岩佐なを「そほ」(「ポエームTAMA」14、2011年02月01日発行)
また岩佐なを、である。きのう「素足の踏み場もない」という造語(?)から、「素足」→「指」と誘い込む語法について書くのを省略したので、きょうは違う詩を題材に、岩佐の「技巧」について書きたい。
「そほ」。
1連目の3行目。「零れる」のつかい方がうまい。1連目の「意味」は年をとるとともに身心がおとろえる。それは人間にとっていいことではないのかもしれないが、身心がおとろえて気が緩んだとき(?)、やっとはじめて気づくこともある。それは身心が充実しているときは、きっと身心がかってに(無意識に)処理していたものだろう。それは「わかる」というのではなく、「気づく」ということ。もっとも、そうだからといって、気づくことと、身心がおとろえてから気づかなくなってしまったものを比較すれば、気づかないものの方が多いだろう、意識から零れるものの方が多いだろうけれど……という具合になるだろう。
で、この「零れる」がうまいなあ、と思うのは、「零れる」ものは「大きい」というより「小さい」からである。「零れる」は、「小さい」ものが「零れる」というイメージを呼び覚ますのである。砂粒が手のひらから零れる、萩の花が道に零れる……。
そういう意識の操作をしておいて、2連目に「小さいもの」が出てくる。「ちいさいもの」が自然に誘い出される。これが「うまい」。あ、日本語に熟達している、という安心感をあたえる。
そういう安心感があるから、そのあと「そほ」(祖母、だろうと思って読んだ)が出てきても、安心して「そほ」を「見る」ことができる。「祖母」なら人間だから、どんなに小さくてもねずみ、すずめ、むしより小さいことはないのだが、それでも安心して「祖母」だと思うことができる。日本語に熟達した岩佐が、ここで「間違い」をおかすはずがない。間違ったことを言うはずがない、という安心感から「祖母」をくっくりと見る。
その「祖母」には
と、またまた現実の「祖母」ならありえない描写がつづくのだが、今度はそれが現実にはありえないからこそ、あ、これは「記憶の祖母」なのだ、という気持ちにさせられる。「記憶の祖母」なので「そほ」とわざと濁音ではないようにして書いているのかもしれない。
庭で光が動くとき、あ、こんな日に、祖母が庭にいたなあ、木々やすずめの間を動いていたなあ、と思い出したりする。記憶、思い出だからこそ、「ちらり」でもあるのだ。
そして、この、ちいさくて、「ちらり」という印象そのものが「祖母」になっていく。詩のつづきである。
どうやら「祖母」は亡くなって1年になるらしい。その祖母は、きっと俎板の上でれんこんを切っていた。そういう記憶は「自分が無意識に捨てた」、つまり「零し」てしまった記憶だろう。それが無意識に零したものだからこそ、「零れる」ということばとともに、いま、ここによみがえっているのだ。
無意識に零してしまったものは、「ささやか」である。「捨てられ」ても、「忘れられ」ても、まあ、なにか不都合があるというわけではない。けれど、そういう「零れて」しまった記憶は、とてもなつかしい。気持ちを落ち着かせる。
あ、「気づく」の「気」は「気持ち」の「気」だったんだねえ。
「わかる」は「頭」で「わかる」んだろうなあ。「気づく」は「気持ち」が動いて、その存在に近づいていくことかなあ。
岩佐の(と、あえて書いたおく)の「気持ち」が「祖母」の方に少し動く。一周忌だから。そうすると、その「気持ち」の動きにあわせて、「零れていた」小さな「祖母」の思い出が庭に動いてくる。
思い出すものと、思い出されるものが、そうやって自然に出会う。
この詩は、とても気持ちがいい詩だ。

また岩佐なを、である。きのう「素足の踏み場もない」という造語(?)から、「素足」→「指」と誘い込む語法について書くのを省略したので、きょうは違う詩を題材に、岩佐の「技巧」について書きたい。
「そほ」。
身心がおとろえるから気づくこともある
(わかるのではなくて)
もちろん零れることのほうが多い
古今の灰を積もらせた庭に
なにか小さいものがいる
ねずみでもすずめでもむしでもない
