監督 犬童一心 出演 二宮和也
1960年代、クーラーはなかった。夏は暑かった。その夏の光がとても美しい。クーラーが吐き出す熱気がないということは、こんなに空気が透明で美しいのか、ということを思いださせる映像だ。照明の力か、カメラの力かわからないが、映し出される空気の透明さにこころが震える。この映画の主役は「空気」だ。(映画館は主演の「嵐」5人組が目当ての若い女性でいっぱいだったが、おそらく彼女たちはこの透明な空気を知らないだろう。)
「空気」とは、また人と人との関係でもある。(「場の空気が読めない」というときの「空気」は人間関係の微妙な揺らぎを指す。)1960年代は人のわがままが「空気」を汚していなかった。隣の人が何を感じ、何を考えているのかを、すーっと伝えてしまう透明な「空気」にあふれていた。そういう「空気」があらゆるシーンにあふれている。たとえば喫茶店のマスターがたばこをふかす。それを見ている二宮とウェーター。たとえば食堂の親父が下ごしらえをしている。それを見る「嵐」のひとり。そういう場面に。
「空気」に不純な汚れがないので、暑い夏も暑くはない。クーラーがなくても暑くは感じない。暑いのだけれど、クーラーが欲しいとは思わない。肉体が欲する快楽よりも、こころが欲するものの方が大きかった。たぶん青春そのものが夏よりも熱かったのだ。時代そのものが「青春」だったのかもしれない。夢を見ること(生意気をいうこと、とはずいぶん違う--ということが、この映画では丁寧に描かれている)に夢中で、その夢中なエネルギーが空気中に発散され、それが空気を洗浄し、暑さを吹き飛ばす感じだ。
「嵐」の5人組は名前もわからないが、二宮和也はいい役者だ。
目が透明である。その目の透き通った感じが、表情全体を透明にさせる。肉体そのものを透明にする。その透明さの中を人が通り抜ける。人と人とがぶつかりあうのではなく、交互に相手の中を通り抜ける。そんな感じを、他者をすーっと受け入れる透明な広がりを具現化している。二宮の体を通り抜けた仲間たちは、二宮を裏切ることはない。そういう「青春」の、一瞬の「宝物」のような時間を具現化している。
*
犬童一心監督は、透明な青年をとてもうまく映像化する。「ジョゼと虎と魚たち」「メゾンド卑弥呼」でも、その人間像の透明さ、すべてを受け入れ、なおかつ輝き続ける美しい人間を描いていた。今回も、その特徴が輝いている。
1960年代、クーラーはなかった。夏は暑かった。その夏の光がとても美しい。クーラーが吐き出す熱気がないということは、こんなに空気が透明で美しいのか、ということを思いださせる映像だ。照明の力か、カメラの力かわからないが、映し出される空気の透明さにこころが震える。この映画の主役は「空気」だ。(映画館は主演の「嵐」5人組が目当ての若い女性でいっぱいだったが、おそらく彼女たちはこの透明な空気を知らないだろう。)
「空気」とは、また人と人との関係でもある。(「場の空気が読めない」というときの「空気」は人間関係の微妙な揺らぎを指す。)1960年代は人のわがままが「空気」を汚していなかった。隣の人が何を感じ、何を考えているのかを、すーっと伝えてしまう透明な「空気」にあふれていた。そういう「空気」があらゆるシーンにあふれている。たとえば喫茶店のマスターがたばこをふかす。それを見ている二宮とウェーター。たとえば食堂の親父が下ごしらえをしている。それを見る「嵐」のひとり。そういう場面に。
「空気」に不純な汚れがないので、暑い夏も暑くはない。クーラーがなくても暑くは感じない。暑いのだけれど、クーラーが欲しいとは思わない。肉体が欲する快楽よりも、こころが欲するものの方が大きかった。たぶん青春そのものが夏よりも熱かったのだ。時代そのものが「青春」だったのかもしれない。夢を見ること(生意気をいうこと、とはずいぶん違う--ということが、この映画では丁寧に描かれている)に夢中で、その夢中なエネルギーが空気中に発散され、それが空気を洗浄し、暑さを吹き飛ばす感じだ。
「嵐」の5人組は名前もわからないが、二宮和也はいい役者だ。
目が透明である。その目の透き通った感じが、表情全体を透明にさせる。肉体そのものを透明にする。その透明さの中を人が通り抜ける。人と人とがぶつかりあうのではなく、交互に相手の中を通り抜ける。そんな感じを、他者をすーっと受け入れる透明な広がりを具現化している。二宮の体を通り抜けた仲間たちは、二宮を裏切ることはない。そういう「青春」の、一瞬の「宝物」のような時間を具現化している。
*
犬童一心監督は、透明な青年をとてもうまく映像化する。「ジョゼと虎と魚たち」「メゾンド卑弥呼」でも、その人間像の透明さ、すべてを受け入れ、なおかつ輝き続ける美しい人間を描いていた。今回も、その特徴が輝いている。