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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

貞久秀紀「木霊をもとめて」、中堂けいこ「仮面」、支倉隆子「府中の家」

2009-04-29 15:08:49 | 詩(雑誌・同人誌)
貞久秀紀「木霊をもとめて」、中堂けいこ「仮面」、支倉隆子「府中の家」(「鶴亀」3、2009年04月発行)

 貞久秀紀「木霊をもとめて」は非常に技巧的な詩である。つまり「わざと」が浮き立つ詩である。 

 木とわたしのあいだには何も見えず、わたしがこの木に隔たりの
あるところにいて見上げている間、まだつめたい空気のなかに枝が
のびやかに張りだし、白い花をいくつもつけていた。
 枝からたどりはじめて、目をだんだんとおろしてくるのにつれて
みえてくる灰いろのほそい筋つきの幹は、それを枝につながるただ

一つの幹としてノートに写し、ひととおり記録してふたたびたどり
かえせば、花のない枝であるとわかる。

 木をみつめている。枝から幹へ。そして、ノートに写生している。見つめた木と、描かれた木。その絵を見つめなおす。幹から枝へ。すると、その「木」そのものが違った存在になっている。
 実存と認識の差異。
 その差異を貞久は空白の1行としてあらわしている。
 この作品は引用のあと、3行ある。ちょうど空白を中央に挟んで、左右対称の形をしている。そういう形をとることで、実在と認識の向き合い方をも表現しているのだろう。
 方法論が、「わざと」を通り越して、あからさまに感じられる。この「あからさま」な形式を私は好きになれないが、その「あからさま」を塗り込める文体の静かさ、呼吸の長さにはこころがひかれた。

 木とわたしのあいだには何も見えず、わたしがこの木に隔たりの
あるところにいて見上げている間、

 ここには「あいだ」と「間」がある。「あいだ」は「空間」であり、「間」は「時間」である。そのちがいをはっきり認識して(意識して)、なおかつ、そのふたつを重ね合わせる。(融合というのとは、すこし違う感じがする。)そうすることで、「世界」というものを描いて見せる。木を描くふりをして、世界と私の関係を描く。
 木霊とはなにか。
 「木の精霊」であり、響きである。それは、「空間」のなかにあるのではない。「時間」のなかにあるのではない。「空間」と「時間」が向き合うところにある。重なり合いながら、すこしずれる。差異をかかえこむ。そこに、静かに存在するものである。--貞久は、そんなふうに言いたいのだろう。



 中堂けいこ「仮面」は、息の長い文体である。その息の長さのなかで、主語(?)がするりと入れ代わる。

やあやあと囃し立てる水霊ら 仮面ふりかざしては鉛のリボンで結わえ 顎を外して
十二月の子の寒さについて語りつぐ 男たちの下腹の痛みに円形の胞子とびちり
鏡面にうつらないわたしの顔をつるりとなげればそのようにも生きられよう

 「十二月の子の寒さ」は「この寒さ」の誤植かも、と思うが、同じ行に「胞子」ということばがあるので、判然としない。「子」と「胞子」をことばの深い部分で通い合わせようとしているのかもしれない。
 なにかしら、ひとつのことば、文章を、それだけで独立させるのではなく、どこかで通い合わせながら、ある風景(ある体験)を描くのではなく、そういう「通い合い」を文体のなかにとじこめようとしている。そういう意識を感じる。
 ここに描かれているのは、風景(体験)というよりは、ことばをどんなふうに書くか(動かすか)という意識である。そういう意味では、貞久といくらか似ている。書きたいのは、風景(体験)ではなく、ことばを動かす意識なのである。ことばの動きそのものなのである。文体なのである。
 文体を完成させたいという意識が中堂にはあるのだと思う。



 支倉隆子「府中の家」は文体意識を「幾何学」に変えてしまう。

    旅
    ↑
   宇宙の家
府中の家  雨中の家    詩や市や
   夢中の家
    ↓
    旅

 「宇宙」「府中」「雨中」「夢中」。そういうことばの響きを行き交うこと。そこに「旅」がある。
 書いていること、書こうとしていることは、わからないわけではないが、こういう表現を、私は「ずぼら」だと感じてしまう。「文体」をつくるという意識に書けていると思う。
 私は、詩を朗読しないが、詩は(ことばは)声に出して、そのまま読むことで他者に伝えることができないなら、それは詩ではないと考える。紙と文字にしばられたことばは、ことばのほんとうの力を失ったまま動いている。



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『田村隆一全詩集』を読む(69)

2009-04-29 00:00:48 | 田村隆一
 田村はときどき同じ主題を繰り返す。「人が星になるまで」。この作品には「変身」、人が変わる、という主題がある。タイトルそのものが、人が星に変身するまで(変化するまで)と、そこに「変身」を補うことができる。というより、人が星になるということばのなかに「変身」というものが含まれているのだが、その変身という主題が、田村にはあまりにも密着しすぎていて、「意識」としてあらわれなかったというべきなのかもしれない。ひとは自分自身にとってわかりきっていることはいつでも省略してしまうものである。

