嵯峨恵子『私の男』(思潮社、2009年03月08日発行)
「映画」からヒントを得て書いた作品がある。私は、そんなに映画を見ていない。嵯峨の取り上げている映画で見ていないものもある。ただ、見ている映画の範囲内で言うと、どうも嵯峨の書いていることがぴんとこない。しっくりこない。
「アデルの物語」は、トリュフォーの「アデルの恋の物語」を題材にしている。延々とストーリーの紹介がある。そのストーリーは私の記憶しているものと同じなのに、そして、私は「アデルの恋の物語」はとても好きな作品なのに、なんだか遠い感じがする。なぜなんだろう。
最終連。
あ、そうなんだ。嵯峨は、まずイザベル・アジャーニの恋という感じで映画を見て、いや、これはアデル・ユーゴなんだ、と思っている。美しかったのは、アデル・ユーゴなのだと。アデル・ユーゴの激情が美しかったのだと。きっと、嵯峨は、映画のストーリーを見ていたのだろう。
私は、映画をそんなふうには見ない。ストーリーは、どの映画でも、まったく関係ない。だから推理ものでも、犯人が誰か聞かされても、(いわゆるネタバレ)、私はぜんぜん気にならない。たぶん、私の見方が間違っているのだろうけれど。
私はアデル・ユーゴの物語と思って見はじめて、(それはイザベル・アジャーニを見てから10秒くらいなものだと思う)、そのあとはイザベル・アジーャニの恋だと思って見てしまう。アデル・ユーゴは、どこかへ消えてしまっている。俳優のもっている肉体、その感情を見てしまう。見とれてしまう。目と、鼻と、その唇がどんなふうに動くかしか見ていない。
私も、この映画ではイザベル・アジーャニしか覚えていない。
そして、だからこそ思うのだが、嵯峨はイザベル・アジャーニしか覚えていないと書いているけれど、その肉体は「寝汗」(4連目)「雪の日の赤い鼻」と「涙」(6連目)しか書かれていない。
なぜ?
詩のことばは、ストリート向き合うのではなく、スクリーンの映像、映し出される役者の肉体と向き合わないと、詩にならないのではないか。ストーリーの紹介なら、映画のパンフレットにまかせておけばいいのでは、と思ってしまう。
ただし、そういう「映画詩」のなかでは、「おばあちゃんに聞いてごらん」はとてもおもしろかった。「ベルヴィル・ランデヴー」というフランス・アニメについて語った詩である。
1連目と2連目。
この作品では、映画の断片は紹介されているが、ストーリーは紹介されていない。というより、ストーリーと切り離して、余分なことばかりが書かれている。ただし、見た人なら、ここに書いてある映像を思い出すことができる。そして、ストーリーを思い出しながら、結局、おもしろかったのはストーリーではなく、嵯峨が書いている余分なこと--ストーリーから逸脱していく余分なものだったことがわかる。
たとえばおばあちゃんの片方が短い足。それをあらわすための片方だけヒールの厚い(高い)靴。そのカリカチュアされた肉体と、その肉体を受け入れて生きていく生き方(!)。人生とは、何かを受け入れながら生きていくこと、という姿勢。そこからはじまる、ほんとうに余分なこと。余分--といっても、たぶん、それは余分ではない。きっと、ほかにも方法があるはずなのに、そういう方法をとらずに、一人一人「独自の」方法をとるために生まれてくる「ずれ」なのかもしれない。そして、そういう「ずれ」にフランス人の癖がでていて、それが楽しい。2連目の、ブルーノが電車に吠える理由も、映画を見ているひとならわかるけれど、けっさくでしょ? おいおい、ほんとうに、犬がそんな理由でほえるかい?とちゃちゃを入れたくなるけれど、そんなふうに「論理立てる」のがフランス人なんだろうね。
ストーリーを分断する余分なもの、ストーリーを逸脱して存在するものをピックアップしながら、それを
というリフレインのなかに閉じ込めていく。
そのリフレインは、なんとういのだろう、この映画のテーマ、自分のできることをしながら世界を完結させ、その自分の世界を充実させて遊ぶという構造にぴったりあっている。
この映画の登場人物たちは、みんなそれぞれ自分にできることをしている。しかも、どんなときでも楽しんでいる。世界がどうなろうと関係ない。歌を忘れずに生きている。その歌は、たしかに「おばあちゃんに聞いてごらん/おばあちゃんは何でも知っている」と歌っていたかもしれない、という気持ちになる。映画のなかの歌(主題歌?)は「コンスタンチノープルと韻を踏むのは難しい」とかなんとか歌っているのだが、きっとそれは間違いで、ほんとうは「おばあちゃんに聞いてごらん/おばあちゃんは何でも知っている」なんだよ、といいたくなるくらいに、この映画にぴったりである。
詩集中、この1篇は傑作である、と思った。
*
「ベルヴィル・ランデヴー」は、フレンチ・アニメの大傑作。フレンチ味がいっぱい。音楽のつかい方が素朴で楽しい。
ぜひ、映画も見てください。DVDも紹介しておきます。
「映画」からヒントを得て書いた作品がある。私は、そんなに映画を見ていない。嵯峨の取り上げている映画で見ていないものもある。ただ、見ている映画の範囲内で言うと、どうも嵯峨の書いていることがぴんとこない。しっくりこない。
