ってみたい--名前を呼び、自分の存在を告げたい、しかし、反面、まだまだ隠れていたい。ただ、一人の女を忘れることはできない。その女をそっと自分のこころのなかにだけ呼び出してみる--そういう「矛盾」した思いが交錯していた。そして、「矛盾」が交錯するから、そこに書かれていることが鮮やかに浮かび上がった。
けれど、この「幽霊船」には「矛盾」がない。
この「矛盾」のない状態が「空虚」である。
「矛盾」がないから、そこでは何でも起きる。現実ではありえないことも、ことばの運動のまま、起きてしまう。「老人は波の上をダンスするように軽快な足どりで渡り、幽霊船に乗り移ることができた。」と書けば、それがそのまま「現実」になってしまう。
(あ、私の書いていることは、書かれていることがらと、ことばを混同している? そうかもしれないけれど、まあ、このまま書いていく。)
でも、この「矛盾」のなさ、「空虚」というのは--うーん。不思議だ。
次の部分に、私は、飛び上がってしまった。「えっ」と叫んでしまった。そうか、「空虚」というのは、こんなふうに「感情」(感覚)を消し去ってしまうものなのか、と思ってしまった。
「感じられた」「風だった」--このことばに私は心底驚いた。ふつうは、こうは書かない。ふつうは、
と書く。「事実」として書く。それがたとえ「幻影」であろうと。あるいは「幻影」であるればあるほど「事実」として書く。つまり、それが「実感」だからである。
「実感」を書く時、ことばは「感じた」ということばを省略してしまう。
ところが、北川はこの幽霊船に乗り移った男の見たものを「感じられた」と「感じ」のなかにとじこめる形で書いている。
「感じ」を書くと「感じ」が消える--というのは「矛盾」になるが、私は、ここにびっくりしたのである。
「空虚」とは「実感」がない状態である。「空虚」とは実際にあること(実感できること)を、「感じられた」とわざわざ「感じ」ということばをつかって「定着」させるしかない状態のことなのである。
私はなんだかとても面倒くさいことを書いているが……。
この「二章」に書かれていることば--ことがらは、「現実」と「実感」、「空虚」と「むりやり動かす感じ」のことを考えさせる。そういうことを、私は考えてしまう。ことばは「現実」にであったとき、どんなふうに動くか。感情は、どんなふうに充実するか。充実しすぎて、それが「感じ」であるか忘れてしまうか。それに反して「空虚」にであったとき、どうやってことばは動くか。「ある」ものさえ「感じ」ということばのなかにとじこめないことには存在しえない--この不思議……。
「実感」と「空虚」のせめぎあい。--それは、何だろう。北川は、こう書いている。(詩のことばは、次のようにつづいている。)
ここでは「感じられた」「風だった」ということばは退けられて「……」がつかわれている。北川のことば(老人のことば)は、ここで瞬間的に、ちょっと変化しているのだが、このことを書いていくと、複雑になりすぎるので省略。
「実感」と「空虚」のせめぎあい--それは「いんちきくさい偽の法廷」である。
「第三の男(老人)」は、その「いんちきくさい偽の法廷」から「失踪」したのだというのが、北川の思いなのだろう。

「二章 一九七二年の幽霊船」。
この章では「語り手」が交代している。「第三の男」が「語り手」としてことばを動かしている。この男は海岸で二度、「船の幻影」を見る。最初に見た時の描写。
なぜか明かりの洩れる窓の奥には、彼が失踪する前に親しかった人たちが、声を殺して潜んでいるような気がした。そのほとんどが死者であるが、彼らの名前を呼んだら、一斉に大海を揺るがすような爆笑が湧き起こるだろう。その期待に胸をいっぱいにしながら、彼がしたことは、誰にも届かない小声で、一人の女の名前を呼ぶことだった。その呟きが唇から洩れた時、不意に辺りは真っ暗になり、客船の幻影も消えた。
ここには不思議な「矛盾」がある。「親しかった人たち」への思いが「矛盾」している。
「親しかった人たち」はほんとうに「死者」なのか、その「死者」は「比喩」なのか。「比喩」であるとしたら、何をあらわす「比喩」なのか。「第三の男」にとって死んでいるということか。あるいは、「親しい人たち」から見れば男の方が死んでいるのかもしれない。(少なくとも、男は失踪して存在が消えている。その存在の消えたことを「死」と言えるかもしれない。--という論理の進め方は、飛躍を含んでいるのだが……)。
その「親しかった人たち」の「名前を呼ぶ」とはどういうことだろうか。それは「私はここにいる」ということの裏返しである。失踪した人間が、失踪したということを「放棄」して、名乗りを上げるというのに等しい。「爆笑」は、失踪した男の、そういう「矛盾」に気づいての嘲笑かもしれない。あるいは、やっと現われたことに対する喜びかもしれない。どのようにでも「誤読」することができる。
「期待に胸をいっぱいにしながら」というのは、一義的には、「爆笑」が起きるだろうという「期待」である。でも、なぜ、それが期待? 「爆笑」されることが「期待」であるということは、ちょっとおかしい。「矛盾」である。誰も他人から「爆笑」されたくはないだろう。
「期待」と「爆笑」ということばの組み合わせ--そこには、不思議な「矛盾」があるのだ。
それから、そういう「期待」を抱きながら、実際は、そういうことが起きないことを男とはしてしまう。親しかった人たちの名前をではなく、一人の女の名前を呼ぶ。これも「矛盾」である。自分で自分を裏切っている。
この自分を自分で裏切るという行為のために、「客船」が消える。
