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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

くらもちさぶろう「みずたまり」

2009-01-17 11:50:18 | 詩(雑誌・同人誌)
くらもちさぶろう「みずたまり」(「日本未来派」218 、2008年12月01日発行)

 「対象」と人間。「もの」と人間。対象が人間以外であるとき、ひとは、どんなふうにして「対象」のなかに入っていくことができるか。感情を持たない存在に、どうやって感情を重ね合わせることができるか。
 ピクシーの映画「ウォーリー」では、とてもおもしろいシーンがあった。ごみ処理ロボット「ウォーリー」がこおろぎ(ゴキブリ?)とふたり(?)で地球に生き残っている。ウォーリーがこおろぎを踏む。はっと、気がついて、助けあげる。そのあと、生き返った(?)こおろぎが、ウォーリーの体を這う。くすぐったい。ウォーリーが笑う。この瞬間、ウォーリーが「ロボット」ではなく、人間になってしまう。小さい何かが肌を動き回ったとき、くすぐったいという肉体の感覚、肌の感覚に、人間の(私の)感覚(思い出)が重なり、一体化する。このあとは、もう、ウォーリーのやっていることは、すべて人間の感情・精神にみえてくる。
 何かと人間を重ね合わせるには、「肉体」の感覚がとても大切なのだ。「肉体」はとても不思議で、他人が「肉体」の苦悩にうめいているとき、その痛みは「私」のものではないにもかかわらず、「痛み」を感じることができる。(だから、だまされることもあるのだが……。)「肉体」には、「個人」の枠を超える力があるのだ。
 くらもちは、こういう感覚を大切にしている。「みずたまり」は「肉体」の「はずかしい」という感覚を美しい形で取り込んでいる。

はやく きえていって しまいたい
はずかしい すがた を じめん の うえ に
さらして いたくない

わたし わ はだかだ
はだ が ひとめ に さらされている だけ でわない
からだ の なか まで みえる

 「はだか」を見られることの「はずかしさ」。この「肉体」の感覚。「はずかしい」は「肉体感覚」ではない、というひともいるかもしれないが、視線と結びついたこの感覚は、私には、やはり「肉体感覚」である。「肉体の思想」である。
 私たちには、何か、見せていいものと、見せなくていいもの、という区別がある。暮らしの中で身につけた感覚がある。「頭」で考えるのではなく、無意識に、そうしてしまう「肉体」の反応がある。それは「頭」で考えるよりも前に、たとえば父や母から教え込まれるものかもしれないけれど、「頭」で考えるよりも前、ということが大切なのだ。「肉体」の基本なのだ。
 その見せてていいもの、見せなくていいもの、あるいは隠しておいた方がいいもののひとつに「からだ の なか」がある。これはもちろん「こころ」のことである。くらもちは「こころ」と書いてはいないが、「こころ」だろう。感情の、精神の動きだろう。そんなものまで、どうしようもなく、見られてしまう「水たまり」。透明だから。
 「肉体」をさらすことは「こころ」をさらすことである。「こころ」がさらされているから、それが見え、くらもちは「みずたまり」の「こころ」を自分の「肉体」(そして、肉体のなかにあるこころ)と重ね合わせ、「みずたまり」の気持ちを代弁することができる。

わざわざ どうろ わきに しゃがみ こんで
のぞきこむ もの が いる
はずかしがって
かお を そむけて いること にも きがつかない
わざわざ たちどまる のわ
わたし が きれいな きょくせん の
にんげん の かたち に にている から か 

