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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋元炯「禿頭譚」

2009-01-30 11:05:40 | 詩(雑誌・同人誌)
秋元炯「禿頭譚」(「波」19、2009年01月15日発行)

 秋元炯「禿頭譚」には「ストーリー」がある。といっても、むちゃくちゃな(?)ストーリーである。

すでに冷帯となって空中を浮遊していた私が
下を見ると
私の体は台の上に横たえられ
白い衣に全身を包まれていた
手首と足首には花も飾りつけられている
台の周りには
数人の男女がひざまずき
さらに私の体を飾りたてようとしている
そんなにしたって どうせこの頭じゃあと
上の方に回ってみると
なんと
頭は偽物の茶髪にふさふさと覆われていた
こんなことをして
いったいどんな意味があるのか
供え物にでもされてしまうのか
そう思った瞬間
ギロチンの刃が何十枚も落ちてきて
死体はたちまち肉塊の山となってしまった
これはまた
鰐に食わせる餌でもあるまいし

すると
急に鰐が池に現れ
作業服の男が
肉塊をつぎつき鰐たちのなかに投げ入れる

 鰐が卵を産み、子供が産まれ、人間になって、少年が青年になり恋をして……という具合に、このあとはつづいていく。
 こういう展開のなかに、ふいに、感想(?)がはいってくる。その部分が私はとても気に入った。
 思春期になった少年。

少年は女の子の後を追い回したり
物陰からそっと覗いたりしている
そうか 女の子を追い回す頃になると
汚らしくなってしまうのか
どうせ追い回すのなら
小ぎれいな方がいいと思うのだが
そうはうまくいかないらしい

 「ストーリー」は次々に、うまいぐあい(?)に展開していくが、それは傍から見ていてそう感じるだけで、それを経験したものには「うまくいかない」というのが反省としてある。これはしかしあくまで「反省」であって、その当時はもちろんそんなことは考えない。そんなことに気がつかない。
 どんなことでも後から気がつく。後から、いろいろ思うものである。そして、そのいろいろ思うことは、たいていが独特な感想ではなく、一般的な感想である。だれもが思うことである。その、誰でも思うことが、不思議な「ストーリー」のなかに紛れ込む。それがおもしろい。不思議な「ストーリー」だから、そこでは不思議なことを考えるかというと、そうではなく、ごくふつうのことを考えるから、逆に「ストーリー」が不思議になっていくのである。不思議、奇妙さが際立っていくのである。
 そして、そのストーリーの不思議さ、奇妙さが際立ってくれば来るほど、あ、秋元は、ストーリーの奇妙さではなく、ストーリーの奇妙さに紛れ込ませる形で、ふつうのことを書きたかったんだな、とわかる。
 ふつうのことというのは、実は、いつでもどこにでもある「永遠」のことでもある。「永遠」を自然な形にして書くために「不思議なストーリー」、おかしなおかしな「ストーリー」が利用されているのである。
 そういう思いで、もう一度詩を読み返すと、たとえば遺体を花で飾るというようなことも、実は「ふつう」のことである。禿をさらすのも、隠すのも「ふつう」のことである。禿をさらすと隠すとではまったく正反対だが、その正反対が同時に「ふつう」になってしまうのが、「いのち」の「永遠」というものである。
 鰐に餌をやるというのも「ふつう」のことである。どんな奇妙なことのなかにも、いのちの「ふつう」が隠れている。というか、「ふつう」のことが人間の行動を支配している。「ふつう」をはみだしては、なかなか生きられない。

 こういう構造は、天沢退二郎の「譚」にも共通する。ただし、天沢は「ふつうの感想」を書くためではなく、ことばの運動のエネルギーそのものを浮かび上がらせるために書く。天沢が書いているのは、人間の「ふつうの思い=永遠」ではなく、ことばそのもののもっている「永遠=自律して運動してしまうエネルギー」を書いている。天沢の詩では、ことばのエネルギーそのもののがテーマなのである。北川透の場合もそうである。ことばのエネルギーを引き出し、自律させるための詩--それを「現代詩」と定義できるのだが、その定義からすると、秋元の詩は「現代詩」とは少し違う。少し違っているけれど、少し違っていて、それがいい。
 人間の「ふつう」に触れると、こころがとてもやわらかくなる。
 

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堀内幸枝『堀内幸枝全詩集』

2009-01-30 09:16:27 | 詩集
堀内幸枝『堀内幸枝全詩集』(沖積社、2009年01月10日発行)

 私は堀内幸枝のことをほとんど知らない。堀内幸枝の名前と作品を知ったのは『九月の日差し』(思潮社)からである。この『全詩集』のなかでは最後におさめられている。それ以前の作品はどれもはじめて読むものばかりである。
 「市之蔵村」という作品。その書き出し。

