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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『海の古文書』(4)

2011-06-19 23:59:59 | 詩集
北川透『海の古文書』(4)(思潮社、2011年06月15日発行)

 「二章 一九七二年の幽霊船」。
 この章では「語り手」が交代している。「第三の男」が「語り手」としてことばを動かしている。この男は海岸で二度、「船の幻影」を見る。最初に見た時の描写。

なぜか明かりの洩れる窓の奥には、彼が失踪する前に親しかった人たちが、声を殺して潜んでいるような気がした。そのほとんどが死者であるが、彼らの名前を呼んだら、一斉に大海を揺るがすような爆笑が湧き起こるだろう。その期待に胸をいっぱいにしながら、彼がしたことは、誰にも届かない小声で、一人の女の名前を呼ぶことだった。その呟きが唇から洩れた時、不意に辺りは真っ暗になり、客船の幻影も消えた。

 ここには不思議な「矛盾」がある。「親しかった人たち」への思いが「矛盾」している。
 「親しかった人たち」はほんとうに「死者」なのか、その「死者」は「比喩」なのか。「比喩」であるとしたら、何をあらわす「比喩」なのか。「第三の男」にとって死んでいるということか。あるいは、「親しい人たち」から見れば男の方が死んでいるのかもしれない。(少なくとも、男は失踪して存在が消えている。その存在の消えたことを「死」と言えるかもしれない。--という論理の進め方は、飛躍を含んでいるのだが……)。
 その「親しかった人たち」の「名前を呼ぶ」とはどういうことだろうか。それは「私はここにいる」ということの裏返しである。失踪した人間が、失踪したということを「放棄」して、名乗りを上げるというのに等しい。「爆笑」は、失踪した男の、そういう「矛盾」に気づいての嘲笑かもしれない。あるいは、やっと現われたことに対する喜びかもしれない。どのようにでも「誤読」することができる。
 「期待に胸をいっぱいにしながら」というのは、一義的には、「爆笑」が起きるだろうという「期待」である。でも、なぜ、それが期待? 「爆笑」されることが「期待」であるということは、ちょっとおかしい。「矛盾」である。誰も他人から「爆笑」されたくはないだろう。
 「期待」と「爆笑」ということばの組み合わせ--そこには、不思議な「矛盾」があるのだ。
 それから、そういう「期待」を抱きながら、実際は、そういうことが起きないことを男とはしてしまう。親しかった人たちの名前をではなく、一人の女の名前を呼ぶ。これも「矛盾」である。自分で自分を裏切っている。
 この自分を自分で裏切るという行為のために、「客船」が消える。
 そして、その客船は、消えることによって、さらに強い印象を残す。だから、その後、

 もう、あの客船が訪れることはないのだろうか。彼は毎夜、浜辺に佇みながら待ち続けた。

 ということをしてしまう。これもまた「矛盾」である。そして、それが「矛盾」だから、一瞬の幻影、客船の明かり、親しい人たちが声を殺して潜んでいるという印象が強くなる。鮮やかになる。
 北川のことばを読んでいると、北川の書いている「男」と「親しかった人たち」の関係を超えて、私は私の「親しかった人たち」が身を隠している豪華な船を思い浮かべてしまう。そこに書かれていることが私の体験ではないにもかかわらず、私にもそういう体験をする「夢」があるように思えてくる。
 こういう感じに誘われるのは、そこに「矛盾」があるからだ。
 「矛盾」を抱え込んでいる人間の「思い」、それを正確に書き表すことばは、「矛盾」しているがゆえに、まっすぐに届くのである。--変な言い方になるが、私は、そう感じる。

 幻の船は、二度目は「幽霊船」となって「第三の男」の前に現われる。豪華な客船とは対照的な描写がつづく。

どの船窓にも明かり一つなく、いかなる機械音も聞こえず、そこに生者の影も死者の気配も感じられなかった。何という恐ろしい空虚。老人はその無言の磁力に引き込まれるように、砂浜から冷たい海に入る。急に静まり返った海は、不思議な浮力を湛えていた。老人は波の上をダンスするように軽快な足どりで渡り、幽霊船に乗り移ることができた。

