goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「そほ」

2011-02-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「そほ」(「ポエームTAMA」14、2011年02月01日発行)

 また岩佐なを、である。きのう「素足の踏み場もない」という造語(?)から、「素足」→「指」と誘い込む語法について書くのを省略したので、きょうは違う詩を題材に、岩佐の「技巧」について書きたい。
 「そほ」。

身心がおとろえるから気づくこともある
(わかるのではなくて)
もちろん零れることのほうが多い

古今の灰を積もらせた庭に
なにか小さいものがいる
ねずみでもすずめでもむしでもない
もっと小さくて見えにくいもの
そほかもしれない
透明のようでも
ある角度の光を受けたときに
姿をちらりと見せる

 1連目の3行目。「零れる」のつかい方がうまい。1連目の「意味」は年をとるとともに身心がおとろえる。それは人間にとっていいことではないのかもしれないが、身心がおとろえて気が緩んだとき(?)、やっとはじめて気づくこともある。それは身心が充実しているときは、きっと身心がかってに(無意識に)処理していたものだろう。それは「わかる」というのではなく、「気づく」ということ。もっとも、そうだからといって、気づくことと、身心がおとろえてから気づかなくなってしまったものを比較すれば、気づかないものの方が多いだろう、意識から零れるものの方が多いだろうけれど……という具合になるだろう。
 で、この「零れる」がうまいなあ、と思うのは、「零れる」ものは「大きい」というより「小さい」からである。「零れる」は、「小さい」ものが「零れる」というイメージを呼び覚ますのである。砂粒が手のひらから零れる、萩の花が道に零れる……。
 そういう意識の操作をしておいて、2連目に「小さいもの」が出てくる。「ちいさいもの」が自然に誘い出される。これが「うまい」。あ、日本語に熟達している、という安心感をあたえる。
 そういう安心感があるから、そのあと「そほ」(祖母、だろうと思って読んだ)が出てきても、安心して「そほ」を「見る」ことができる。「祖母」なら人間だから、どんなに小さくてもねずみ、すずめ、むしより小さいことはないのだが、それでも安心して「祖母」だと思うことができる。日本語に熟達した岩佐が、ここで「間違い」をおかすはずがない。間違ったことを言うはずがない、という安心感から「祖母」をくっくりと見る。
 その「祖母」には

透明のようでも
ある角度の光を受けたときに
姿をちらりと見せる

 と、またまた現実の「祖母」ならありえない描写がつづくのだが、今度はそれが現実にはありえないからこそ、あ、これは「記憶の祖母」なのだ、という気持ちにさせられる。「記憶の祖母」なので「そほ」とわざと濁音ではないようにして書いているのかもしれない。
 庭で光が動くとき、あ、こんな日に、祖母が庭にいたなあ、木々やすずめの間を動いていたなあ、と思い出したりする。記憶、思い出だからこそ、「ちらり」でもあるのだ。
 そして、この、ちいさくて、「ちらり」という印象そのものが「祖母」になっていく。詩のつづきである。

ながしの桶にわたらせた俎板の上で
れんこんを輪切りにした折
とあるあなから逃げ去る気配
それにそほは似ている

自分が無意識に捨てた
凍えて縮かんだ記憶
透きとおってはいないがどす黒くもない
それが身勝手なやさしさに包まれて
捨てられたりもして
忘れるには好都合な特徴のない風袋

ささやかな記憶の中身はなに
その中身がそほに化けて
庭にいる
さくらさくころ
一年生(あのよの)

 どうやら「祖母」は亡くなって1年になるらしい。その祖母は、きっと俎板の上でれんこんを切っていた。そういう記憶は「自分が無意識に捨てた」、つまり「零し」てしまった記憶だろう。それが無意識に零したものだからこそ、「零れる」ということばとともに、いま、ここによみがえっているのだ。
 無意識に零してしまったものは、「ささやか」である。「捨てられ」ても、「忘れられ」ても、まあ、なにか不都合があるというわけではない。けれど、そういう「零れて」しまった記憶は、とてもなつかしい。気持ちを落ち着かせる。
 あ、「気づく」の「気」は「気持ち」の「気」だったんだねえ。
 「わかる」は「頭」で「わかる」んだろうなあ。「気づく」は「気持ち」が動いて、その存在に近づいていくことかなあ。
 岩佐の(と、あえて書いたおく)の「気持ち」が「祖母」の方に少し動く。一周忌だから。そうすると、その「気持ち」の動きにあわせて、「零れていた」小さな「祖母」の思い出が庭に動いてくる。
 思い出すものと、思い出されるものが、そうやって自然に出会う。

 この詩は、とても気持ちがいい詩だ。

しましまの
岩佐 なを
思潮社


人気ブログランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

園子温監督「冷たい熱帯魚」(★★★★★)