私は秋の日のよく照つた山林から
村を眺めてゐた
村の景色は小さく遠ざかつて
青い川と白い村道に綴られ
寄り合ひ染り合つて
屋根ばかり地に落ちた
平面図であった

 この1連目の3行目「村の景色は小さく遠ざかつて」の「小さく遠ざかつて」がとても好きである。これは単に山から村を眺めてた「小さく」見えた、ということではない。小さいだけではなく、それは「遠ざかつて」いる。「小さい」よりもさらに「小さく」なっているのだ。
 なぜか。
 堀内は、そこに見える風景を見ているからではない。そこにある風景を「文学」として見ているからである。「ことば」として見ているからである。「ことば」で再構成して見ているからである。そのとき、「小さく」はひとつの「理想」である。「小さい」ものはかわいらしく、きれいである。堀内は、自分の暮らしている村を「小さく」することで、一種の「メルヘン」のように仕立てている。その「メルヘン」は、村の設計図とともに姿をあらわす。
 1連目の「平面図」を受けて、2連目には「立体図」が登場する。

我が胸に湧く今年の村の貧しさ
一粒の繭(まゆ)もない繭置倉庫は
がらんとしてあの壁の落ちた共同穀蔵
村の景色は薄暗い立体図となつて
胸の内に組み立てられる

 それは現実の村というより、あくまで「胸の内」の村である。「我が胸に湧く今年の村の貧しさ」の「胸に湧く」が、そのことを明白に語っている。それは、堀内にとっては切実な「肉体」の問題ではなく、あくまで「胸の内」の問題である。「思い」の問題である。だから「メルヘン」というのである。
 貧しさはこころをこころをかきたてる。貧しいゆえに、それを清らかにかえる。村に生きるいのちを美しくする。貧しさに耐えて生きる力に、堀内の「胸」は共感しているのである。
 これはある意味では「無責任」かもしれない。たぶん、貧しさとは縁遠い場で堀内は暮らしているのだろう。そういう一種の苦労知らずの美しさが、堀内のことばにはある。村で暮らしているひとにとっては、生活は「平面図」「立体図」ではないが、堀内はそれを「平面図」「立体図」という、一度、「頭」をくぐり抜けたものとして眺めている。
 堀内は、そういうことを自覚している。最終連。

私はこの市之蔵村に育ち
自分の廻りがなんとなく淋しい時
山へ登つて村をながめる
貧しいから瓦も白壁もない
何時までも残された藁屋根の色と
この空のまぶしい田舎のやさしい遠景を
子どもの日からこう一人で見てゐるのが
好きであつた

 この詩には「昭和十三年頃は農村の不況時代であっこ」という「注」がついている。そのころ、つまり堀内が20歳前に書いた作品だろう。その当時から「子どもの日から」というのだから、貧しさと無縁というのが堀内の「ひとがら」でもあると思う。
 これは悪いことではない。むしろ、いいことである。ことばが貧しさに傷ついていない。すこやかである。それが「村」を明るいものにしている。
 書き出し1連目にもどるが、

青い川と白い村道に綴られて

 この1行は、とても美しい。貧しさを拒絶して、純粋に輝いている。こういう清らかなこころの時代をもっているというのはとても貴重なことであると思う。


 



不思議な時計―堀内幸枝第二詩集 (1956年)
堀内 幸枝
ユリイカ

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(5)中井久夫訳

2009-01-30 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
パノラマ   リッツォス(中井久夫訳)

ハタンキョウの樹の列。
彫像の列。
雪をかぶった高い山。
墓の並び。
ハンターがオリーヴの幹に穿った孔。

晴れやかな美と晴れやかな果敢なさは
姉と妹のように矛盾し合う。
生の果敢なさと、死の果敢なさとは
まるごと矛盾する。

霊柩車は
ハタンキョウの花を載せて
通って行った。
彫刻は窓越しに
外を見張っていた。



 「廊下と階段」は死の色濃い詩集である。(中井が訳出している詩しか知らないのだけれど。)それも、天寿をまっとうしたという死ではなく、人生の半ばで死んで行った死。そういう死への追悼にあふれている。
 一方に変わらぬ自然がある。非情な自然がある。人間の作った「芸術」(彫刻、彫像)という非情もある。そのふたつの非情の間で、人間は生きている。これは、たしかに「矛盾」である。自然の美しさも、自然の美しさも、人間が「美しい」というから「美しい」。その「美しい」という人間だけが、そして死んで行くのである。自然も芸術も死ぬことはない。
 この矛盾を、リッツォスは「果敢なさ」と定義している。

 人間は、自分の人生をより「美しく」生きようとして、死んで行く。「美しく」生きようとすればするほど早く死んでしまう。それはたしかに「美しい」のだが、その「美しさ」は当人にはわからない。死んでしまうのだから。この矛盾。矛盾という形でしか定着しない真実--それを「果敢なさ」と定義しているように思う。

 きのう紹介した「軽率に・・・」で、その作品を「論理的」ということばでとらえたけれど、この詩集には、とても論理が強く動いている。感性よりも理性の方が強く動いているように感じられる。


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