田島安江「たまねぎ」(「侃侃」12、2008年06月30日発行)
比喩とは何か。わけのわからないものである。いま、ここにないものが「比喩」である。いま、ここにあれば、それは比喩にはならない。簡単に言えば、女の唇を「薔薇」と呼ぶとき、薔薇は女の唇のある場所には存在しない。したがって、比喩は、常にある存在、「事実」や「真実」を否定していることになる。否定しながら、いま、ここではない「場」へと精神を動かしていくのが比喩である。したがって、それは、わけがわからない。わかってはたまるものか、というのが比喩である。
田島の「たまねぎ」は、そんな感じで始まる。
「たまねぎ」は「何」を言い換えたものか、さっぱりわからない。「薔薇」が「女の唇」であるという具合には言い換えることができない。
さらに「あしたを忘れさせる満月の夜とか/雲間にただよう飛行機の音が聞こえたときとか」に「収穫する」のか「収穫しない」のかもわからない。そして、実は、この詩は、この2行の、収穫するのか、しないのか、どっちかわからないことによって、さらに詩になっていく。詩のことばが動く契機になっている。つまり、収穫するのか、しないのかわからないために、視点は、もう「たまねぎ」に集中するしかなくなる。「あしたを忘れさせる満月の夜」「雲間にただよう飛行機の音が聞こえたとき」というまがりくねったことばの迷路は、そういうものは、さっさと忘れてしまいなさい、という逆説的な描写である。面倒なものを描写し、出現させることで、そんな面倒なものから視線を単純なものに向けさせるための「方便」である。こういうややこしい2行があるために、2連目でわかることばは「たまねぎ」だけにある。「たまねぎ」がわかるのは、わたしたちの日常に「たまねぎ」がありふれているからである。そして、「たまねぎ」がありふれているということが、また、逆説的に「たまねぎ」って何?という問いを浮かび上がらせる。
わからない。わかりっこない。なんの説明も1連目ではしていなからである。
読者の意識を、何がなんだかわからない「たまねぎ」に集中させておいて、田島は、2連目以降を書きつなぐ。
「たまねぎ」だけを描写する。「たまねぎ」の変化を描写しはじめる。たしかに芯たまねぎは収穫したあともまだ成長する。芯が真っ白なたまねぎから緑の芽が出て、それが巨大に育つ。そういうことを田島は描写している。そのとき、わたしたち読者にみえるのは「実物」の「たまねぎ」である。何かの「比喩」であった「たまねぎ」、何かの「言い換え」としての「たまねぎ」ではなく、ほんもののたまねぎである。
比喩じゃ、なかったの?
そんなはずはない。比喩以外の、ほんもののたまねぎを人間は「わたしのなかで/長い時間をかけて育て」ることはできない。
比喩なのに、もうたまねぎは比喩であることを拒絶している。比喩が比喩であることを拒絶し、比喩であることを超越してほんものとしてあらわれてくる。
そして、それがさらに変化しつづける。
「たまねぎ」は「たまねぎではない」と定義されて、この詩は終わる。「たまねぎ」は「たまねぎではない」ものにまで変化しつづける。「たまねぎ」はいったい何の比喩なのか、一度も説明されないまま、「たまねぎではない」ものになってしまう。
この詩は何? 「たまねぎ」ということばで何を書きたかった?
だれにもわからない。たぶん、田島にも、わからない。そして、わからないからこそ、書いているのである。わからないからこそ、詩、なのである。
ある日、「収穫」したのではないたまねぎ、たぶん買ってきた「新たまねぎ」から、知らない間に芽が出て、長い葱が育つ。それをただ田島は書いてみたかった。「意味」としてではなく、「無意味」として。「意味」を拒絶する、単なることばの運動として。
「意味」にはならないものが、世界には存在する。人間のこころのなかには存在する。そういうものを田島は、ここでは、「たまねぎ」をとおして描いている。たまねぎを描写することで、たまねぎの変化を追うことで描いている。常に自己が「意味」になるのを拒んで動いていくものがあるのだ。
そして、その瞬間には、美しいことばが立ち上がってくる。
あ、いいなあ。とても、いいなあ。緑が白を抜き去る。その瞬間を、その持続を、だれも見ることはできない。気がついたら白いたまねぎが緑の芽をだし、緑に染まっていた。その気がつかない瞬間の、その瞬間という時間の長さ。矛盾したものが、とてもきれいに動いている。きれいな軌跡を描いている。このきれいさに、わたしは「ほーっ」と息をもらしてしまう。
その瞬間には、たぶん「新たまねぎ」のいちばん「たまねぎ」らしい「いのち」が存在しているのだが、その瞬間を生きることでたまねぎはたまねぎではなくなる。そういうことの不思議さが、ただ「きれい」として書かれている。それがいい。
「比喩」であるはずなのに、「比喩」であることをやめて、「比喩」が突き動かすことばの運動、その運動の美しい1行だけがほうりだされて、そこに存在する。そのときの、ただ「きれい」としかいえない何か。
とても、いい。
比喩とは何か。わけのわからないものである。いま、ここにないものが「比喩」である。いま、ここにあれば、それは比喩にはならない。簡単に言えば、女の唇を「薔薇」と呼ぶとき、薔薇は女の唇のある場所には存在しない。したがって、比喩は、常にある存在、「事実」や「真実」を否定していることになる。否定しながら、いま、ここではない「場」へと精神を動かしていくのが比喩である。したがって、それは、わけがわからない。わかってはたまるものか、というのが比喩である。
