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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

犬童一心監督「黄色い涙」

2007-05-06 23:57:21 | 映画
監督 犬童一心 出演 二宮和也

 1960年代、クーラーはなかった。夏は暑かった。その夏の光がとても美しい。クーラーが吐き出す熱気がないということは、こんなに空気が透明で美しいのか、ということを思いださせる映像だ。照明の力か、カメラの力かわからないが、映し出される空気の透明さにこころが震える。この映画の主役は「空気」だ。(映画館は主演の「嵐」5人組が目当ての若い女性でいっぱいだったが、おそらく彼女たちはこの透明な空気を知らないだろう。)
 「空気」とは、また人と人との関係でもある。(「場の空気が読めない」というときの「空気」は人間関係の微妙な揺らぎを指す。)1960年代は人のわがままが「空気」を汚していなかった。隣の人が何を感じ、何を考えているのかを、すーっと伝えてしまう透明な「空気」にあふれていた。そういう「空気」があらゆるシーンにあふれている。たとえば喫茶店のマスターがたばこをふかす。それを見ている二宮とウェーター。たとえば食堂の親父が下ごしらえをしている。それを見る「嵐」のひとり。そういう場面に。
 「空気」に不純な汚れがないので、暑い夏も暑くはない。クーラーがなくても暑くは感じない。暑いのだけれど、クーラーが欲しいとは思わない。肉体が欲する快楽よりも、こころが欲するものの方が大きかった。たぶん青春そのものが夏よりも熱かったのだ。時代そのものが「青春」だったのかもしれない。夢を見ること(生意気をいうこと、とはずいぶん違う--ということが、この映画では丁寧に描かれている)に夢中で、その夢中なエネルギーが空気中に発散され、それが空気を洗浄し、暑さを吹き飛ばす感じだ。
 「嵐」の5人組は名前もわからないが、二宮和也はいい役者だ。
 目が透明である。その目の透き通った感じが、表情全体を透明にさせる。肉体そのものを透明にする。その透明さの中を人が通り抜ける。人と人とがぶつかりあうのではなく、交互に相手の中を通り抜ける。そんな感じを、他者をすーっと受け入れる透明な広がりを具現化している。二宮の体を通り抜けた仲間たちは、二宮を裏切ることはない。そういう「青春」の、一瞬の「宝物」のような時間を具現化している。



 犬童一心監督は、透明な青年をとてもうまく映像化する。「ジョゼと虎と魚たち」「メゾンド卑弥呼」でも、その人間像の透明さ、すべてを受け入れ、なおかつ輝き続ける美しい人間を描いていた。今回も、その特徴が輝いている。
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入沢康夫と「誤読」(メモ14)

2007-05-06 22:43:38 | 詩集
 入沢康夫『季節についての試論』(1965年)。
 「季節についての試論」は、「誤読」を誘う文体で構築されている。

季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容であり
青い猪や白い龍に殺された数知れぬ青年が 先細りの塔の向
うの広い岩棚の上にそれぞれの座をかまえて ひそかに ず
んぐりした油壷や泥人形 またとりどりの花を並べ 陽に干
していると虚しく信ずることも それならばこそ 今や全く
自由であろう 支配者の遺体を模して束ねられた藻や藁を焚
き こうすることで 古い春と その記憶を追い立て 生命
と受難の観念を あえて声高に語ることによつて いつそう
深く地中に埋め 窒息させ 二度と生え繁ることのないよう
にと しきりに祈る彼らであつてみれば 彼らは 当然 世
界の屍臭を むしろ身にまとうに足る芳香であるとことさら
に誤認し 見せかけだけの儀式の力で この卑劣な狂躁を永
遠のもの 地表を蔽ううまごやしとおなじく 四季による消
長はありながらもついに不滅な 一つのいとなみとしようと
欲するが この作られた愚かさ この水平な堕落は 単なる
偶然の所産 あるいは 監視者の怠慢としてかたづけること
はできない

