くらもちさぶろう「みずたまり」(「日本未来派」218 、2008年12月01日発行)
「対象」と人間。「もの」と人間。対象が人間以外であるとき、ひとは、どんなふうにして「対象」のなかに入っていくことができるか。感情を持たない存在に、どうやって感情を重ね合わせることができるか。
ピクシーの映画「ウォーリー」では、とてもおもしろいシーンがあった。ごみ処理ロボット「ウォーリー」がこおろぎ(ゴキブリ?)とふたり(?)で地球に生き残っている。ウォーリーがこおろぎを踏む。はっと、気がついて、助けあげる。そのあと、生き返った(?)こおろぎが、ウォーリーの体を這う。くすぐったい。ウォーリーが笑う。この瞬間、ウォーリーが「ロボット」ではなく、人間になってしまう。小さい何かが肌を動き回ったとき、くすぐったいという肉体の感覚、肌の感覚に、人間の(私の)感覚(思い出)が重なり、一体化する。このあとは、もう、ウォーリーのやっていることは、すべて人間の感情・精神にみえてくる。
何かと人間を重ね合わせるには、「肉体」の感覚がとても大切なのだ。「肉体」はとても不思議で、他人が「肉体」の苦悩にうめいているとき、その痛みは「私」のものではないにもかかわらず、「痛み」を感じることができる。(だから、だまされることもあるのだが……。)「肉体」には、「個人」の枠を超える力があるのだ。
くらもちは、こういう感覚を大切にしている。「みずたまり」は「肉体」の「はずかしい」という感覚を美しい形で取り込んでいる。
「はだか」を見られることの「はずかしさ」。この「肉体」の感覚。「はずかしい」は「肉体感覚」ではない、というひともいるかもしれないが、視線と結びついたこの感覚は、私には、やはり「肉体感覚」である。「肉体の思想」である。
私たちには、何か、見せていいものと、見せなくていいもの、という区別がある。暮らしの中で身につけた感覚がある。「頭」で考えるのではなく、無意識に、そうしてしまう「肉体」の反応がある。それは「頭」で考えるよりも前に、たとえば父や母から教え込まれるものかもしれないけれど、「頭」で考えるよりも前、ということが大切なのだ。「肉体」の基本なのだ。
その見せてていいもの、見せなくていいもの、あるいは隠しておいた方がいいもののひとつに「からだ の なか」がある。これはもちろん「こころ」のことである。くらもちは「こころ」と書いてはいないが、「こころ」だろう。感情の、精神の動きだろう。そんなものまで、どうしようもなく、見られてしまう「水たまり」。透明だから。
「肉体」をさらすことは「こころ」をさらすことである。「こころ」がさらされているから、それが見え、くらもちは「みずたまり」の「こころ」を自分の「肉体」(そして、肉体のなかにあるこころ)と重ね合わせ、「みずたまり」の気持ちを代弁することができる。
くらもちは、こんなふうに「みずたまり」と「人間」の「こころ」と「かたち」を重ねたあと、5連目で、思わぬことを書く。びっくりしてしまう。
この2行が、とても、とても、とても美しい。
くらもちは「みずたまり」と「肉体」を重ねているだけではない。その重ね合わせをとおして、「みずたまり」の向こう側にまで繋がっている。「向こう側」とは、「みずたまり」の歴史、「水たまり」の「血の繋がり」のことである。あらゆるものには「繋がり」がある。そして、その繋がりというのは、必ず「血の繋がり」なのである。「はは」がいるのである。この「血の繋がり」「はは」を「いのち」と言い換えると、くらもちの書いていることがより鮮明になるかもしれない。
そして、それだけではない。「あう こと を ねがった」。この「あう」にこめられた思想がすごい。
出会いは、ひとを変えるのである。ひとと出会うとひとはかわる。もちろん「もの」もかわる。
実際、この作品では「みずたまり」はくらもちと会って、その結果、「はずかしい」という「こころ」をもった存在に変わった。そして、くらもちも、「みずたまり」と会うことで、「みずたまり」に「はずかしい」という「こころ」があることを知る人間にかわった。
人間はなんのために生きているか。なぜ、生きているか。その「定義」はいろいろあるだろうが、そのひとつには、まちがいなく「人間はかわるために生きている」ということがある。何かに出会い、自分をかえていく。かわっていく。そのために生きている。かわっていくために、ことばを動かす。詩を書く……。
このあともくらもちの詩はつづくのだが、そこに描かれているものは、そういう「いのち」にふれることで、くらもち自身が生まれ変わる姿だ。
詩を書く。対象に自分を重ね合わせる。その「こころ」と「こころ」、「肉体」と「肉体」を重ね合わせるとき、くらもちは、対象の向こう側の「いのち」、ことばでしかつかみとれないものに触れて、生まれ変わる。対象の持っている「いのち」の歴史が、くらもちの今を洗い清める。何かに出会い、その何かと生きるというとは(一体になって何かを感じるということは)、自分の「いのち」を洗い清めて生きることなのだ。
「対象」と人間。「もの」と人間。対象が人間以外であるとき、ひとは、どんなふうにして「対象」のなかに入っていくことができるか。感情を持たない存在に、どうやって感情を重ね合わせることができるか。