田島の「たまねぎ」は、そんな感じで始まる。
わたしのなかで
ながい時間をかけて育てたたまねぎは
かんたんには収穫しない
あしたを忘れさせる満月の夜とか
雲間にただよう飛行機の音が聞こえたときとか
「たまねぎ」は「何」を言い換えたものか、さっぱりわからない。「薔薇」が「女の唇」であるという具合には言い換えることができない。
さらに「あしたを忘れさせる満月の夜とか/雲間にただよう飛行機の音が聞こえたときとか」に「収穫する」のか「収穫しない」のかもわからない。そして、実は、この詩は、この2行の、収穫するのか、しないのか、どっちかわからないことによって、さらに詩になっていく。詩のことばが動く契機になっている。つまり、収穫するのか、しないのかわからないために、視点は、もう「たまねぎ」に集中するしかなくなる。「あしたを忘れさせる満月の夜」「雲間にただよう飛行機の音が聞こえたとき」というまがりくねったことばの迷路は、そういうものは、さっさと忘れてしまいなさい、という逆説的な描写である。面倒なものを描写し、出現させることで、そんな面倒なものから視線を単純なものに向けさせるための「方便」である。こういうややこしい2行があるために、2連目でわかることばは「たまねぎ」だけにある。「たまねぎ」がわかるのは、わたしたちの日常に「たまねぎ」がありふれているからである。そして、「たまねぎ」がありふれているということが、また、逆説的に「たまねぎ」って何?という問いを浮かび上がらせる。
わからない。わかりっこない。なんの説明も1連目ではしていなからである。
読者の意識を、何がなんだかわからない「たまねぎ」に集中させておいて、田島は、2連目以降を書きつなぐ。
新しいたまねぎは芯まで真っ白
時間がたつと少しずつ緑の色を浮かばせる
台所の奥で
誰にも気づかれないところで
たまねぎの芯は緑に侵されていく
緑の色はいつか白を抜き去る
「たまねぎ」だけを描写する。「たまねぎ」の変化を描写しはじめる。たしかに芯たまねぎは収穫したあともまだ成長する。芯が真っ白なたまねぎから緑の芽が出て、それが巨大に育つ。そういうことを田島は描写している。そのとき、わたしたち読者にみえるのは「実物」の「たまねぎ」である。何かの「比喩」であった「たまねぎ」、何かの「言い換え」としての「たまねぎ」ではなく、ほんもののたまねぎである。
比喩じゃ、なかったの?
そんなはずはない。比喩以外の、ほんもののたまねぎを人間は「わたしのなかで/長い時間をかけて育て」ることはできない。
比喩なのに、もうたまねぎは比喩であることを拒絶している。比喩が比喩であることを拒絶し、比喩であることを超越してほんものとしてあらわれてくる。
そして、それがさらに変化しつづける。
やがて白は食いつぶされて
見る影もなくなるだろう
たまねぎの白は
精神を崩壊させるだろうか
まろやかな白の楕円が
緑に刺しぬかれる
ひょろりと伸びた緑いろは
もう たまねぎではない
「たまねぎ」は「たまねぎではない」と定義されて、この詩は終わる。「たまねぎ」は「たまねぎではない」ものにまで変化しつづける。「たまねぎ」はいったい何の比喩なのか、一度も説明されないまま、「たまねぎではない」ものになってしまう。
この詩は何? 「たまねぎ」ということばで何を書きたかった?
だれにもわからない。たぶん、田島にも、わからない。そして、わからないからこそ、書いているのである。わからないからこそ、詩、なのである。
ある日、「収穫」したのではないたまねぎ、たぶん買ってきた「新たまねぎ」から、知らない間に芽が出て、長い葱が育つ。それをただ田島は書いてみたかった。「意味」としてではなく、「無意味」として。「意味」を拒絶する、単なることばの運動として。
「意味」にはならないものが、世界には存在する。人間のこころのなかには存在する。そういうものを田島は、ここでは、「たまねぎ」をとおして描いている。たまねぎを描写することで、たまねぎの変化を追うことで描いている。常に自己が「意味」になるのを拒んで動いていくものがあるのだ。
そして、その瞬間には、美しいことばが立ち上がってくる。
緑のいろはいつか白い色を抜き去る
あ、いいなあ。とても、いいなあ。緑が白を抜き去る。その瞬間を、その持続を、だれも見ることはできない。気がついたら白いたまねぎが緑の芽をだし、緑に染まっていた。その気がつかない瞬間の、その瞬間という時間の長さ。矛盾したものが、とてもきれいに動いている。きれいな軌跡を描いている。このきれいさに、わたしは「ほーっ」と息をもらしてしまう。
その瞬間には、たぶん「新たまねぎ」のいちばん「たまねぎ」らしい「いのち」が存在しているのだが、その瞬間を生きることでたまねぎはたまねぎではなくなる。そういうことの不思議さが、ただ「きれい」として書かれている。それがいい。
「比喩」であるはずなのに、「比喩」であることをやめて、「比喩」が突き動かすことばの運動、その運動の美しい1行だけがほうりだされて、そこに存在する。そのときの、ただ「きれい」としかいえない何か。
とても、いい。
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