林嗣夫
「幻の花」「冬の蜘蛛」(「兆」133、02月05日発行)。
林嗣夫「幻の花」は教室で十進法について人間の指が5本ずつあることが基礎になっていると説明したあと、林がふいに思いついたことを書いたものである。
林は「気づいた」ことから出発して、ことばを動かしていく。その動きをそのまま「詩」として提出する。五本の指はしだいに「人差指」へと収斂していく。最後の2連。
林のことばは「結論」にたどりつかない。それは「結論」が「詩」であるのではなく、ことばが動く過程が「詩」だからである。何かに「気がつ」き(1連目の最終行)、ことばをつかって「考え」る(最終連の1行目)。気づき、考えること、そのときことばが動くことが「詩」なのである。
「どうどうめぐり」ということばが何回か出てくる。「どうどうめぐりをしながら待ちつづけたい」と林は書く。ここに林の「詩」に対する姿勢がくっきりとあらわれている。何かに気づき、考える。そのときことばはすぐには結論には到達しない。ただどうどうめぐりを繰り返す。だが、林は知っているのだ。そのどうどうめぐりをしながら待っていれば、いつか、何かが、ふっとそのことばの奥から浮かび上がってくる。それは浮かび上がってくるまで待つしかないものなのだ。ほんとうの「詩」は、そうやって浮かび上がってくるもののなかにこそある。むりやり引き出したりはできない。
作品を何篇も何篇も繰り返し書く。そのときも、ことばはどうどうめぐりをしている。「結論」はあらわれはしない。だが、そのどうどうめぐりをするということ、そうやって待つということのなかに静かに育ってくるものがある。そういうものを林は大切にしている。
「冬の蜘蛛」の2連目は、そういう林の姿勢を象徴的に描いている。
繰り返される「のか」。疑問。林は、何かに気づき、それについて何度も何度も考える。考えるということは「のか」を繰り返すこと。疑問を繰り返すこと。この詩のなかで林は「のか」を3回繰り返しているが、林の書く作品の1篇1篇が「のか」という疑問の別の形なのである。
その疑問が、「結論」にたどりつくことはないかもしれない。「結論」と予想されるものとはまったく違うものを新しく見つけ出すかもしれない。この疑問から、なぜこの答えが? 疑問と答えの呼応が不完全なときもあるかもしれない。しかし、その不完全が、ときとして「美」であることもある。
たとえば、「冬の蜘蛛」は「のか」という疑問を繰り返し、1行あき(意識の断絶)のあと、不思議なものを引き寄せる。
林の「のか」という疑問に答えるものとはまったく違ったものがふいに出現する。そして、そのとき、疑問が「世界」という広がりを獲得する。一方に林のことばが追い続ける謎があり、一方にそういう林の考えとは無関係に別の世界(ツワブキの花)があり、それが向き合うとき、それまで追いかけてきたことばを断念し、放心に、受け入れるしかない「全体」というものが姿をあらわす。「美」という形で。破綻であり、同時に調和でもあるものが。
こうした「美」が抒情にまみれていないのは、林のことばが、つねに丁寧に林自身が気づき、考えたことを追い続けるという姿勢で貫かれているためであると思う。「つづける」ということばも林の詩には頻繁に出てくるが、つづけることが林のことばを支えているのである。
そして、こうしたことばの運動のなかで見落としてはならないものがあるとすれば、「幻の花」の最終連に、そっと書かれた「心をこめて」ということばだろう。「そして心をこめて」という1行は、林のことばの運動の方向を少しも変えることはない。心をこめようが、心をこめまいが、どうどうめぐりをすることにかわりはない。だからこそ、「心をこめて」ということばの「意味」が重要になる。書かなければならない理由がある。林はこのことばを書かずにはいられない。「心をこめて」こそが、林の「キーワード」であり、「思想」なのである。
何かに気づき、考える。--そういうことは「頭」の仕事であると普通は定義されるだろう。しかし、林は、それを「心」へと引き寄せるのである。そのために、繰り返し、どうどうめぐりをする。「心」になじませる。「心」が納得するまで、待つ。
「冬の蜘蛛」の「ツワブキの花」は、蜘蛛の姿を追い続ける「心」にこそ咲くのであり、そのとき「心」と「世界」が重なるのである。
林嗣夫「幻の花」は教室で十進法について人間の指が5本ずつあることが基礎になっていると説明したあと、林がふいに思いついたことを書いたものである。
「じゃなぜ 人間の指は五本なんだろう」
という問いを置き去りにしていることに気がついた
林は「気づいた」ことから出発して、ことばを動かしていく。その動きをそのまま「詩」として提出する。五本の指はしだいに「人差指」へと収斂していく。最後の2連。
それならば 人差指の究極の使命は何か
わたしの場合