ピクシーの映画「ウォーリー」では、とてもおもしろいシーンがあった。ごみ処理ロボット「ウォーリー」がこおろぎ(ゴキブリ?)とふたり(?)で地球に生き残っている。ウォーリーがこおろぎを踏む。はっと、気がついて、助けあげる。そのあと、生き返った(?)こおろぎが、ウォーリーの体を這う。くすぐったい。ウォーリーが笑う。この瞬間、ウォーリーが「ロボット」ではなく、人間になってしまう。小さい何かが肌を動き回ったとき、くすぐったいという肉体の感覚、肌の感覚に、人間の(私の)感覚(思い出)が重なり、一体化する。このあとは、もう、ウォーリーのやっていることは、すべて人間の感情・精神にみえてくる。
何かと人間を重ね合わせるには、「肉体」の感覚がとても大切なのだ。「肉体」はとても不思議で、他人が「肉体」の苦悩にうめいているとき、その痛みは「私」のものではないにもかかわらず、「痛み」を感じることができる。(だから、だまされることもあるのだが……。)「肉体」には、「個人」の枠を超える力があるのだ。
くらもちは、こういう感覚を大切にしている。「みずたまり」は「肉体」の「はずかしい」という感覚を美しい形で取り込んでいる。
はやく きえていって しまいたい
はずかしい すがた を じめん の うえ に
さらして いたくない
わたし わ はだかだ
はだ が ひとめ に さらされている だけ でわない
からだ の なか まで みえる
「はだか」を見られることの「はずかしさ」。この「肉体」の感覚。「はずかしい」は「肉体感覚」ではない、というひともいるかもしれないが、視線と結びついたこの感覚は、私には、やはり「肉体感覚」である。「肉体の思想」である。
私たちには、何か、見せていいものと、見せなくていいもの、という区別がある。暮らしの中で身につけた感覚がある。「頭」で考えるのではなく、無意識に、そうしてしまう「肉体」の反応がある。それは「頭」で考えるよりも前に、たとえば父や母から教え込まれるものかもしれないけれど、「頭」で考えるよりも前、ということが大切なのだ。「肉体」の基本なのだ。
その見せてていいもの、見せなくていいもの、あるいは隠しておいた方がいいもののひとつに「からだ の なか」がある。これはもちろん「こころ」のことである。くらもちは「こころ」と書いてはいないが、「こころ」だろう。感情の、精神の動きだろう。そんなものまで、どうしようもなく、見られてしまう「水たまり」。透明だから。
「肉体」をさらすことは「こころ」をさらすことである。「こころ」がさらされているから、それが見え、くらもちは「みずたまり」の「こころ」を自分の「肉体」(そして、肉体のなかにあるこころ)と重ね合わせ、「みずたまり」の気持ちを代弁することができる。
わざわざ どうろ わきに しゃがみ こんで
のぞきこむ もの が いる
はずかしがって
かお を そむけて いること にも きがつかない
わざわざ たちどまる のわ
わたし が きれいな きょくせん の
にんげん の かたち に にている から か
くらもちは、こんなふうに「みずたまり」と「人間」の「こころ」と「かたち」を重ねたあと、5連目で、思わぬことを書く。びっくりしてしまう。
はは わ ちじょう に わたし を うみ おとした
にんげん に あう こと を ねがった
この2行が、とても、とても、とても美しい。
くらもちは「みずたまり」と「肉体」を重ねているだけではない。その重ね合わせをとおして、「みずたまり」の向こう側にまで繋がっている。「向こう側」とは、「みずたまり」の歴史、「水たまり」の「血の繋がり」のことである。あらゆるものには「繋がり」がある。そして、その繋がりというのは、必ず「血の繋がり」なのである。「はは」がいるのである。この「血の繋がり」「はは」を「いのち」と言い換えると、くらもちの書いていることがより鮮明になるかもしれない。
そして、それだけではない。「あう こと を ねがった」。この「あう」にこめられた思想がすごい。
出会いは、ひとを変えるのである。ひとと出会うとひとはかわる。もちろん「もの」もかわる。
実際、この作品では「みずたまり」はくらもちと会って、その結果、「はずかしい」という「こころ」をもった存在に変わった。そして、くらもちも、「みずたまり」と会うことで、「みずたまり」に「はずかしい」という「こころ」があることを知る人間にかわった。
人間はなんのために生きているか。なぜ、生きているか。その「定義」はいろいろあるだろうが、そのひとつには、まちがいなく「人間はかわるために生きている」ということがある。何かに出会い、自分をかえていく。かわっていく。そのために生きている。かわっていくために、ことばを動かす。詩を書く……。
このあともくらもちの詩はつづくのだが、そこに描かれているものは、そういう「いのち」にふれることで、くらもち自身が生まれ変わる姿だ。
詩を書く。対象に自分を重ね合わせる。その「こころ」と「こころ」、「肉体」と「肉体」を重ね合わせるとき、くらもちは、対象の向こう側の「いのち」、ことばでしかつかみとれないものに触れて、生まれ変わる。対象の持っている「いのち」の歴史が、くらもちの今を洗い清める。何かに出会い、その何かと生きるというとは(一体になって何かを感じるということは)、自分の「いのち」を洗い清めて生きることなのだ。