「アデルの物語」は、トリュフォーの「アデルの恋の物語」を題材にしている。延々とストーリーの紹介がある。そのストーリーは私の記憶しているものと同じなのに、そして、私は「アデルの恋の物語」はとても好きな作品なのに、なんだか遠い感じがする。なぜなんだろう。
最終連。
私が思い出すのはアデルだけ。ピンソンも下宿先の夫婦も、本屋も記憶からは遠い。アデルだけが強く、ひたむきで埃にまみれてさえ美しかった。十八歳のイザベル・アジャーニ、いや、アデル・ユーゴは。
あ、そうなんだ。嵯峨は、まずイザベル・アジャーニの恋という感じで映画を見て、いや、これはアデル・ユーゴなんだ、と思っている。美しかったのは、アデル・ユーゴなのだと。アデル・ユーゴの激情が美しかったのだと。きっと、嵯峨は、映画のストーリーを見ていたのだろう。
私は、映画をそんなふうには見ない。ストーリーは、どの映画でも、まったく関係ない。だから推理ものでも、犯人が誰か聞かされても、(いわゆるネタバレ)、私はぜんぜん気にならない。たぶん、私の見方が間違っているのだろうけれど。
私はアデル・ユーゴの物語と思って見はじめて、(それはイザベル・アジャーニを見てから10秒くらいなものだと思う)、そのあとはイザベル・アジーャニの恋だと思って見てしまう。アデル・ユーゴは、どこかへ消えてしまっている。俳優のもっている肉体、その感情を見てしまう。見とれてしまう。目と、鼻と、その唇がどんなふうに動くかしか見ていない。
私も、この映画ではイザベル・アジーャニしか覚えていない。
そして、だからこそ思うのだが、嵯峨はイザベル・アジャーニしか覚えていないと書いているけれど、その肉体は「寝汗」(4連目)「雪の日の赤い鼻」と「涙」(6連目)しか書かれていない。
なぜ?
詩のことばは、ストリート向き合うのではなく、スクリーンの映像、映し出される役者の肉体と向き合わないと、詩にならないのではないか。ストーリーの紹介なら、映画のパンフレットにまかせておけばいいのでは、と思ってしまう。
ただし、そういう「映画詩」のなかでは、「おばあちゃんに聞いてごらん」はとてもおもしろかった。「ベルヴィル・ランデヴー」というフランス・アニメについて語った詩である。
1連目と2連目。
おばあちゃんはなんで片足が短いの?
孫のシャンピオンを選手になるまでトレーニングさせるの?
なんでピアノと太鼓かじょうずなの?
おばあちゃんに聞いてごらん
おばあちゃんは何でも知っている
犬のプルートはなんで電車が通るたびにほえるの?
えさはシャンピオンの食べ残し?
ブルーノはなんで自動車やボートを押せるの?
おばあちゃんに聞いてごらん
おばあちゃんは何でも知っている
この作品では、映画の断片は紹介されているが、ストーリーは紹介されていない。というより、ストーリーと切り離して、余分なことばかりが書かれている。ただし、見た人なら、ここに書いてある映像を思い出すことができる。そして、ストーリーを思い出しながら、結局、おもしろかったのはストーリーではなく、嵯峨が書いている余分なこと--ストーリーから逸脱していく余分なものだったことがわかる。
たとえばおばあちゃんの片方が短い足。それをあらわすための片方だけヒールの厚い(高い)靴。そのカリカチュアされた肉体と、その肉体を受け入れて生きていく生き方(!)。人生とは、何かを受け入れながら生きていくこと、という姿勢。そこからはじまる、ほんとうに余分なこと。余分--といっても、たぶん、それは余分ではない。きっと、ほかにも方法があるはずなのに、そういう方法をとらずに、一人一人「独自の」方法をとるために生まれてくる「ずれ」なのかもしれない。そして、そういう「ずれ」にフランス人の癖がでていて、それが楽しい。2連目の、ブルーノが電車に吠える理由も、映画を見ているひとならわかるけれど、けっさくでしょ? おいおい、ほんとうに、犬がそんな理由でほえるかい?とちゃちゃを入れたくなるけれど、そんなふうに「論理立てる」のがフランス人なんだろうね。
ストーリーを分断する余分なもの、ストーリーを逸脱して存在するものをピックアップしながら、それを
おばあちゃんに聞いてごらん
おばあちゃんは何でも知っている
というリフレインのなかに閉じ込めていく。
そのリフレインは、なんとういのだろう、この映画のテーマ、自分のできることをしながら世界を完結させ、その自分の世界を充実させて遊ぶという構造にぴったりあっている。
この映画の登場人物たちは、みんなそれぞれ自分にできることをしている。しかも、どんなときでも楽しんでいる。世界がどうなろうと関係ない。歌を忘れずに生きている。その歌は、たしかに「おばあちゃんに聞いてごらん/おばあちゃんは何でも知っている」と歌っていたかもしれない、という気持ちになる。映画のなかの歌(主題歌?)は「コンスタンチノープルと韻を踏むのは難しい」とかなんとか歌っているのだが、きっとそれは間違いで、ほんとうは「おばあちゃんに聞いてごらん/おばあちゃんは何でも知っている」なんだよ、といいたくなるくらいに、この映画にぴったりである。
詩集中、この1篇は傑作である、と思った。
*
「ベルヴィル・ランデヴー」は、フレンチ・アニメの大傑作。フレンチ味がいっぱい。音楽のつかい方が素朴で楽しい。
ぜひ、映画も見てください。DVDも紹介しておきます。
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