 ここには「心情」の「矛盾」がない。最初に明かりのあふれる客船を見た時、男(老人)をとらえたのは「感情」の「矛盾」であった。「親しい人たち」に会ってみたい--名前を呼び、自分の存在を告げたい、しかし、反面、まだまだ隠れていたい。ただ、一人の女を忘れることはできない。その女をそっと自分のこころのなかにだけ呼び出してみる--そういう「矛盾」した思いが交錯していた。そして、「矛盾」が交錯するから、そこに書かれていることが鮮やかに浮かび上がった。
 けれど、この「幽霊船」には「矛盾」がない。
 この「矛盾」のない状態が「空虚」である。
 「矛盾」がないから、そこでは何でも起きる。現実ではありえないことも、ことばの運動のまま、起きてしまう。「老人は波の上をダンスするように軽快な足どりで渡り、幽霊船に乗り移ることができた。」と書けば、それがそのまま「現実」になってしまう。
 (あ、私の書いていることは、書かれていることがらと、ことばを混同している? そうかもしれないけれど、まあ、このまま書いていく。)
 でも、この「矛盾」のなさ、「空虚」というのは--うーん。不思議だ。
 次の部分に、私は、飛び上がってしまった。「えっ」と叫んでしまった。そうか、「空虚」というのは、こんなふうに「感情」(感覚)を消し去ってしまうものなのか、と思ってしまった。

その途端に幽霊船は一変し、船内をベルが鳴り渡り、幾つもの黒い影が身を起こすのが感じられた。影たちは時に穏やかに、時には罵声に近い議論をしている風だった。

 「感じられた」「風だった」--このことばに私は心底驚いた。ふつうは、こうは書かない。ふつうは、

その途端に幽霊船は一変し、船内をベルが鳴り渡り、幾つもの黒い影が身を起した。影たちは時に穏やかに、時には罵声に近い議論をしていた。

 と書く。「事実」として書く。それがたとえ「幻影」であろうと。あるいは「幻影」であるればあるほど「事実」として書く。つまり、それが「実感」だからである。
 「実感」を書く時、ことばは「感じた」ということばを省略してしまう。
 ところが、北川はこの幽霊船に乗り移った男の見たものを「感じられた」と「感じ」のなかにとじこめる形で書いている。
 「感じ」を書くと「感じ」が消える--というのは「矛盾」になるが、私は、ここにびっくりしたのである。
 「空虚」とは「実感」がない状態である。「空虚」とは実際にあること(実感できること)を、「感じられた」とわざわざ「感じ」ということばをつかって「定着」させるしかない状態のことなのである。

 私はなんだかとても面倒くさいことを書いているが……。
 この「二章」に書かれていることば--ことがらは、「現実」と「実感」、「空虚」と「むりやり動かす感じ」のことを考えさせる。そういうことを、私は考えてしまう。ことばは「現実」にであったとき、どんなふうに動くか。感情は、どんなふうに充実するか。充実しすぎて、それが「感じ」であるか忘れてしまうか。それに反して「空虚」にであったとき、どうやってことばは動くか。「ある」ものさえ「感じ」ということばのなかにとじこめないことには存在しえない--この不思議……。

 「実感」と「空虚」のせめぎあい。--それは、何だろう。北川は、こう書いている。(詩のことばは、次のようにつづいている。)

細い幾筋もの光線や、金属を擦り合わせた時のようなノイズが走り、天井から何枚も垂れ下がっている記憶の撒くが切り裂かれていった……。そこにぼんやりと、しかも、黒々と浮かび上がってきたのは、いんちきくさい偽の法廷だった。

 ここでは「感じられた」「風だった」ということばは退けられて「……」がつかわれている。北川のことば(老人のことば)は、ここで瞬間的に、ちょっと変化しているのだが、このことを書いていくと、複雑になりすぎるので省略。
 「実感」と「空虚」のせめぎあい--それは「いんちきくさい偽の法廷」である。
 「第三の男(老人)」は、その「いんちきくさい偽の法廷」から「失踪」したのだというのが、北川の思いなのだろう。





萩原朔太郎 「言語革命」論
北川 透
筑摩書房



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ティム・バートン監督「シザーハンズ」(★★)

