細見和之「メガネのミルズで調光機能付き度入りサングラスを買う」(「紙子」14、2007年10月10日発行)
ことばを復唱する。そのとき、どんなことが起きるのだろうか。ことばを発した人のことがよくわかるようになるのだろうか。それとも逆にことばを復唱することで、自分自身のなかにあるものがひっぱりだされるのだろうか。
細見の場合は、どうだろうか。
この店主のことばを引用し、細見は繰り返す。そして、そのことばがなぜ発せられたのか考えはじめる。そのときの、こころの動き。--それは「残酷なことを言うようですが」、そして「屁理屈に聞こえるかもしれませんが」、「誤解をまねく言い方をあえてしますと」、実は「店主の世界」とは無関係である。
それがちょっとおもしろい。
この「あるに違いない」がいいなあ。「違いない」という念押しがいいなあ。念押しは細見自身が納得するためのものである。
「違いない」がもし書かれていなかったら、これは「散文」というか、小説の文章である。「違いない」という念押しによって、そこからはじまる世界は、もう、店主の世界ではなくなる。
いくら店主を描写してみても、それは対象が先にあってそれを描写するというよりも、まで思いがあって、それに合わせて対象の描写を選択することになってしまう。(散文、たとえば小説との違いがそこに出てくる。)「違いない」と念押ししてしまったために、それ以降は「色メガネ」でのぞいた世界になる。
引用につづく行に、そのことが鮮明に出ている。
「だから」と書いているが、「だから」の順序が普通の散文とは逆である。これこれの事実がある。「だから」これこれに違いない、というのが一般的な推測の仕方である。細見は逆に、これこれに「違いない」。「だから」これこれのことが観察される。これは「実証」ではなく、推測にあわせて「現実」を選択しているにすぎない。「違いない」という推測をもとに、「だから」ということばにつなげることができるものだけを選択しているにすぎない。
細見は「違いない」と言ったときから、もうすでに現実を選びとっている。その現実は店主の現実というより、細見のこころの現実である。店主をこんなふうにとらえたい、というこころの現実である。
「言語の暴力」とか「ディスクールのもつ浸透性」とかいうことばが出てくるから言うのではないが、細見はそういうものへのあこがれがあるのだろう。だから、やすやすと、その「浸透性」に身を任せてしまう。
店主のことばに含まれる「詩人性」を細見は発見する(?)ふりをしながら、細見自身が「ひとりの詩人ではないか」と誰かに思われる瞬間を待っている。
店主のことばを詩人と結びつけることで、細見は細見の書いたものを「詩」と密接に関連づけようとしている。もっと簡単に言えば、細見は、店主のことばをつかって「詩」というものを書きたかった、「詩」書くことによって「詩人」になりたかった、という細見の思いが、この瞬間にあふれだしている。
これは悪いことではない。きっと、いいことだ。
ことばに出会う。そのことばを対象から切り離し、自分自身のものにしてしまう。そして、もういちどことばを動かしはじめる。そのときに「詩」は誕生する。「詩」とは普通とは違ったことば、それまで持っていた意味のことばでなくなる瞬間のことである。普通の意味を失い、詩人独自の意味をになわされるとき、そのことばは「詩」になる。
ことばを復唱する。そのとき、どんなことが起きるのだろうか。ことばを発した人のことがよくわかるようになるのだろうか。それとも逆にことばを復唱することで、自分自身のなかにあるものがひっぱりだされるのだろうか。
細見の場合は、どうだろうか。
いきつけのメガネ屋の天守は一種独特の話し方をする。
「残酷なことを言うようですが」とか
「屁理屈に聞こえるかもしれませんが」とか
「誤解をまねく言い方をあえてしますと」などと
話のまえにそのつど枕言葉のように差し挟みながら
淀みなく語りつづけるのである。
この店主のことばを引用し、細見は繰り返す。そして、そのことばがなぜ発せられたのか考えはじめる。そのときの、こころの動き。--それは「残酷なことを言うようですが」、そして「屁理屈に聞こえるかもしれませんが」、「誤解をまねく言い方をあえてしますと」、実は「店主の世界」とは無関係である。
それがちょっとおもしろい。
そのうえきっと彼は
見たところ私よりもずっと若いにもかかわらず
言葉を介したコミュニケーションで
すでに何度か手痛い誤解に苦しめられたことがあるに違いない。
この「あるに違いない」がいいなあ。「違いない」という念押しがいいなあ。念押しは細見自身が納得するためのものである。
「違いない」がもし書かれていなかったら、これは「散文」というか、小説の文章である。「違いない」という念押しによって、そこからはじまる世界は、もう、店主の世界ではなくなる。
いくら店主を描写してみても、それは対象が先にあってそれを描写するというよりも、まで思いがあって、それに合わせて対象の描写を選択することになってしまう。(散文、たとえば小説との違いがそこに出てくる。)「違いない」と念押ししてしまったために、それ以降は「色メガネ」でのぞいた世界になる。
引用につづく行に、そのことが鮮明に出ている。
だから
ガラス張りの店舗の奥まった一角で
まるで無数の地雷の埋まった紛争地帯を歩くように
絶えず枕言葉の探知機を揺らしながら
彼は相手に言葉を差し出しつづけているのだ。
「だから」と書いているが、「だから」の順序が普通の散文とは逆である。これこれの事実がある。「だから」これこれに違いない、というのが一般的な推測の仕方である。細見は逆に、これこれに「違いない」。「だから」これこれのことが観察される。これは「実証」ではなく、推測にあわせて「現実」を選択しているにすぎない。「違いない」という推測をもとに、「だから」ということばにつなげることができるものだけを選択しているにすぎない。
細見は「違いない」と言ったときから、もうすでに現実を選びとっている。その現実は店主の現実というより、細見のこころの現実である。店主をこんなふうにとらえたい、というこころの現実である。
「言語の暴力」とか「ディスクールのもつ浸透性」とかいうことばが出てくるから言うのではないが、細見はそういうものへのあこがれがあるのだろう。だから、やすやすと、その「浸透性」に身を任せてしまう。
これは屁理屈に聞こえるかもしれない。
あえて誤解をまねく言い方になるかもしれない。
けれど
彼こそはこの町にくらしているひとりの詩人ではないか、と私は思う。
店主のことばに含まれる「詩人性」を細見は発見する(?)ふりをしながら、細見自身が「ひとりの詩人ではないか」と誰かに思われる瞬間を待っている。
店主のことばを詩人と結びつけることで、細見は細見の書いたものを「詩」と密接に関連づけようとしている。もっと簡単に言えば、細見は、店主のことばをつかって「詩」というものを書きたかった、「詩」書くことによって「詩人」になりたかった、という細見の思いが、この瞬間にあふれだしている。
これは悪いことではない。きっと、いいことだ。
ことばに出会う。そのことばを対象から切り離し、自分自身のものにしてしまう。そして、もういちどことばを動かしはじめる。そのときに「詩」は誕生する。「詩」とは普通とは違ったことば、それまで持っていた意味のことばでなくなる瞬間のことである。普通の意味を失い、詩人独自の意味をになわされるとき、そのことばは「詩」になる。