秋元炯「禿頭譚」(「波」19、2009年01月15日発行)
秋元炯「禿頭譚」には「ストーリー」がある。といっても、むちゃくちゃな(?)ストーリーである。
鰐が卵を産み、子供が産まれ、人間になって、少年が青年になり恋をして……という具合に、このあとはつづいていく。
こういう展開のなかに、ふいに、感想(?)がはいってくる。その部分が私はとても気に入った。
思春期になった少年。
「ストーリー」は次々に、うまいぐあい(?)に展開していくが、それは傍から見ていてそう感じるだけで、それを経験したものには「うまくいかない」というのが反省としてある。これはしかしあくまで「反省」であって、その当時はもちろんそんなことは考えない。そんなことに気がつかない。
どんなことでも後から気がつく。後から、いろいろ思うものである。そして、そのいろいろ思うことは、たいていが独特な感想ではなく、一般的な感想である。だれもが思うことである。その、誰でも思うことが、不思議な「ストーリー」のなかに紛れ込む。それがおもしろい。不思議な「ストーリー」だから、そこでは不思議なことを考えるかというと、そうではなく、ごくふつうのことを考えるから、逆に「ストーリー」が不思議になっていくのである。不思議、奇妙さが際立っていくのである。
そして、そのストーリーの不思議さ、奇妙さが際立ってくれば来るほど、あ、秋元は、ストーリーの奇妙さではなく、ストーリーの奇妙さに紛れ込ませる形で、ふつうのことを書きたかったんだな、とわかる。
ふつうのことというのは、実は、いつでもどこにでもある「永遠」のことでもある。「永遠」を自然な形にして書くために「不思議なストーリー」、おかしなおかしな「ストーリー」が利用されているのである。
そういう思いで、もう一度詩を読み返すと、たとえば遺体を花で飾るというようなことも、実は「ふつう」のことである。禿をさらすのも、隠すのも「ふつう」のことである。禿をさらすと隠すとではまったく正反対だが、その正反対が同時に「ふつう」になってしまうのが、「いのち」の「永遠」というものである。
鰐に餌をやるというのも「ふつう」のことである。どんな奇妙なことのなかにも、いのちの「ふつう」が隠れている。というか、「ふつう」のことが人間の行動を支配している。「ふつう」をはみだしては、なかなか生きられない。
こういう構造は、天沢退二郎の「譚」にも共通する。ただし、天沢は「ふつうの感想」を書くためではなく、ことばの運動のエネルギーそのものを浮かび上がらせるために書く。天沢が書いているのは、人間の「ふつうの思い=永遠」ではなく、ことばそのもののもっている「永遠=自律して運動してしまうエネルギー」を書いている。天沢の詩では、ことばのエネルギーそのもののがテーマなのである。北川透の場合もそうである。ことばのエネルギーを引き出し、自律させるための詩--それを「現代詩」と定義できるのだが、その定義からすると、秋元の詩は「現代詩」とは少し違う。少し違っているけれど、少し違っていて、それがいい。
人間の「ふつう」に触れると、こころがとてもやわらかくなる。
秋元炯「禿頭譚」には「ストーリー」がある。といっても、むちゃくちゃな(?)ストーリーである。
すでに冷帯となって空中を浮遊していた私が
下を見ると
私の体は台の上に横たえられ
白い衣に全身を包まれていた
手首と足首には花も飾りつけられている
台の周りには
数人の男女がひざまずき
さらに私の体を飾りたてようとしている
そんなにしたって どうせこの頭じゃあと
上の方に回ってみると
なんと
頭は偽物の茶髪にふさふさと覆われていた
こんなことをして
いったいどんな意味があるのか
供え物にでもされてしまうのか
そう思った瞬間
ギロチンの刃が何十枚も落ちてきて
死体はたちまち肉塊の山となってしまった
これはまた
鰐に食わせる餌でもあるまいし
すると
急に鰐が池に現れ
作業服の男が
肉塊をつぎつき鰐たちのなかに投げ入れる
鰐が卵を産み、子供が産まれ、人間になって、少年が青年になり恋をして……という具合に、このあとはつづいていく。
こういう展開のなかに、ふいに、感想(?)がはいってくる。その部分が私はとても気に入った。
思春期になった少年。
少年は女の子の後を追い回したり
物陰からそっと覗いたりしている
そうか 女の子を追い回す頃になると
汚らしくなってしまうのか
どうせ追い回すのなら
小ぎれいな方がいいと思うのだが
そうはうまくいかないらしい
「ストーリー」は次々に、うまいぐあい(?)に展開していくが、それは傍から見ていてそう感じるだけで、それを経験したものには「うまくいかない」というのが反省としてある。これはしかしあくまで「反省」であって、その当時はもちろんそんなことは考えない。そんなことに気がつかない。
どんなことでも後から気がつく。後から、いろいろ思うものである。そして、そのいろいろ思うことは、たいていが独特な感想ではなく、一般的な感想である。だれもが思うことである。その、誰でも思うことが、不思議な「ストーリー」のなかに紛れ込む。それがおもしろい。不思議な「ストーリー」だから、そこでは不思議なことを考えるかというと、そうではなく、ごくふつうのことを考えるから、逆に「ストーリー」が不思議になっていくのである。不思議、奇妙さが際立っていくのである。
そして、そのストーリーの不思議さ、奇妙さが際立ってくれば来るほど、あ、秋元は、ストーリーの奇妙さではなく、ストーリーの奇妙さに紛れ込ませる形で、ふつうのことを書きたかったんだな、とわかる。
ふつうのことというのは、実は、いつでもどこにでもある「永遠」のことでもある。「永遠」を自然な形にして書くために「不思議なストーリー」、おかしなおかしな「ストーリー」が利用されているのである。
そういう思いで、もう一度詩を読み返すと、たとえば遺体を花で飾るというようなことも、実は「ふつう」のことである。禿をさらすのも、隠すのも「ふつう」のことである。禿をさらすと隠すとではまったく正反対だが、その正反対が同時に「ふつう」になってしまうのが、「いのち」の「永遠」というものである。
鰐に餌をやるというのも「ふつう」のことである。どんな奇妙なことのなかにも、いのちの「ふつう」が隠れている。というか、「ふつう」のことが人間の行動を支配している。「ふつう」をはみだしては、なかなか生きられない。
こういう構造は、天沢退二郎の「譚」にも共通する。ただし、天沢は「ふつうの感想」を書くためではなく、ことばの運動のエネルギーそのものを浮かび上がらせるために書く。天沢が書いているのは、人間の「ふつうの思い=永遠」ではなく、ことばそのもののもっている「永遠=自律して運動してしまうエネルギー」を書いている。天沢の詩では、ことばのエネルギーそのもののがテーマなのである。北川透の場合もそうである。ことばのエネルギーを引き出し、自律させるための詩--それを「現代詩」と定義できるのだが、その定義からすると、秋元の詩は「現代詩」とは少し違う。少し違っているけれど、少し違っていて、それがいい。
人間の「ふつう」に触れると、こころがとてもやわらかくなる。