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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

齋藤恵子「水」、瀬崎祐「祝祭」

2010-07-04 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
齋藤恵子「水」、瀬崎祐「祝祭」(「どぅるかまら」8、2010年06月10日発行)

 きのう私は、とても変なことを書いてしまったかもしれない。どうにかして修正したいが、実は、どう修正していいか、よくわからない。
 齋藤恵子「水」の、

今声をかけてはいけない
ひとりに戻れないかもしれない

 この、母を描写したことばの不思議さ。
 着物の母がいて、病気の母がいる。--というのは、齋藤の記憶の母のことである。齋藤の記憶のなかには、元気な母と病気の母がいる。そして、その母が病気のとき、母は元気な自分を思い出し、その思い出の母の力で病気の母を励まし、階段をのぼっていた。そんなふうに、齋藤には見えた、ということだろう。
 病気の母は、そんなふうに懸命に生きている。
 その母に声をかけると、きっと母は病気の母になってしまう。着物を着て元気な母、病気の母を励ましている母は、声をかけた齋藤のなかに吸収され、齋藤に頼ってしまう--そういうことが起きるかもしれない。

 と、

 書き繋ぐと、またまた間違ったことを書いている感じになる。
 そんなことじゃないんだよねえ。齋藤が書きたいのは。

 齋藤は、病気の母が階段をのぼっていく、その姿を忘れることができない。ひとりで階段をのぼっているのだけれど、そのとき、病気の母は元気な母といっしょにいる。元気な母が病気の母をかばい、はげまし、階段をのぼっている。そんなふうにして、苦しいとき、苦しくない自分を呼び出して、ふたりになって生きている母--その母が好きなのだ。あ、すごい、と思っている。「ふたり」であることによって「ひとり」を一生懸命に生きている。
 そして、それをすごい、と感じながらも、そう書いた瞬間、実は齋藤は母を「ふたり」にしてしまっている。「ひとり」であるのは「ふたり」だからなのである。「ひとり」なら、「ひとり」ですらないのだ。「ひとり」なら、それは「病気の母」なのだ。「病気の母」が「現実」であり、「着物姿の母」は、「病気の母」の「肉体」のなかにいる、もうひとりの「見えない母」、現実ではない母なのである。そして、その現実でない母が誣言実の母を支えている。
 「ふたり」であることによって、はじめて「ひとり」。
 それは残酷な言い方になってしまうけれど、「おかあさん、おかあさんは病気で、もう元気ではないんですよ」と母に対して言うのと等しい。もちろん、齋藤が、そんなふうにして声にして母につげるのではないのだけれど、こころのなかで言ってしまっている。おかあさんは病気、そして、その病気の母を、過去の、いまは肉体として存在しない母が支えている。元気な母は、ほんとうはもういない。
 ことばは、いつでも、こころのなかで言ってはいけないことを言ってしまう。
 それは、黙っていれば、だれにもわからないことなんだけれど、齋藤の正直さは、それをことばにしてしまう。文字にしてしまう。
 そのとき齋藤自身のなかに、どうすることもできない「ひび」が生まれる。
 でも、その「ひび」を生きるしかないのだ。
 人間は、生まれてきて、ことばを語りはじめたら、内部にある何かが互いに押し合いながらどんどん深まっていく「ひび」をかかえ、生きるしかないのだ。
 問題は、その「ひび」をどう生きるかだ。
 そして、ここに、齋藤の美しい「生き方」がくっきりと浮かび上がる。
 齋藤は「ひび」をどう生きたのか。
 齋藤は、病気の母を元気だった母の精神が支えている、いのちを吹き込んでいる、ととらえ直したのだ。
 齋藤の見た「ひび」は、「深淵」とか「断絶」のようなものではなく、つまり、のぞきこむと底が見えないというようなものではなく、実は、「ひと」の「輪郭」をつくる。「輪郭」としての「ひび」を見たのだ。現実の肉体の内側にある精神の輪郭としての「ひび」。
 正直な人間の「ひび」は、人間の内部にありながら、他人から見ると、「輪郭」になる。そのひとの「肖像」になる。いつも、自分を律して、はげまして、自分だけで生きようとする生き方--母の姿。
 あ、美しいと思う。



 齋藤の詩を、瀬崎祐「祝祭」とつづけて読んでいいものかどうか、私は、実はわからない。書きながら、こんなふうに感想がつながっていっていいのかなあ、と思っている。思っているけれど、思ってしまったことは書かなくたって、書いたのと同じことになるので、書いてしまおう。

脂ののった魚の腹を左手でおさえ
先端が尖った器具をまっすぐに右手ににぎる
胸鰭のあたりから器具を刺し
魚のかたちを定められたものにととのえていく
身をかたくして魚は神妙だ
生臭さを失って魚は象徴となる

私をとらえているのは
かたちを追ってはいけないという思いだけだ
光る部分と影の部分の境界をたどれば
かたちは冷気のなかからあらわれてくる

 魚をくし刺しにする。丸焼きにするためのくし刺し。
 そのくしが、私にはなぜか、母を描写する齋藤のことばに思えてしまう。齋藤のことばは母の肉体の中に入り、肉体をではなく、精神をととのえる。肉体の形を追うのではなく、精神の形をととのえる。
 病気の母を着物姿の母がはげまし、階段をのぼるという生き方にととのえる。
 そのとき、そのことばのなかで、母がほんとうに生きはじめる。いのちの祝祭。病気の人間を「いのちの祝祭」といってはいけないのかもしれないかもしれないけれど、その病気という状態にあっても「健康」をたもちつづける精神--そこにはとても美しいものがある。「生き方」の手本のようなものがある。そして、それを探り当てるとき、それはそのまま齋藤の美しさになる。
 たぶん、どんなときでも、それは起きるのだ。
 瀬崎のことば、くし刺しにするという作業を追うことばは、魚を、魚本来のかたちにととのえる。それは海で泳いでいるときのかたちとは違うかもしれない。海で泳いでいるのとは違うかたちであるけれど、そのかたちになることで、ひとと出合う。
 そこに「祝祭」がある。「食べる」ということをとおしての、「祝祭」がある。
 食べられてしまう魚にとって「祝祭」なんかあるはずもないかもしれない。けれど、そこには「ことば」でしかとらえることのできない、出合いがある。その出合いを瀬崎は「祝祭」と呼んでいるのだと思う。

 何かが、ある存在が、ことばの動きで、それ本来の「かたち」を獲得するとき、それは「祝祭」なのだ。それが「死」であっても「祝祭」である。そして、その「祝祭」が、たぶん、いのちのなかで引き継がれていくのだ。
 そんなことを思った。




風を待つ人々
瀬崎 祐
思潮社

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