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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「本能だけが仁王立ち」ほか

2011-02-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「本能だけが仁王立ち」ほか(「火曜日」105 、2011年02月28日発行)

 豊原清明「本能だけが仁王立ち」は、一篇の作品のなかでことばが動いていく。小説の主人公が作品のなかで成長するように、ことばが動いていく。

声を荒げて海に言う
なぜお前は、真実の海ではないのか
愚かな若者を泳がせて
汚されて、一体なんの得があるか?
僕は海に呟いた
いやぁ、ごめん 苛々していてね
君に言って、初めて心が和んだよ
平和が好い…
と、
言えない現実が、胸を駆り立てる

中年と意識したのは、最近さ
三十四歳か
胸が痛む
どうしようか
迷うので、これでいこうか
この先は
春袷
本能だけが
仁王立ち
清明

 最後の「春袷/本能だけが/仁王立ち」は改行されているが「春袷本能だけが仁王立ち」という俳句である。俳句である証拠として「清明」という署名(?)がついている。最初は荒々しかった「声」(声を荒らげて、と豊原は書いている)が、こではどっしりと落ち着いている。それこそ「仁王立ち」している。そして、その「仁王立ち」している「本能」と「清明」という署名(人間)が、ことばの構造の上では向き合っているのだが、最初から読んでくると、「本能」と「清明」が完全に合体し、合体することで「人間」の領域を超えているのを感じる。
 あ、変な言い方になってしまったなあ。言いなおそう。
 冒頭、豊原は海と向き合っている。海があって、豊原がいる。そして、豊原が一方的に海に向かって怒っている。そういう状況から、豊原のことばは動きはじめる。
 怒るだけ怒って、豊原はすこし反省する。「いやぁ、ごめん」と海に対して謝る。このときも海があり、豊原がいる。向き合っている。ただし、その「距離」は怒っていたときに比べるとずいぶん近づいている。
 そして、近づいていると感じたとき、実は、怒っていたときも、そんなに離れていたわけではないということがわかる。海に向かって海に怒りながら、豊原は自分に怒っている。海はいわば豊原の分身なのである。どこかでつながるものがあるから、怒ったままではすまない。どこかで和解しなければならない。だから「ごめん」と呟く。
 この変化のなかで、豊原は半分海であり、半分清明なのである。
 この半分海、半分清明という状態から、どうするか。
 うまく説明はできない。うまく説明できないからこそ、1連目と2連目のあいだに空白--断絶があるのだと思う。それをどうやって超えたのか、これはまあ、豊原にもわからないことかもしれない。

どうしようか
迷うので、これでいこうか

 わからないまま、ともかく踏ん切るのだ。そうすると、そこに「本能」ということばが浮かび上がり、「仁王立ち」ということばが浮かび上がり、豊原をつつみこんでしまう。豊原がことばをつつみこむのかもしれないけれど。
 そのきっかけとして「春袷」がある。春の袷。私は俳句にはうといので、よくわからないことが多いのだが、この「春袷」がぽんと放り出されて、それと向き合った瞬間、豊原が素っ裸になる。剥き出しになる。声を荒らげて怒るのでもなく、また呟くのでもなく、「声」を発しないまま、「本能」として「仁王立ち」になる。
 よし、「これでいこう」と決めるのである。
 このときの「春袷」の効果。季語(?)の効果。俳句の「切れ」の効果--それは、日本語の「本能」としてあるものかもしれない。俳句の「本能」と豊原のことばの「本能」が、ぴったり合致するのである。
 豊原は、そういうことばの変化、運動の変化を、書いている。それは意識して書いたものか、無意識に書いたものか、はっきりしないが、そうか、「俳句」はこんなふうなことばの動きの果てに、突然出現するものなのか、と思うのである。
 「しいたげられなかった、蚊」も「俳句」が生まれるまでの過程を描いている。

その女性の顔を識別しなかった
恥ずかしくて
顔が見られなくて
おどおどして
ちらり、横目でみただけだった
「私、クロスワード好きなの。
あなたも買わない?」
その時、顔を直視した
黒眼鏡で
ショートヘア
ニキビと黒子
細い唇
小さな顎
大きな目
つまり、若かった
若さ・マインド・病気
呟きながら
ページを閉じる
そう、真っ黒な、どす黒い山