 くらもちは、こんなふうに「みずたまり」と「人間」の「こころ」と「かたち」を重ねたあと、5連目で、思わぬことを書く。びっくりしてしまう。

はは わ ちじょう に わたし を うみ おとした
にんげん に あう こと を ねがった

 この2行が、とても、とても、とても美しい。
 くらもちは「みずたまり」と「肉体」を重ねているだけではない。その重ね合わせをとおして、「みずたまり」の向こう側にまで繋がっている。「向こう側」とは、「みずたまり」の歴史、「水たまり」の「血の繋がり」のことである。あらゆるものには「繋がり」がある。そして、その繋がりというのは、必ず「血の繋がり」なのである。「はは」がいるのである。この「血の繋がり」「はは」を「いのち」と言い換えると、くらもちの書いていることがより鮮明になるかもしれない。
 そして、それだけではない。「あう こと を ねがった」。この「あう」にこめられた思想がすごい。
 出会いは、ひとを変えるのである。ひとと出会うとひとはかわる。もちろん「もの」もかわる。
 実際、この作品では「みずたまり」はくらもちと会って、その結果、「はずかしい」という「こころ」をもった存在に変わった。そして、くらもちも、「みずたまり」と会うことで、「みずたまり」に「はずかしい」という「こころ」があることを知る人間にかわった。

 人間はなんのために生きているか。なぜ、生きているか。その「定義」はいろいろあるだろうが、そのひとつには、まちがいなく「人間はかわるために生きている」ということがある。何かに出会い、自分をかえていく。かわっていく。そのために生きている。かわっていくために、ことばを動かす。詩を書く……。

 このあともくらもちの詩はつづくのだが、そこに描かれているものは、そういう「いのち」にふれることで、くらもち自身が生まれ変わる姿だ。
 詩を書く。対象に自分を重ね合わせる。その「こころ」と「こころ」、「肉体」と「肉体」を重ね合わせるとき、くらもちは、対象の向こう側の「いのち」、ことばでしかつかみとれないものに触れて、生まれ変わる。対象の持っている「いのち」の歴史が、くらもちの今を洗い清める。何かに出会い、その何かと生きるというとは(一体になって何かを感じるということは)、自分の「いのち」を洗い清めて生きることなのだ。


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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(6)中井久夫訳

2009-01-17 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
溶解    リッツォス(中井久夫訳)

時として言葉はひとりでに訪れてくる、木の葉のように--。
目に見えない根が、土壌が、太陽が、水が木の葉をたすけた。
朽ち葉もたすけた。
意味がすっとつくことがある、木の葉の上の、蜘蛛の巣のように、
あるいは埃のように、あるいはきらきら光る露玉のように。
木の葉の上では少女が自分の人形を裸にしてはらわたをえぐっている。
露の滴が一つ、髪の毛にかかった。頭を挙げた。何も見えない。
雫の冷たい透明性が彼女の身体の上で溶けた。



 この詩も、前半と後半で印象ががらりとかわる。前半は詩の幸福を描いているように思える。詩は、ひとりでにやってくるものである。探していてもなかなか見つからず、忘れたころに突然やってくる。その気まぐれな訪問を制御することはできない。詩のことばは、突然やってきて、そのことば自体の力で拡大してゆく。詩の領土をひろげていく。
 ここからかが、とてもおもしろい。
 後半である。その拡大もまた、制御できないのである。異様なものも「意味」として呼び寄せてしまう。意味をひろげて行ってしまう。「人形を裸にしてはらわたをえぐる」。それは残酷なことだろうか。歪んだ行為だろうか。だが、そんなふうに不気味に見えるものの上にも、透明なものがやってくる。美しいものがやってくる。その、不思議な出会いを、ひとは制御できない。それは、やってくるように見えても、ほんとうは、深い深い根が出発点かもしれないのである。「雫」の光は、根があってはじめて可能なのもかもしれない。
 大切なのは、それがどんなものであれ、出会って、溶け合う。溶解する。

 詩は異質なものの出会い。それは、どんなに対立しても、出会いの一瞬において、どこかで完全に溶け合っている。溶け合うものがないかぎり、そこには出会いはない。反発しながら、出会い、溶け合う。その不思議な運動のなかにこそ、詩がある。
 リッツォスの詩が、前半と後半で変わってしまうのは、その変わること、ことばが勝手に運動していく力こそが詩だからである。リッツォスは「存在」としてての詩ではなく、「運動」としての詩を書いている。ことばは動いていくことで詩になる。


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