 うねるような文体。主語と述語の関係があいまいである。たとえば「季節に関する一連の死の理論は」から「今や全く自由であろう」までの文において、「主語」はどれだろうか。「述語」は何だろうか。(このパラグラフ全体の主語は何だろうか。)
 「数知れぬ青年」が「主語」だろうか。「自由であろう」が「述語」だろうか。簡略化して言えば、「青年」(主語)が「信じることも」「自由であろう」(述語)になるのだろうか。(途中に出てくる「彼ら」と「青年」は同じ存在であり、それが全体の主語だろうか。)
 その場合「季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容であり」は何になるのだろうか。修飾節? 何の? 考えはじめると混乱する。「季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容であり」という魅力的な1行、しかもタイトルの「季節についての試論」そのものを含んでいるようなこの1行は一体なんなのか。「……であり」という文は、ふつうは「……でもある」、あるいは「……ではない」というふうにくくられるものだが、ここには「……でもある」「……ではない」は欠落している。何かが欠落したまま、ことばが動いている。
 「青年」(主語)が「信じることも」「自由であろう」(述語)においても、大きな欠落がある。「信じることも」の「も」は何と比べての「も」なのだろうか。「も」に先立つありようが書かれていない。欠落している。
 さらにパラグラフの最後まで進むと「かたづけることはできない」となるのだが、このとき、また「主語」がわからなくなる。「青年」だろうか。
 「青年」ではなく、「人」(読者、作者、詩人)ではないのか。このパラグラフのことばを共有する人間全体が主語なのではないのか。ほんとうの「主語」は書かれていない。肝心のことは書かれていない。書かれていないけれども存在するもの。ことばを動かす力、ことばを受け止める力としての「人間」が想定されており、それがほんとうの「主語」なのではないのか。最大の欠落は、ことばとともにある「人間」という「主語」ではないだろうか。

 一方、パラグラフ全体を見渡すと、「こうすることで」「その記憶を追い立て」「この卑劣な狂躁」「この作られた愚かさ」「この水平な堕落は」という文がある。「こう」「この」「この」「この」。先行することばを指し示す。あるものを欠いたまま、別のものは執拗に維持し続ける。欠落があるからこそ、いま、ここにあるものを必死に持ち続けようとする。
 「欠落」と「維持(持続)」が複雑にいりくみながら一つの文体をつくっている。世界をつくっている。「欠落」を覆い隠すようにして、ことばが維持(持続)されている。
 このことばの維持・持続は第2のパラグラフ以降にも次々と出てくる。

     今日においてなお みずからの畑に撒くための小
石と水を死者たちに求め その成就

 という形で出てくる「その」。
 さらに「これをかならずしも喜ばぬ者の心臓を」の「これ」。「それを追立てる」の「それ」。「その遥か奥に」「その背後」「その片鱗」「その実体」(以上第2パラグラフ)。
 「それを認める」「そのとき」「それというのも」「この願い」「その容器」「その時」(第3パラグラフ)。

 これらのことばは、そして明確に先行することばを指すわけでもない。第1パラグラフの一部。

       支配者の遺体を模して束ねられた藻や藁を焚
き こうすることで 古い春と その記憶を追い立て 生命
と受難の観念を あえて声高に語ることによつて 

 「その」記憶は「支配者」の記憶か、「古い春」の記憶か。答えはあるのだろうけれど、即座にはわからない。あいまいさを利用して、ことばは動いている。

 第2パラグラフでは、さらにおもしろい動きをする。

     今日においてなお みずからの畑に撒くための小
石と水を死者たちに求め その成就 つまりは与えられたも
のとしての災厄が 平らな屋根屋根の上で月の炎を消し 赤
や黄の星を深く犯すことを ついには可能にしようとし

 「その成就」の「その」には先行することばが見当たらない。そして「その成就」はそれにつづく「つまりは」以下で言いなおされている。先行するものが欠落したまま、その欠落を別のことばで補っている。
 この詩を成り立たせているのは次々に動いていくことば、ことばの運動そのものである。
 ことばが動くとき、それを動かす人間がおり、また同時にそのことばを受け止める人間がいる。ことばを発する人間とことばを受け止める人間のあいだで、ことばう動く。そして、そのあいだを埋めるのは「正しい認識」ではなく、たぶん「誤読」なのだ。
 様々なものが欠落する。その欠落を利用して、ことばを受け止める人間は、その欠落の中へ自分自身の「夢」のようなものを放り込む。そういう仕方で成立する「文学」というものがある。あるいは「文学」は常にそういうふうにして成立し、継承される--そうした姿を入沢は思い描いている。


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