幻の花を指す 指しつづける
ということになろうか
しかし このような思考のみちすじや願望は
結局 ホモ・サピエンスの思考形式からきている
ホモ・サピエンスの思考形式は
五本の指からきている
だから五本の指を肯定し それに夢を託する結果となる
なんだ
これは単なる循環じゃないか
どうどうめぐりしているだけではないか
でも、とわたしは職員室で考えた
繰り返し 繰り返し
そして心をこめて
どうどうめぐりをしていたい
どうどうめぐりをしながら待ちつづけたい
子本の指が
まだつかむことのなかった花を
林のことばは「結論」にたどりつかない。それは「結論」が「詩」であるのではなく、ことばが動く過程が「詩」だからである。何かに「気がつ」き(1連目の最終行)、ことばをつかって「考え」る(最終連の1行目)。気づき、考えること、そのときことばが動くことが「詩」なのである。
「どうどうめぐり」ということばが何回か出てくる。「どうどうめぐりをしながら待ちつづけたい」と林は書く。ここに林の「詩」に対する姿勢がくっきりとあらわれている。何かに気づき、考える。そのときことばはすぐには結論には到達しない。ただどうどうめぐりを繰り返す。だが、林は知っているのだ。そのどうどうめぐりをしながら待っていれば、いつか、何かが、ふっとそのことばの奥から浮かび上がってくる。それは浮かび上がってくるまで待つしかないものなのだ。ほんとうの「詩」は、そうやって浮かび上がってくるもののなかにこそある。むりやり引き出したりはできない。
作品を何篇も何篇も繰り返し書く。そのときも、ことばはどうどうめぐりをしている。「結論」はあらわれはしない。だが、そのどうどうめぐりをするということ、そうやって待つということのなかに静かに育ってくるものがある。そういうものを林は大切にしている。
「冬の蜘蛛」の2連目は、そういう林の姿勢を象徴的に描いている。
そのまん中へんに逆さにとりついて
じっとしている蜘蛛
暖かい冬日を浴びて 居眠りしているのか
もはや放射状に散開してしまった世界の底なしに向かって
落下しはじめる時を待っているのか
あるいは自分が蜘蛛であることの謎にひっかかって
巣よりも複雑な
揺れる迷路を ひとり
たどっているのか
繰り返される「のか」。疑問。林は、何かに気づき、それについて何度も何度も考える。考えるということは「のか」を繰り返すこと。疑問を繰り返すこと。この詩のなかで林は「のか」を3回繰り返しているが、林の書く作品の1篇1篇が「のか」という疑問の別の形なのである。
その疑問が、「結論」にたどりつくことはないかもしれない。「結論」と予想されるものとはまったく違うものを新しく見つけ出すかもしれない。この疑問から、なぜこの答えが? 疑問と答えの呼応が不完全なときもあるかもしれない。しかし、その不完全が、ときとして「美」であることもある。
たとえば、「冬の蜘蛛」は「のか」という疑問を繰り返し、1行あき(意識の断絶)のあと、不思議なものを引き寄せる。
はるか頭上に
黄金の
ツワブキの花を咲かせて
林の「のか」という疑問に答えるものとはまったく違ったものがふいに出現する。そして、そのとき、疑問が「世界」という広がりを獲得する。一方に林のことばが追い続ける謎があり、一方にそういう林の考えとは無関係に別の世界(ツワブキの花)があり、それが向き合うとき、それまで追いかけてきたことばを断念し、放心に、受け入れるしかない「全体」というものが姿をあらわす。「美」という形で。破綻であり、同時に調和でもあるものが。
こうした「美」が抒情にまみれていないのは、林のことばが、つねに丁寧に林自身が気づき、考えたことを追い続けるという姿勢で貫かれているためであると思う。「つづける」ということばも林の詩には頻繁に出てくるが、つづけることが林のことばを支えているのである。
そして、こうしたことばの運動のなかで見落としてはならないものがあるとすれば、「幻の花」の最終連に、そっと書かれた「心をこめて」ということばだろう。「そして心をこめて」という1行は、林のことばの運動の方向を少しも変えることはない。心をこめようが、心をこめまいが、どうどうめぐりをすることにかわりはない。だからこそ、「心をこめて」ということばの「意味」が重要になる。書かなければならない理由がある。林はこのことばを書かずにはいられない。「心をこめて」こそが、林の「キーワード」であり、「思想」なのである。
何かに気づき、考える。--そういうことは「頭」の仕事であると普通は定義されるだろう。しかし、林は、それを「心」へと引き寄せるのである。そのために、繰り返し、どうどうめぐりをする。「心」になじませる。「心」が納得するまで、待つ。
「冬の蜘蛛」の「ツワブキの花」は、蜘蛛の姿を追い続ける「心」にこそ咲くのであり、そのとき「心」と「世界」が重なるのである。