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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ25)

2007-05-20 23:23:50 | 詩集
 入沢康夫『「月」そのほかの詩』(1977年)。
 「かつて座亜謙什と/名乗った人への/九連の散文詩(エスキス)」。同じタイトルで1978年に一冊にまとめられる詩集の冒頭の作品。全体についての感想は詩集について触れるときに回すことにする。この詩の特徴的な部分は「八、(欠落)」というところにある。
 「欠落」とは、どういうことだろうか。
 この作品は新作ではなく、入沢がかつて書いて保存していたものを発表したものだろうか。1連ごとに別紙に書かれ、番号を振っていたが、取り出してみたら「八」の部分か欠落していたということだろうか。そうだとしても、とても奇妙である。なぜ入沢は「八」を欠落させたまま発表しようとしたのか。入沢自身が書いたものなら「八」はそっくりそのままではなくても、ある程度似通った形で復元できるのではないのか。なぜ復元しないのだろうか。完全な形に復元できないまでも、どのようなことが書いてあったか補注くらいは書けるような気がするが、そういうこともしていない。なぜだろうか。
 「欠落」は「欠落」しているのではなく、入沢が意図的に「欠落」をつくりだしているのではないだろうか。「欠落」こそが、実は、この作品の「詩」の根源なのではないか。
 「欠落」はなぜ必要か。読者に想像させるためである。「八」の部分があったと想像させるためである。
 「八」はあると想像するときにのみ実在する。疑えば、実在しなくなる。
 そして、この想像と実在の関係は、入沢の書いているすべてのことばについてあてはまる。
 「座亜謙什」ってだれ? そう名乗った人間がほんとうにいたのか。
 入沢の書いている詩--そこに書かれていることは、すべて想像しなければならない。「事実」はどこにも書かれていない。入沢のことばを読んで、それが指し示すものを想像するとき、入沢の世界は読者の頭の中で具体的になる。ことばで表現さこれているあらゆるものは、想像しなければ実在しない。想像するときにのみ実在する。

 詩は、ことばである。そして、そのことばは、読者が想像するとき、つまり、書かれたことばに読者自身の体験からひっぱりだした何かを付加するときにのみ具体的になる。作者が書いたことばを「正しく理解する」というよりも、自分自身に引きつけ、そこに書かれていることが自分の感じていることだ、思っていたことだ、体験したことだと「誤読」したときにリアリティーのあるもの、実在世界をとらえたものとなる。

 「八、(欠落)」は、「誤読」されることを待っているのだ。
 そしてこの「誤読」は、「欠落」は「欠落」ではなくほんとうは「あった」という「誤読」の形をとるのではない。読者が「欠落」の部分をつくりあげる--「一」から「九」までの散文詩を読むことで、「八」にふさわしい散文詩を読者自身でつくりあげ「実在」するものとして実感することを指す。
 読者が読者自身のことばで「八」を捏造(?)するとき、この詩ははじめて「九連」になる。 

 という私の感想・批評も実は「誤読」である。私は、そんなふうにしてこの詩を読みたい。私の、そんなふうにして読みたいという気持ちが「八」をそうとらえるだけなのだ。私の「誤読」があぶりだされている。
 「誤読」であるから、もとより、「正解」とは無縁である。その「正解」とは無縁な場に詩のエネルギーがある。
 と、思うからこそ、私は、次回は同じタイトルの詩集をもっともっと「誤読」してみたい。どこまで「誤読」できるか、「誤読」をつみかさねてみたい。書きながら、そう思った。
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豊原清明「帰郷は今か(一)」「帰郷は今か(二)」

2007-05-20 21:43:03 | 詩(雑誌・同人誌)

 豊原清明「帰郷は今か(一)」「帰郷は今か(二)」(「火曜日」90、2007年05月31日発行)。
 豊原清明は中原中也を題材(?)にさまざまな場で詩を書いている。今回の2作品にも中也が出てくる。
 「帰郷は今か(一)」の書き出し。

ひとり村の中で
笑っていた山羊のひとは
時々、泣きながら
写真の兄弟に向かって
ささやいている
昨日、僕は母とケンカ別れした。
人生の青い背中を見ながら。
山羊のひとは
一人、嗚咽していたらしい。
今、僕は落ち込んでいるのだ
母の帰りを待つのは
中止します。

 豊原のことばを「詩」にしているのは1行ずつの独立性である。1行1行が前の行とは独立したメロディーとリズム(音楽)を持ちながら、つながったとき、また新たな音楽になることだ。

昨日、僕は母とケンカ別れした。
人生の青い背中を見ながら。

 というような、豊原自身の「過去」を現在に噴出させ、中也(山羊のひと)と向き合うとき、時間の広がりが、過去-現在-未来と一直線になるのではなく、三つの時制が立体的に重なり、「世界」そのものになる。中也と母、豊原は別々の時間を生きているのに、その別々の時間の区別がなくなる。和音のように溶け合う。

母の帰りを待つのは
中止します。

 この2行の場合に、「中止します」ということばの音が不思議に刺激的である。「母の帰りを待つのは/やめます。」としても「意味」は同じだが音楽が違ってくる。詩は「意味」ではなく、音楽なのだとつくづく思う。

 「帰郷は今か(二)」の後半。

しかし嗚呼
人は中也サンのため息に
恋しているのです。
中也サンは写真の肖像で
ぎゅっ~ッと唇、締めていた。
しかし、今、ふんわーりと口をあけ
笑うのかい?と思うと
欠伸して帰っていった

中也サンには
かなしい人でいて欲しい

 この1行ごとの独立性は豊原ならではの世界だろう。
 最後の「かなしい」もいいなあ、と思う。「哀しい」「悲しい」ではだめなのだ。「愛しい」が含まれているのだ。絶対にひらがなでなければつたえられない「かなしい」がここにある。
 「ため息に/恋している」とは、この「かなしい」の別の表現である。
 豊原のことばはの底には日本語の「歴史」がどっしりと広がっている。

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