 では、「3」の部分。

人間の手が彫刻家の
人間の耳が音楽家の
人間の唇が沈黙しか語らない瞬間

目に見えなかったものが見えてきて
音さえ目に見えてきて

自然は球体だということに
やっと気づくのさ

 1行目、「人間の手が彫刻家の」、このあとに何が省略されているのだろう。2行目の「音楽家の」あとには何が省略されているのだろう。「沈黙しか語らない瞬間」がともに省略されている。そして3行目には「人間の」が省略されている。3行目は「人間の唇が人間の沈黙しか語らない瞬間」というのが、省略を補った形になるだろう。
 「唇が沈黙を語る」というのは矛盾である。田村はいつでも詩を矛盾からはじめる。
 したがって、「人間の手が彫刻家の沈黙しか語らない瞬間」というときの「沈黙」は「彫刻家のつくらない彫刻」(つくれなかった彫刻)をあらわす。音楽の場合、「作曲されなかった(演奏されなかった)音楽」ということになるだろう。彫刻家が彫刻を語らない、否定する。音楽家が音楽を否定する。唇がことばを否定する。あるいは、彫刻家が彫刻を拒絶する。音楽家が音楽を拒絶する。唇がことばを拒絶する。
 そのときに、

目に見えなかったものが見えてきて
音さえ目に見えてきて

 ということが起きる。それは「肉眼」がとらえる世界である。「肉眼」だから、本来目には見えない「音」、ふつうは耳で聞く音を「肉眼」で聞くことになる。音楽の中に、色がある。形がある。そのときの感覚--それを田村は、ここでは描いている。
 こういう世界を把握するためには「変身」が不可欠なのである。
 「4」の部分。

自然を解体するには
知力と体力と そして
人はたえず変身しつづけねばならない

 「目」から「肉眼」へ、「耳」から「肉耳」へ。そういう「変身」が完了したとき、自然は解体する。彫刻は解体する。音楽は解体する。彫刻は「形」ではなく、音楽を鳴り響かせる。音楽は「音」ではなく、色彩を、形を、描き出す。それぞれの領域を超越する。あらゆるものが、「自然」がそのとき解体する。知力と体力によって、「変身」したものだけが、その解体と、そこからはじまる生成の愉悦を味わうことができる。

 「銛」も、「変身」を主題としている。

この五十年間
言葉だけを獲物のように追跡していたと思いこんでいたら
言葉に追跡されているのは
ぼく
自身だということがやっと分ってきた
(略)
ぼくには「ぼく」そのものが時とともに
変容するから
ぼくが言葉になり
言葉がぼくになってくれたら

追う者と追われる者
という主題が
ぼくの肉体を貫いてくれるかもしれない
相模湾の漁師が大魚を突きさす
あの銛のごとく

 「変身」は「変容」ということばで表現されている。
 そして、その変身(変容)の瞬間、追う者と追われる者という主題が「ぼくの肉体を貫く」。それは、その主題のなかで「追う者・追われる者」が一体となり、「銛」のように激しいベクトルとなって動くということだ。そのベクトルは「いのち」を否定し、「いのち」を突き破って、どこかへ動く。肉体が肉体のままでは存在していることができない世界へ。そういう世界を生きるために「変身」が必要不可欠なのだ。このとき、その肉体は「超・肉体」になるといえばいいだろうか。「肉眼」「肉耳」ということばにならった言えば、「肉・肉体」である。
 そこから、詩ははじまる。

 「変身」はタイトルに「変身」ということばそのものを持っている。そのなかでも、「言葉」と「肉体」が語られる。

原罪とは言葉そのもの
人は言葉から生まれたのだから
この拘束力のなかで息をしているだけ

ある朝 目ざめると
ぼくは
女性
になっていた

おかげでやっと言葉の拘束帯から解放される

 「ぼく」が「女性」になる。その「変身」。そのとき、田村は「言葉の拘束帯」から解放される。ここには補足が必要だ。「男性の言葉の拘束帯」から田村は解放される。女性になっただけでは、実は、不十分である。そこから、もういちど、「女性」を解体しなければならない。そのとき、ことばはほんとうに自由になる。
 女性になって、それでことばから自由になれるなら、田村は、その段階で詩を中断してもいいはずである。しかし、田村は中断しない。その後も書きつづける。それは、男性→女性という「変身」だけでは不十分であるという「証拠」でもある。
 男性→女性のあと、何に変身するか。「銛」に「変身」しなければならないのだ。男性→女性→銛。銛とは、運動のエネルギーそのものであり、ベクトルだ。そのベクトルのなかで、つまり、運動そのもののなかで、たとえば目は「肉眼」として、耳は「肉耳」として、そてし肉体は「肉・肉体」として世界と向き合い、世界を手にする。
 それが、詩である。田村の詩である。



20世紀詩人の日曜日
田村 隆一
マガジンハウス

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