夢を観ている
ゆっくりと、目を開けて
言葉を傾ける
僕は、僕を、コップに注ぐ
僕を、傾ける、新年

 「もの」があって、その「もの」と向き合う。直視する。そして「もの」をことばにする。そこからことばが動きはじめ、「僕」がめざめる。「恥ずかしくて/顔が見られなくて/おどおどして/ちらり、横目でみただけだった」と書く正直さが、ものとことばを、純粋な形で出会わせるのかもしれない。
 ことばは、その結果、自在な動きへ向け、動いている。

言葉を傾ける
僕は、僕を、コップに注ぐ
僕を、傾ける、新年

 これは、まだ「俳句」にはなってはいない。けれど、これから「俳句」になるはずのことばである。

 黒住考子「見るということは」。

木と 丘と そのうえにひろがり
あるいはひいていく 濃い うすい 青
今 鳥の群れが飛び立って
雲の切れ間からまっすぐ差し込む日
私は流れる空気を見ているのかもしれない

名づけようとしているのではなく
名づけられたさものを見ているのでもなく
風景 あるいはその残像を
見つづけている

 これは、豊原の詩と関連づけて感想を書けば、いわゆる「俳句」の世界である。黒住がいて、風景があり、風景をみつめているうちに風景と一体になる。自然と自己の融合、統一した世界--俳句。
 どこが違うのか。
 豊原の詩には(そして俳句には)、強靱な「肉体」がある。「僕」が「肉体」をもって存在している。黒住の場合、詩のなかに「私」という主語は出てくるが、その主語は透明になる。透明になることで「私」と「世界」を一体化する。豊原は彼自身を透明にはしない。不透明にする。不透明のなかへ世界を招き入れてしまう。「僕」という主語が書かれなくても、それは「僕」を主語とした詩(俳句)なのである。実際に、「俳句」では「僕」という主語は詩のようには頻繁には出てこない。
 --俳句にまで到達しなかったとき、豊原の詩が書かれる、ということになる。



 唐突につけくわえる補記。
 ことばの運動は不思議である。豊原のことばは、いろいろな現実にぶつかりながら軌道修正(?)し、俳句にたどりつく。俳句という「遠心・求心」の世界へと達する。
 ということを、思ったとき、私はふいに森鴎外を思い出したのだ。
 森鴎外のことばは、あちこちにぶつからない。とても正確である。真っ正直である。鴎外のことばは、そのまっすぐな力で、対象を(人間を)押す。そうすると、少しずつ人間が動きはじめる。ことばが動くのではなく、人間が動きはじめる。「渋江抽斎」を思い出しながら、私は書いているのだが、森鴎外のことばには、そういう力がある。
 --これは、いつか書いてみたい森鴎外論のテーマなのだが。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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トム・フーパー監督「英国王のスピーチ」(★★★★★)

2011-02-26 23:28:45 | 映画
監督 トム・フーパー 出演 コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム=カーター