もっと小さくて見えにくいもの
そほかもしれない
透明のようでも
ある角度の光を受けたときに
姿をちらりと見せる
1連目の3行目。「零れる」のつかい方がうまい。1連目の「意味」は年をとるとともに身心がおとろえる。それは人間にとっていいことではないのかもしれないが、身心がおとろえて気が緩んだとき(?)、やっとはじめて気づくこともある。それは身心が充実しているときは、きっと身心がかってに(無意識に)処理していたものだろう。それは「わかる」というのではなく、「気づく」ということ。もっとも、そうだからといって、気づくことと、身心がおとろえてから気づかなくなってしまったものを比較すれば、気づかないものの方が多いだろう、意識から零れるものの方が多いだろうけれど……という具合になるだろう。
で、この「零れる」がうまいなあ、と思うのは、「零れる」ものは「大きい」というより「小さい」からである。「零れる」は、「小さい」ものが「零れる」というイメージを呼び覚ますのである。砂粒が手のひらから零れる、萩の花が道に零れる……。
そういう意識の操作をしておいて、2連目に「小さいもの」が出てくる。「ちいさいもの」が自然に誘い出される。これが「うまい」。あ、日本語に熟達している、という安心感をあたえる。
そういう安心感があるから、そのあと「そほ」(祖母、だろうと思って読んだ)が出てきても、安心して「そほ」を「見る」ことができる。「祖母」なら人間だから、どんなに小さくてもねずみ、すずめ、むしより小さいことはないのだが、それでも安心して「祖母」だと思うことができる。日本語に熟達した岩佐が、ここで「間違い」をおかすはずがない。間違ったことを言うはずがない、という安心感から「祖母」をくっくりと見る。
その「祖母」には
透明のようでも
ある角度の光を受けたときに
姿をちらりと見せる
と、またまた現実の「祖母」ならありえない描写がつづくのだが、今度はそれが現実にはありえないからこそ、あ、これは「記憶の祖母」なのだ、という気持ちにさせられる。「記憶の祖母」なので「そほ」とわざと濁音ではないようにして書いているのかもしれない。
庭で光が動くとき、あ、こんな日に、祖母が庭にいたなあ、木々やすずめの間を動いていたなあ、と思い出したりする。記憶、思い出だからこそ、「ちらり」でもあるのだ。
そして、この、ちいさくて、「ちらり」という印象そのものが「祖母」になっていく。詩のつづきである。
ながしの桶にわたらせた俎板の上で
れんこんを輪切りにした折
とあるあなから逃げ去る気配
それにそほは似ている
自分が無意識に捨てた
凍えて縮かんだ記憶
透きとおってはいないがどす黒くもない
それが身勝手なやさしさに包まれて
捨てられたりもして
忘れるには好都合な特徴のない風袋
ささやかな記憶の中身はなに
その中身がそほに化けて
庭にいる
さくらさくころ
一年生(あのよの)
どうやら「祖母」は亡くなって1年になるらしい。その祖母は、きっと俎板の上でれんこんを切っていた。そういう記憶は「自分が無意識に捨てた」、つまり「零し」てしまった記憶だろう。それが無意識に零したものだからこそ、「零れる」ということばとともに、いま、ここによみがえっているのだ。
無意識に零してしまったものは、「ささやか」である。「捨てられ」ても、「忘れられ」ても、まあ、なにか不都合があるというわけではない。けれど、そういう「零れて」しまった記憶は、とてもなつかしい。気持ちを落ち着かせる。
あ、「気づく」の「気」は「気持ち」の「気」だったんだねえ。
「わかる」は「頭」で「わかる」んだろうなあ。「気づく」は「気持ち」が動いて、その存在に近づいていくことかなあ。
岩佐の(と、あえて書いたおく)の「気持ち」が「祖母」の方に少し動く。一周忌だから。そうすると、その「気持ち」の動きにあわせて、「零れていた」小さな「祖母」の思い出が庭に動いてくる。
思い出すものと、思い出されるものが、そうやって自然に出会う。
この詩は、とても気持ちがいい詩だ。
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