2011-06-19 23:06:24 | 午前十時の映画祭
監督 ティム・バートン 出演 ジョニー・デップ、ウィノナ・ライダー

 ティム・バートンの「色」が鮮明に出ている映画である。特色を超えて、色そのもの。黒と青と白。混ざり合って、冷たい金属の「青」になるのだが、この青の行き着く先は透明。ただし、氷の透明である。「シザーハンズ」の中にも「氷像」が出てくるが、これがティム・バートンの「理想の人間」なのだな、と改めて思った。
 「透明な人間」というのは、別のことばでいえば「肉体」を持たない人間。精神、純粋感情としての人間。ティム・バートンの描く恋愛は、あくまで「ピュア」な世界。肉体の交わりを必要としない世界である。
 この映画では、反対にある「肉体の愛」がカリカチュアされている。欲求不満の「主婦」たち。髪をカットしてもらうだけでエクスタシーを感じる女たち。主人公「シザーハンズ」のジョニー・デップは、そういうものを求めていない。ウィノナ・ライダーも、精神の愛を発見する。キスはするけれど、それを超えるセックスはしない。けれど、こころはしっかり結びついている。
 「ビートル・ジュース」にしろ「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」にしろ、そこに登場するのは「死者」というより、「生きた肉体」を拒否し、純粋に「精神(感情)」になった人間なのだ。死ぬこと、あるいは幽霊であること(?)は、ティム・バートンにとって、「肉体」を超越し、純粋になることなのだ。
 その「純粋」が「氷」というのは、まあ、ちょっと変な感じがするが、そこがティム・バートンなのだ。「透明」であっても、それは「手触り」がないとだめ。空気や水のように抵抗感がない存在ではなく、抵抗感はしっかりある。そういうものを求めているんだなあと思う。そして、またまたちょっと変ないい方になるが、白塗りの化粧、どぎついアイシャドウは、生身の人間を求める観客の欲望を拒絶するティム・バートン流の「抵抗」なのだと思う。

 で、少し映画にもどると、ウィノナ・ライダーは金髪が似合わないねえ。ジョニー・デップの黒、白、青の色と明確に区別するため(生身の人間であることを明確にするため)、金髪にしているんだろうけれど。でも、ダンスシーンの手の動きはよかったなあ。「ブラックスワン」のナタリー・ポートマンの手よりしなやかだ。「ブラックスワン」でも踊りを見たかったな。
     (「午前十時の映画祭」青シリーズ19本目、2011年06月19日、天神東宝3)


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一色真理『ES』(3)

2011-06-19 12:38:21 | 詩集
一色真理『ES』(3)(土曜美術出版販売、2011年06月20日発行)

 一色真理『ES』は「14 鏡」という作品を境にして、反転して行く。番号が鏡文字になる。「80 イド(id)」は「08」を鏡に映した状態である。「80」ではなく「08」。一色のなかでは区別がついているのかもしれないが、私にはこの鏡文字の番号は区別がつかない。同様に、「14」を境にしている詩集の構造もよくわからない。詩集のページをめくるたびに(作品を読み進むたびに)ことばにこめた「意味」の度合いがだんだん重くなってきているのが感じられるが、そのことが気になって「14」とそれ以後の区別がよくわからない。わからないことは、無視して……。
 「80 イド(id)」の前半。

エスの町では地面に穴を掘ると、必ず水が湧き出す。けれど、誰も
そこに井戸を掘ろうとする者はいない。出てくるのは赤い水ばかり
だからだ。それに、一度できた傷口から流れ出す血は、けっして止
まることがない。

言い忘れたが、ぼくの家の裏庭には、エスでただひとつの井戸がある。
底なしの井戸だ。ぼくが生まれた朝、父はここにぼくを投げ込んだ
という。血まみれの赤ん坊はしかし、死にはしなかったのだよ。

ぼくを追って、母が井戸に飛び込んだ。そして、ぼくは井戸の中で
母親の血首を吸って、大きくなった。ぼくと母は今でもそこにいる。
地の底。それとも血の底にというべきだろうか。

