詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

上田美沙緒「かなしい夢をみた朝」ほか

2007-02-25 09:29:42 | 詩(雑誌・同人誌)
 上田美沙緒「かなしい夢をみた朝」ほか(「ムーンドロップ」8、2007年02月03日発行)。
 上田美沙緒「かなしい夢をみた朝」にとても魅力的な部分がある。

あなたのなかでかたまりがころがるおとがしてそれをきくのがすきなのだと
そうつげたらどういうかおをするだろう。
さっきまでないていたわたしが
ないたりゆうすらどうでもよかったことまできづいてくれるだろうか。

 この引用部分の3行目「さっきまでないていたわたしが」の「が」がとても印象的で、なおかつ美しい。「が」で行がおわること、そこで改行があることが、夢のように美しい。
 この「が」の内容を正確(?)に言いなおすならば「にとって」となるだろうか。漢字をまじえ、主語を補い、書き直せば「さっきまで泣いていたわたし(にとって)/泣いた理由すらどうでもよかったことまで(あなたは)気づいてくれるだろうか。」もっと意味が通りやすく言いなおすなら「さっきまでわたしは泣いていたが、わたしにとっては泣いた理由すらどうでもよかった。そのことまであなたは気づいてくれるだろうか。」
 しかし、それでは「よかったことまで」の「まで」と比較されているのは何? あなたは何に最初に気がつき、さらに「泣いた理由すらどうでもよかったこと」「まで」気がつくと願っているのだろうか。
 最初に気づくことがらは消えてしまっている。というより、そんなものは最初から存在しないのだ。
 「泣いた理由すらどうでもよかったこと」「まで」というときの、「わたし」の願いは、「泣いた理由すらどうでもよかったこと」、それにこそ気づいてほしいと願っていることがわかる。ただ、「泣いた理由すらどうでもよかった」そのことをこそ、「わたし」はあなたに気づいてほしいと願っている。「泣いた理由すらどうでもよかった」と「わたし」が同じ存在である、同等の意味を持っているということに気づいててほしいのだ。
 「泣いた理由すらどうでもよかった」は「わたし」を強調する修飾語のようなものである。「わたし」を印象づけるための修飾語である。上田は、ただ「わたし」に気づいてほしいのだ。「わたし」がここにいる、ということに気づいてほしいのだ。
 「わたしがここにいる」というときの「が」が「さっきまでないていたわたしが」の「が」にこめられているのだ。
 「さっきまで泣いていたわたしがここにいる。そして、今は泣いていないわたしにとって/泣いていた理由すらどうでもいいのではなく、さっき泣いていたわたしにとってこそ泣いていた理由すらどうでもよかった。」「それがわたしである、と、そこまで、つまりわたしの行動には矛盾があり、その矛盾がわたしであるということまで、あなたは気づいてくれるだろうか」。

あなたのなかでころがるおとがよりいっそう
そうねそのとくんとくん
とくんとくんかなでるいのちより
ひびいてくれないかと
こころまちにしているの。

 今引用した部分の2行目の「そうね」もとても印象的だ。さきほど引用した「が」と同じように、ここでは意識が往復している。「わたし」自身に対して、「そうね」と言い聞かせ、確認しているのである。何かわからないものを、「そうね」ということばで誘い出し、動かしているのである。比喩をひっぱりだし、納得しようとしている。
 ここからも浮かび上がってくるのは、「わたし」がここにいる、ということである。「わたし」がここにいる、そのことが「かなしい」理由である。「かなしみ」はここにいるわたしを、どこか(だれか)にむすびつけたいのだ。むすびつきたいのだ。そうすることでたしかな「わたし」という存在になりたいのだ。



 杉本徹「小鳥柄のうわさ」の、透明な抒情にひきこまれる。

月曜。トケイソウ。燐寸を擦ると、テーブルにうかぶ小鳥柄のうわさ。それは、ふるえる昨日に射す人影の水位、とか、急カーヴを故郷と呼んだタクシーの、遠のく螢火、とか。

 「とか」「とか」。繰り返される「とか」は意味の限定を否定している。杉本のことばは意味など求めてはいない。純粋に、それ自身として「ふるえる」ことを欲している。「故郷」というようなことばが、2007年になってもなお、こういう具合に郷愁としてふるえるようにして書かれるとは、私は夢にも想像しなかった。

コメント
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