詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石川敬大「三月、あかるい背中--追悼・山本哲也」

2008-06-21 11:47:42 | 詩(雑誌・同人誌)
 石川敬大「三月、あかるい背中--追悼・山本哲也」(「侃侃」12、2008年06月30日発行)
 追悼詩。読みながら、山本哲也の作品を思い出した。

線路には
どんな電車も走っていないが

 書き出しの2行。「どんな」の強調のあり方に私は山本を思い出した。山本の詩に、私は「標準語」を感じるのだが、その「標準語」の典型がここにある。「どんな」ということばを何で締めくくるか。「走っていないが」の「ない」。否定形。とても静かにおさまる否定形である。
 否定形によって世界が洗われる。洗浄される。そして、そこから新しい世界が始まる。その世界は現実を描いているふりをしながら精神(感情)を描いている。抒情が始まる。山本は、そういう具合にことばを動かした。
 いったん否定された世界であり、そこから始まる世界で頼れるのはことばだけである。ことばの動きだけである。--ということろから「新古今」や「古今」に似た、ことばの「構築」がはじまる。
 そして、そのきっかけが「どんな」という少しゆるんだ(?)口語であることを忘れてはならない。
 やまもとは「口語」をやわらかく詩の中に持ち込んだ。「口語」によって、山本の「構築」する世界が「文語」(古典文学)ではなく「現代」詩であることを告げようとした。「文語」は「標準語」そのものでできているが、「口語」には肉体がよりつよくからんでくるだけに、「標準語」にみえても「九州弁」だったりするのだが、山本の「口語」は「標準語」であった。少なくとも、私には、山本の書くことばだけが九州で書かれる、数少ない「標準語」にみえた。つまずかずに読むことができた。「つまずく」というのは、え、なんで、このことばとこのことばが結びつくの? という疑問である。そういう疑問が山本のことはには感じたことがない。
 「どんな」は「ない」という否定形とともにつかう。「ぜんぜん」は「ない」という否定形とともにつかう。そういう一定のルール。ルールの持っている安定感。安心感。それがあって、はじめて、否定形後の、ことばで「構築」される世界の「構築」運動そのものが信頼できる。

始発といい執着という
附近くにはどんな駅舎もないけれど
はじまりとおわりはどこかに、確かにあって
零へと向かうカウントが刻まれている
きのうのむこうからつづく
夢のなかには
あかるい踏切があり
こっちとむこうを区切る
ドアも把手もないガラスの壁が天まですくっと伸びていた

 「確かにあって」「あかるい踏切」。この「確かに」と「あかるい」にも山本を感じた。
 「確かに」は山本が山本のことばをはげますためにつかっている。具体的な例をあげることができないけれど、山本なら、そんな具合につかう。その呼吸が、石川のこの作品の行にも存在する。自分をはげまして、現実とはすこしずれた精神風景(感情風景)へ入って行く。そういう世界へ読者を誘い込む。「確かに」ということばはあってもなくても、その指し示す世界に変化はないが、「確かに」によって「感情」というか「意志」というか「精神」というか、そういうものが一歩踏み出す。そうするために「確かに」という。それは繰り返しになるが、自分自身を(自分自身のことばを運動を)はげますための、ひとりだけの「口語」、掛け声のようなものなのである。掛け声を、「よいしょ」というような声ではなく「確かに」にということばで静かにひそませる。それが山本であった。
 「あかるい」は、そのひらがな表記に山本を感じた。「明るい踏切」ではなく「あかるい踏切」。「あかるい」と口が、喉が、肉体が動くときに「口語」という感覚が甦る。口語の感覚が鮮やかになる。
 「あかるい踏切」。そのひらがなと漢字の組み合わせ。その瞬間に動く肉体(口語)と意識(精神)の瞬間的な交錯。この瞬間的な感覚--重くならず、軽くならず、という感覚が山本の、そして「標準語」の感覚なのである。

 *

 私の書いていることは、たぶんに感覚的すぎて、この文章を読んでいるひとにはわからないかもしれない。特に九州のひとにはわからないかもしれない。私は九州の生まれではない。そして九州へきて一番驚いたのが、そこで書かれていることばが私の知らないことばであったということだ。私のことばが「標準語」であるというわけではないが、ともかく読めども読めども、読めない。読み進めることができない。つまずきつづける。山本のことばだけがすーっと、肉体へも精神へも入ってきた。ほかのひとの書くことばは、九州の甘い甘い味付け(食事)と同じように、肉体が拒絶して入って来なかった。
 ただし、今は、入ってくる。甘い食事を、これしかない、と覚悟して食べたときのように、いつか、どこかで覚悟して読みはじめたのだと思う。
 入ってくる、とはいうものの、やはりどこかで拒絶してしまう部分もある。
 たとえば、最初に引用した2行を含む1連目は、次のようになっていた。

線路には
どんな電車も走っていないが
そよ風よりも秘めやかにひそやかに
カニの気配が
そここにあふれ
胸にするどく触れてきた
サフランの香りも漂っていた

 「そよ風」「秘めやかに」「ひそやかに」のことばの過剰な繰り返しの気持ち悪さ。「するどく」が「触れてきた」を強調するときの、何かの欠如。「過剰」と「欠如」のあり方が、私には「標準語」ではないと感じさせる。肉体が、つまり、口が、喉が、声帯が、そういうことばのつながりに対して拒絶反応を起こしてしまう。
 「そここにあふれ」の音のつながりも、とてもつらい。

 石川には申し訳ないが、石川の詩のことばは、私が山本の詩から感じる魅力とは別の方向へ動いていっていて、それは私には無縁のものだという印象が最後に残った。ひとそれぞれ受けとり方が違う。それが詩だ。だから、違っていて当然だし、それでいいのだろうけれど。

一篇の詩を書いてしまうと
山本 哲也
思潮社

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