 「地の底」「血の底」。どちらか区別がつかないと一色は書いているが、もちろん「血の底」と書きたいのだ。「乳首」ではなく「血首」と書いた時から--いや、そういうことばを書くはるか前から、一色は「血」の「奥」にひそむものを「神話」のなかにとりこみたいと願っている。血なまぐさい「神話」。そして、そのなかで浄化される精神(こころ、魂)というものを願っている。
 「血の底」と書くことで、実際に、「血の底」を生きるのではなく、「血の底」を浄化したいのである。「血」ではないものにしたいのである。「血」であっても、その血をよごれた血ではなく、清らかなものにしたいのである。
 「地の底」「血の底」、そしてその「血」にさまざまな「血」がある。父の血があり、母の血があり、「ぼく」の血がある。それは「ぼく」のなかでは混じり合っている。そのことが「ぼく」の苦悩なのだが……。
 何と言えばいいのだろう。
 「意味」が強すぎる。「意味」が過剰すぎて、楽しくない。一色が過剰な苦悩を抱えていることは推測できるが、そういうものは私は推測したくない。(他の読者はどうかしらないが、推測したくない)。では、そういうものを私が拒んでいるのかというと、そうではない。私は推測はしたくないが、実感したい。「推測する」ということを通り越して、そのままを見たい。整理されずにある「生」の形を見たい。「血」などということばをつかわずに、あ、血だ、と感じたい。「血」という「文字」を見たいわけではないのだ。一色の書いている「血」は「文字」であり、「ほんもの」ではない。「文字」を読みながら「ほんもの」を推測するというのは、とてもつまらない。

 ニセモノであっても、本物が見たい--あ、いい間違えたなあ。こういえばいいのだろうか。間違っていても、「ほんもの」が見たい。「血」というこことば(文字)があてはまらなくてもいいから、「ほんもの」の血が見たいのだ。
 「血」と書けば間違いはないのだが、その間違いはないということによって「ほんもの」がどこか遠くに置き去りにされている。そう感じるのだ。「ほんもの」ではなく、「概念」を読まされている--そういう気持ちになるのだ。「概念」--その「間違いのない」ことばの運動など、おもしろくない。

 「概念」が「間違いのないことば」ということを補足すると……。
 この詩には「エス」ということばが出てくる。それからイド(id)が出てくる。このことばを一色は詩の注釈の形で説明している。「イドはフロイトの精神分析用語。ほぼ「無意識」に近い。エスはそのドイツ語。」
 一色は「エス」(イド)ということば、「無意識」ということばをフロイトから借りている。そして、その借り物を「井戸」をつかって「物語」に仕立てている。「井戸」の記憶がいつまでも「意識の底」を残っていて、それが「無意識」となって「ぼく」を支配している。
 こういうとき、私にはよくわからないのだが、ほんとうに一色のことばは動いているのか。そこで動いていることばはほんとうに一色のものなのか。私には、そうは感じられないのである。そこにあるのはフロイトのことば、あるいはフロイトとして「流通」していることばである。これでは、おもしろくないなあ。これでは一色が語っているのではなく、フロイトが一色の「無意識」を語ることになる。そこに書かれていることが「間違い」だろうが「正解」だろうが、それはフロイトの「間違い」「正解」であって、そこには一色はなんの関係もない。「材料」としてあるだけであって、「ことば」としてあるのではない。これでは詩ではない。
 フロイトの言っていることを、一色自身のことばで言いなおすことが必要なのだ。どんなことでもそうだが、まだ起きていないことは何もない。語られていないことは何もない。人間は生まれてきて、誰かと出会い、恋愛し(恋愛の対象は異性であったり、同性であったり、音楽であったり、数学であったり、といろいろだが)、恋愛することで自分自身が変り、死んでいく(死ぬことで何かのなかで生き続ける)--それだけである。それ以外のことはできない。みんな同じことをしている。同じことをしているけれど、その同じことをその人自身のことば(絵画なら、色・形、音楽なら音、数学・物理なら数式)で書き直すのである。自分のことばで書き直したとき、それは「芸術」になる。ひとを感動させるものになる。
 私の大好きなソクラテス先生(プラトン先生?)は、あらゆることを自分のことば言いなおそうとした。「流通している言語」ではなく、自分のことばで言いなおそうとした。そして、「わからない」という結論にしか到達できなかった。自分では「わからない」というところにたどりついたことばだけが、真のことばなのだ。他人のことばを借りて言ってしまうと「わからない」がなくなってしまう。
 誰だってわからない。そして「わからない」ものがそこにあるから、勝手にその「わからない」を「誤読」する。つまり、自分のことばで言いなおす--その瞬間、よくわからないが「わかった」という気持ちになる。何かを「実感」する。
 「80」「08」、イド、井戸、地の底、血の底ということばは、そういう世界からもっとも遠いところにある。
 こういう作品は、私は嫌いである。



 


詩集 元型
一色 真理
土曜美術社出版販売



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