 おもしろいシーンがいくつもある。いちばん印象に残るのは、コリン・ファースが吃音を直すために、ジェフリー・ラッシュの家に行き、そこで会話するシーンである。二人が対話するシーンというのは、顔がスクリーンの中央にこない、視線がまっすぐにカメラをみない(少しずらしたところから映す)というのが基本だと思うが、この映画では、その基本をさらに拡大している。コリン・ファースが語るとき、スクリーンの右半分は完全に空いている。壁が大半を占めている。そのスクリーンの構造が、そのまま治療を受けるときのコリン・ファースのこころそのものなのである。片隅にとじこもっている。感情がおしつぶされている。窮屈なところに自分を閉じ込めている。
 それは彼が怒りを爆発させるシーンと比較するとはっきりする。そのときスクリーンには空白がない。アップというわけではないが、スクリーンからコリン・ファースが飛び出してくる感じである。怒るとき、コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュの距離が、ぐいと縮む。怒りをとおして(感情の爆発をとおして)、二人の距離が縮むとき、コリン・ファースの吃音が直っている、というところが非常におもしろい。
 その「距離の変化」に注目すると、映画は、英国王が吃音を克服するということがテーマになっているのだが、そういう見かけのテーマとは別に、この映画は人間と人間の「距離」のありかたをこそテーマにしていることがわかる。
 コリン・ファースの演じる英国王は、相手との「距離」がうまくとれないときに吃音になる。距離がないときは、吃音ははげしくはならない。王の緊張は、自分の感情を自分自身の奥に閉じ込め、自分と他者とのあいだに不必要な「距離」をかかえこむときに生まれる。そして、それが吃音となる。
 そして、この吃音が、さらに距離を増幅させる。
 この距離が、単に個人的な「場」において存在するだけなら、問題ではない。王が「家庭内」で吃音である分には、問題はない。家庭内でどんな「距離」をかかえこんでいても、それは家庭の事情というものだろう。しかし、この距離が国民と王という場に入り込むと、非常に困るときがある。ふつうは、困らない。王と国民は、一緒に生活などしないからである。
 けれど。
 この映画で描かれている「戦時」の場合は、困る。戦争するとき、国民は団結しなければならない。国民と国民のあいだに距離があってはならない。同じように、王と国民とのあいだにも距離があってはならない。人間として団結しなければ、ナチスとは戦えないだろう。
 この映画が感動的なのは、単に吃音の王が吃音を克服し、国民に「戦争スピーチ」をしたというところにあるのではない。王が自分の抱えている距離の問題を克服し、その克服した結果生まれたあたらしい距離のなかへ国民を引き込み、団結するからである。
 この映画は、そういう距離の変化をきちんと映像として表現している。
 クライマックスのコリン・ファースのスピーチ。そのとき、コリン・ファースはマイク越しにジェフリー・ラッシュと真っ正面で向き合っている。このとき、冒頭に書いたような余分な「空白」はない。変な空白を排除することで、コリン・ファースがジェフリー・ラッシュと正面で向き合うだけではなく、その距離を縮めていることがわかる。それを補うように、ジェフリー・ラッシュの台詞がある。「わたしに向かって語りかけなさい」。スピーチは国民に向けたものである。けれど、国民というラジオ越しの遠い(距離のある)相手にではなく、いちばん近い相手にだけ向かって語れという。「声」から距離が消えるとき、それは王と国民との距離をも消してしまうのである。
 この距離を印象づけるためだと思うのだが、映画には随所におもしろい距離が出てくる。コリン・ファースがジェフリー・ラッシュと喧嘩別れ(?)をするシーン。コリン・ファースはどんどん道を歩いていく。ジェフリー・ラッシュは立ち止まったまま。距離がどんどん開いていくのだ。この広げた距離を、コリン・ファースは直接出向いて謝罪するということで縮めてみせるというのも、非常におもしろい。王が庶民に謝罪しにやってくるというのは、それだけで特別なことだが、その距離をつくりだしたのがコリン・ファースであることを、コリン・ファースの「歩き」としてきちんと映像化していたからこそ、それが効果的になるのだ。
 ジェフリー・ラッシュの家での、彼と妻の会話のシーンもおもしろい。妻はスクリーンの左側、ジェフリー・ラッシュは右側。ただし、このとき二人は会話をするにもかかわらず、互いに背を向けている。背を向けたまま、体をひねるようにして、話す。その距離と、角度。離れているけれど、接近する--どこかで接しようとするこころの動き。コリン・ファースの治療中の映像の構造とは対照的である。
 ストーリーが、映像、その構図そのものとしてスクリーンに定着している。コリン・ファースの演技そのものも非常にすばらしいけれど、映像の構図、そのカメラそのものも演技している(役者の演技を演出している)。構図だけではなく、映像自体もとても美しい。落ち着いている。映画を見た--という気持ちが、ずん、とこころの奥にたまる映画である。



 補記。
 「間」の問題を、空間ではなく「ことば」に置き換えると、「吃音」が見えてくる。そういう意味では、この映画は「吃音」を映像化(空間化)した作品とも言える。





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