そして、その客船は、消えることによって、さらに強い印象を残す。だから、その後、
もう、あの客船が訪れることはないのだろうか。彼は毎夜、浜辺に佇みながら待ち続けた。
ということをしてしまう。これもまた「矛盾」である。そして、それが「矛盾」だから、一瞬の幻影、客船の明かり、親しい人たちが声を殺して潜んでいるという印象が強くなる。鮮やかになる。
北川のことばを読んでいると、北川の書いている「男」と「親しかった人たち」の関係を超えて、私は私の「親しかった人たち」が身を隠している豪華な船を思い浮かべてしまう。そこに書かれていることが私の体験ではないにもかかわらず、私にもそういう体験をする「夢」があるように思えてくる。
こういう感じに誘われるのは、そこに「矛盾」があるからだ。
「矛盾」を抱え込んでいる人間の「思い」、それを正確に書き表すことばは、「矛盾」しているがゆえに、まっすぐに届くのである。--変な言い方になるが、私は、そう感じる。
幻の船は、二度目は「幽霊船」となって「第三の男」の前に現われる。豪華な客船とは対照的な描写がつづく。
どの船窓にも明かり一つなく、いかなる機械音も聞こえず、そこに生者の影も死者の気配も感じられなかった。何という恐ろしい空虚。老人はその無言の磁力に引き込まれるように、砂浜から冷たい海に入る。急に静まり返った海は、不思議な浮力を湛えていた。老人は波の上をダンスするように軽快な足どりで渡り、幽霊船に乗り移ることができた。
ここには「心情」の「矛盾」がない。最初に明かりのあふれる客船を見た時、男(老人)をとらえたのは「感情」の「矛盾」であった。「親しい人たち」に会ってみたい--名前を呼び、自分の存在を告げたい、しかし、反面、まだまだ隠れていたい。ただ、一人の女を忘れることはできない。その女をそっと自分のこころのなかにだけ呼び出してみる--そういう「矛盾」した思いが交錯していた。そして、「矛盾」が交錯するから、そこに書かれていることが鮮やかに浮かび上がった。
けれど、この「幽霊船」には「矛盾」がない。
この「矛盾」のない状態が「空虚」である。
「矛盾」がないから、そこでは何でも起きる。現実ではありえないことも、ことばの運動のまま、起きてしまう。「老人は波の上をダンスするように軽快な足どりで渡り、幽霊船に乗り移ることができた。」と書けば、それがそのまま「現実」になってしまう。
(あ、私の書いていることは、書かれていることがらと、ことばを混同している? そうかもしれないけれど、まあ、このまま書いていく。)
でも、この「矛盾」のなさ、「空虚」というのは--うーん。不思議だ。
次の部分に、私は、飛び上がってしまった。「えっ」と叫んでしまった。そうか、「空虚」というのは、こんなふうに「感情」(感覚)を消し去ってしまうものなのか、と思ってしまった。
その途端に幽霊船は一変し、船内をベルが鳴り渡り、幾つもの黒い影が身を起こすのが感じられた。影たちは時に穏やかに、時には罵声に近い議論をしている風だった。
「感じられた」「風だった」--このことばに私は心底驚いた。ふつうは、こうは書かない。ふつうは、
その途端に幽霊船は一変し、船内をベルが鳴り渡り、幾つもの黒い影が身を起した。影たちは時に穏やかに、時には罵声に近い議論をしていた。
と書く。「事実」として書く。それがたとえ「幻影」であろうと。あるいは「幻影」であるればあるほど「事実」として書く。つまり、それが「実感」だからである。
「実感」を書く時、ことばは「感じた」ということばを省略してしまう。
ところが、北川はこの幽霊船に乗り移った男の見たものを「感じられた」と「感じ」のなかにとじこめる形で書いている。
「感じ」を書くと「感じ」が消える--というのは「矛盾」になるが、私は、ここにびっくりしたのである。
「空虚」とは「実感」がない状態である。「空虚」とは実際にあること(実感できること)を、「感じられた」とわざわざ「感じ」ということばをつかって「定着」させるしかない状態のことなのである。
私はなんだかとても面倒くさいことを書いているが……。
この「二章」に書かれていることば--ことがらは、「現実」と「実感」、「空虚」と「むりやり動かす感じ」のことを考えさせる。そういうことを、私は考えてしまう。ことばは「現実」にであったとき、どんなふうに動くか。感情は、どんなふうに充実するか。充実しすぎて、それが「感じ」であるか忘れてしまうか。それに反して「空虚」にであったとき、どうやってことばは動くか。「ある」ものさえ「感じ」ということばのなかにとじこめないことには存在しえない--この不思議……。
「実感」と「空虚」のせめぎあい。--それは、何だろう。北川は、こう書いている。(詩のことばは、次のようにつづいている。)
細い幾筋もの光線や、金属を擦り合わせた時のようなノイズが走り、天井から何枚も垂れ下がっている記憶の撒くが切り裂かれていった……。そこにぼんやりと、しかも、黒々と浮かび上がってきたのは、いんちきくさい偽の法廷だった。
ここでは「感じられた」「風だった」ということばは退けられて「……」がつかわれている。北川のことば(老人のことば)は、ここで瞬間的に、ちょっと変化しているのだが、このことを書いていくと、複雑になりすぎるので省略。
「実感」と「空虚」のせめぎあい--それは「いんちきくさい偽の法廷」である。
「第三の男(老人)」は、その「いんちきくさい偽の法廷」から「失踪」したのだというのが、北川の思いなのだろう。
![]() | 萩原朔太郎 「言語革命」論 |
北川 透 | |
筑摩書房 |