2011-02-09 02:01:00 | 映画
監督 園子温 出演 吹越満、でんでん、黒沢あすか、神楽坂恵

 この映画は、もう、でんでんの快演につきる。怪演を通り越してしまって、これが演技とは思えない。いや、演技とはわかっているのだが、あ、どこかでであっても目をあわせるのはやめよう、と思ってしまう。「地」だと思ってしまう。
 まあ、脚本もすごいのだが、脚本だけを読むと、きっと映画ではなく、芝居だと思ってしまう。ことばのつかい方が映画的ではなく、演劇的なのだ。
 でんでんの口にする台詞は、全部、ほんとうのこと。ほんとう--と言っても、いろいろあるが、簡単に言いなおすと、聞いてもらいたいこと。ひとには誰だって、言いたくても言えないほんとうのこと、悲しみや怒りや、いやそういうものになりきれない「愚痴」である。そこには周りの人を傷つけたくないという「遠慮」も含まれている。そういう「遠慮」がこもった「愚痴」は、なかなかことばにできない。身内にも言えないけれど、赤の他人にはなおさら言えない。その「愚痴」をでんでんは先取りして、ね、こうなんだよね、わかる、わかるよ、と言って、相手に近づき、相手のこころの中に入り込んでしまう。身内だから生まれてしまう「遠慮」を、他人であることを利用して取り払う。その瞬間、でんでんと相手の距離が消える。でんでんが、相手の「肉体」のなかにすーっと入ってしまう。のっとってしまう。
 この、不思議な呼吸を、でんでんは実に実に実に、簡単に(?)やってしまう。簡単そうにみえるから、いやあ、まずいなあ、こんな人間に会ったら、目が合う前に逃げようと思うのだ。「わかるよ、わかるよ」と言われないようにしようと思うのだ。
 だいたい自分のことさえわからないのに、他人に「わかるよ、わかるよ」と言われて、それを信じたりしたら、それはどこかがおかしいのだ。

 でもね。

 でんでんが、あのひとなつっこいような笑顔と、ちょっとだらしないことば、声、エッジのないというか、緊張のない声で近づいてきたら、きっとことばの「意味」なんかはどこかへ消えてしまって、「愚痴」の呼吸だけが広がり、そこへ誘い出されていくんだろうなあ。さっき、でんでんが相手の肉体をのっとると書いたけれど、ほんとうは、でんでんの呼吸に誘い出され、自分をなくしてしまうんだろうなあ。
 この辺の動きは、あ、やっぱり映画だねえ。芝居ではむりだねえ。
 芝居ではどんなささやきでも明確にことばにしないと聞こえないが、映画は違う。ささやきはささやきでいいし、ことばのエッジは全部消し去って、表情でことばを語ってもいいのだ。にっこり、ねこなで声を出したと思った瞬間、一点、冷たい暴力的な声になってもいい。顔(表情)と肉体(全身)の動きが、そこにある矛盾を全部のみこんで、「人間」の不思議な本能(?)みたいなものにかたまっていくのだ。

 いろいろ好きなシーンがあるが、いちばん好きなのは最初の「透明化」のシーンかなあ。変にやさしいのだ。とてもそんなことはできそうにない主人公(なんだろうなあ、熱帯魚屋の男は……)に対して、「この仕事はまだしなくていいよ、あっちへ行って休んでいて」と言うのだ。これはまいるなあ。こんなことをいわれたら、逆に弱みを握られたような気持ちになるよなあ。逃げられなくなるよなあ。で、その「透明化」の作業をしないで、「休んでいる」主人公の耳には、非日常のことばが、日常のリズム、抑揚、笑いの明るさで響いてくるのだ。「おれ、ちっちゃいとき脱腸の手術してさ」とかなんとかかんとか。「包茎」がどうしたこうした、とか。
 耳というのは魔の器官だねえ。目は、主人公のように「居間」で休んでいれば(つまり、その場に直面していなければ)、そこで起きていることを「見ない」ですむ。ところが「耳」は「遠く」を聞いてしまう。現場と主人公の間に「壁」があっても、声は壁を超えて耳に入りこみ、肉体に響いてくる。
 ここで、また私は、この映画の「演劇的」力を感じるし、それをきちんと昇華するでんでんの演技力をも強く感じるのだ。そこにでんでんが映っていなくて、声が聞こえるだけなのに、肉体が見えるのだ。顔が見えるのだ。
 次に好きなのは、でんでんが主人公の妻を寝とるシーン。「奥さん、隠れてたばこ吸ってるんだろう? つらいよね。わかるよ」なんて言っていたと思ったら、突然「脱げ」と迫り、殴ったりするのだ。この同情(?)と地つづきの暴力。それは、同情こそが暴力であることを教えてくれる。いいなあ。「わかるよ、わかるよ」というのは、やさしさなんかではない。他人のつらさなんて、わからないのが正常な人間なのだ。わからないということを前提にして、わからないけれどなんとかしたいと動くのが人間であり、「わかるよ、わかるよ」と言うのは嘘なのだ。暴力なのだ。
 「何がわかるんだよ、いいかげんなことを言うな」
 これが「わかるよ、わかるよ」に対する絶対的に正しい唯一の反応である。
 はずなんだけれど、ねえ、でんでんの、あの声、あの顔が、その唯一正しい反応を封じてしまうのだ。

 あ、でんでんのことばかり書いてしまったが、でんでんの愛人も、でんでんに犯される主人公の妻も、すっごく変で、すっごくおもしろい。こんな女、困るんだけれど、いたら好奇心で、ちょっとおっぱいくらいつついてみたいなあ、なんて思っちゃうんだなあ、これが。
 「透明化」もやってみたいなあ、「から揚げサイズ」も好きだし、あの醤油かけもなんともいえないなあ。あ、そう。いままで、私は嘘をついていたなあ。いちばん好きなのは、あの醤油かけ。あれは、やってみたい。現実には絶対できないだろうから、役者になってやってみたい。映画監督になったら、あのシーンを撮ってみたい。「冷たい熱帯魚」の盗作だ、と批判されても、いいじゃない、好きなんだもん。
 いいなあ、ほんとうにいいなあ。

 でも、でんでんとは知り合いになりたくない。--こんな矛盾したことを書くのは、この映画が絶対的におもしろいからだ。好きは嫌い。大嫌いは大好きなのだ。


愛のむきだし [DVD]
クリエーター情報なし
アミューズソフトエンタテインメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする