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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治「舌塔」

2010-07-24 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「舌塔」(「ガーネット」61、2010年07月01日発行)

 詩は、何が書いてあるかわからないね。状況が説明されない。だから、私は適当に考える。そして、この考えるというのは恐ろしいことに、どうしたって自分をさらけだすということになる。ようするに、知らないことは語れない。知っていることしか語れない。
 廿楽順治「舌塔」。
 これは、タイトルがわからない。私は、こんなことばを読んだことがない。こういうとき、どうするか。辞書を引く--ということは、私はしない。調べたって、わかりっこない。知らないことばなんだから。知らん顔をして(無視して?)、「本文」を読んでいく。作品は、行の尻がそろえられているのだが、尻をそろえるのがむずかしいので、頭をそろえる形で引用する。(ごめんね。)

意識をうしなってからがいちにんまえ
なのである
達人は
みんなおんなじかたちで横たわっている
そうだよね
ことの前後もわからずに
男共はテーブルのかどで声をひとつにするが
くらいばかりのご飯であった

 何かなあ--なんて、考えるより先に、こりゃあ、お葬式だね、と思ってしまう。葬儀のあとの会食。そこで男たちが話しあっている。「意識をうしなってからがいちにんまえ」とは「死んでからがいちにんまえ」と聞こえてくる。「なのである」の独立した1行。その念押しが、他人のことばを待って何かを語りはじめる感じをくっきり浮かび上がらせる。
 「達人は/みんなおんなじかたちで横たわっている」というけれど、まあ、たいてい人間は同じ形で死んでいくね。「達人は」というのは、一種の「敬意」。「そうだよね」とここでも念押し。
 この念押しのリズムがいいなあ、と思う。
 顔を近づけるようにして、語り合う。そのとき葬儀の会食だからというだけではなく、その顔のつきあわせる角度によっても、ご飯に影が落ちる。「くらいご飯」になる。

バナナの皮がいちまいと
あたまをうしなった魚のどこか
なんだか感情がまじめにつたわってこないんだなあ
背景に
塩をふりすぎていて
(こどもは食べられない)

 「バナナの皮がいちまいと/あたまをうしなった魚のどこか」などという「ご飯」があるものか--と思うけれど、そういうふうに、こんなもの、たべられないよ、と思うのが「葬儀の会食」かもしれない。
 そういう、一種の、わけのわからない行のあとに、

なんだか感情がまじめにつたわってこないんだなあ

 あ、いいなあ。わかりすぎるくらいわかる(わかるとかってに思い込むことができる、という意味にすぎないけれど)。そういう会食のときのことばは、「本心」(ほんとのう感情)というのはどこかに隠しているかもしれない。そして、その隠しているという事実だけがつたわってくる。
 こういう雰囲気を「背景に/塩をふりすぎていて」というのか。おもしろいなあ。(こどもは食べられない)とは、そういうニュアンス(?)はこどもにはわからない、ということかな?
 
 で。途中は省略して。

ひとりではことの前後もわからない
立ちあがるやいなや
たちまちわがはいの部隊はぜんめつさ
だからかんじょうもはらわず
おんてじかたちにつらなって舌の塔から出ていった
達人だって
いずれは分解されてしまうのである

 「会食」は解散。みんな「立って出て行く」。そういうときのひとの形は、死んだときのひとの形がおなじように、また「おなじかたち」である。ぞろぞろ「つらなって」出て行くだけである。こういう人たちもまた、「いずれは分解されて」、つまり死んでしまうのである。
 ということかなあ。
 で。
 おもしろいのが、

だからかんじょうもはらわず

 である。漢字をあてれば「勘定も払わず」かもしれない。葬儀の会食の費用は、参列者が払うものじゃないからね。
 でも、このことば、何か思い出さない?

なんだか感情がまじめにつたわってこないんだなあ

 「勘定」と「感情」が重なる。
 その瞬間、「くらし」の何かが見えたような気持ちになる。「勘定」と「感情」はどこかでつながっている。声に出すとアクセントが違う(私は区別している)。でも、「書きことば」(文字)だと区別がない。
 そういう「区別のない」領域を、廿楽は揺さぶっている。そういうことばを動かしている。




すみだがわ
廿楽 順治
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