詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石山淳『石山淳詩集』

2007-01-26 19:49:06 | 詩集
 石山淳『石山淳詩集』(トレビ文庫、2007年01月10日日本図書刊行会発行、近代文芸社発売)。
 批評精神、あるいは批判精神が印象的な詩人である。
 石山にかぎらないが、厳しいことばが「世界」に向けられたとき、ことばはしばしば肉体を見失なう。「世界」は具体的であるよりも抽象的だからだろう。相手の肉体が見えにくいために、批評する側も自分の肉体を見失なう。「頭」がことばを動かしてしまう。「世界」(対象)が巨大であればあるほど、肉体は根拠を見失ない、「頭」が冷徹になって行く。ことばから肉体の温かみが消えて行く。こうなると、おもしろくない。
 「自己菜園」は、こういう問題から免れている。視線が他者にではなく石山自身に、しかも肉体に向けられているので、おのずとユーモアが生まれる。

下顎の外側の部分
柔らかな表皮に
小豆大の突起物が
唐突として生えてきました

それはカリフラワー状の
歪な表象で笑いかけ
わたしの全神経を
瞬く間に
吸い取っていくのです

紊乱(ぶんらん)の存在は
絶えず気掛りで
手鏡を こっそり
覗き見ずにはおれません

洗顔時や
風呂上がりには
つい 指先で
局部をつまんでいて
意識下の産物となりました

 「表象」という哲学用語(?)がおかしい。吹き出物(にきび?)がそんなおおげさなものか? もっと簡単な言い方があるんじゃないの? 「洗顔時」ということばもおかしい。顔を洗ったとき(洗うとき)というような口語ではなく、「洗顔時」という文語体がおかしい。ここでは、ふつう日常でつかわれないことばが、誰もが体験するようなささいなことを描くのにつかわれている。そのギャップがおかしいのである。
 ことばが過剰につかわれている、という感じがおかしいのである。
 そうした堅苦しいこと、過剰なことばのあいだに挟まっている「こっそり」という副詞がとても温かく感じられる。「表象」などという日常ではつかわないことばが、石山の肉体を、とてもやわらかく浮き彫りにするのである。
 「こっそり」の寸前の「手鏡」の「手」がそのまま肉体の温かさを引き出す効果を上げている。これが拡大反射鏡(凹レンズ状になっていて、顔を映すと拡大する鏡--なんと呼ぶのかわからさないので、とりあえず「拡大反射鏡」と書いておく)だったりすると、それはそれでグロテスクな笑いになるだろうけれど、石山のことばはそこまでは過激ではない。ほどほどに肉体的である、「手」のように肉体と意識しない肉体程度の距離がおもしろい。

 と、ここまで書いてきて、私は思う。もし、石山のことばが、ここで「拡大反射鏡」をつかうくらい自己増殖していくものであるなら、世界へむけられた批評、批判もおもしろいものになったのではないかと思う。
 石山のことばは増えていかない。世間に流通していることば、すでに書かれたことばの範囲内にある。たとえば「メモリアル・パーク」。

二十世紀文明を象徴する
ニューヨークの世界貿易センターへ
黒いミニチュア機が 水平のまま
液状ゴムの皮膜か
チョコレート液面に
すっぽりと吸い込まれていった

それは
怪獣映画の一コマに見紛(みまが)う
スロー・モーション映像におもわれた

 「液状ゴムの皮膜か/チョコレート液面に」という独自の感覚で、つまり流通していることばからはみだした石山の過剰な部分をあらわすことばで語りはじめながら「怪獣映画の一コマ」「スロー・モーション映像」という語り尽くされた比喩に頼るようになる。そのときから、石山の肉体が排除されてしまう。「頭」のなかの世界になってしまう。何も新しいものが出てこない。
 とても残念である。

 「自己増殖」することばとは「過剰」なことばである。抽象的な批評、批判を繰り広げるときには、そういうことばはいらない。そういう余分なものは、抽象的な論理を邪魔してしまう。事件を検証するときの現場でなら、「液状ゴムの皮膜」「チョコレート液面」なんて正確なことばじゃない。ガラスとコンクリート、鉄骨でできているのに、何がゴム、チョコレートなのか、と、完全に無視されてしまうだろう。そういうことばは排除されてしまうだろう。
 ところが詩では違うのだ。文学では違うのだ。
 「液状ゴムの皮膜」とか「チョコレート液面」ということばは、石山の肉体、視力や皮膚感覚を伝える貴重なものになる。体験を語ることばになる。9・11テロを目撃した瞬間の違和感、いったい何が起きたのかわからないという、そのわからなさをそのまま伝える大切なことばになる。
 「世界」や「事件」は何が何だか、すぐにはわからないものである。わからないから混乱する。頭が混乱すると同時に肉体も混乱する。そのときの混乱を正確につたえることばが文学、詩なのである。「液状ゴム」も「チョコレート液面」も、やがて「頭」で整理され、脆弱なコンクリート、ガラス、鉄筋、現代文明の華奢なはかなさというようなことばに収斂していくだろう。しかし、そういうものに収斂させてしまってはいけないのである。「頭」に収斂され、整理されることばを肉体の方に取り戻し、肉体という場で強暴なウィルスのように増殖させなければならない。それが強暴に増殖すればするほど、「頭」は肉体をばかにするだろう。何を言っているんだ、コンクリートとガラス、鉄筋と何度いったらわかるんだ--というような批判が強くなるだろう。しかし、それでも「液状ゴム」「チョコレート液面」ということばを増やしていかなければならない。そうしなければ、石山の肉体が見たもの、その感覚が消えてしまう。世界が、そうして石山の肉体が見たものを失なった分だけ貧弱になっていく。

あれから 半年がきて
「受難の聖地」に
今も 人間が生き埋めになっている

 こういう終わり方はテレビニュースの代弁に過ぎない。
 こうしたことばを叩き壊し、「頭」からことばを肉体に奪い返さないかぎり、どんなに批判してみても、そのことばはテロリストには届かないだろう。テロリストの肉体を刺激しないだろう。もちろんテロリストの「頭」にも刺激を与えないだろう。
 「液状ゴム」「チョコレート液面」というような、石山の肉体に即したことばをもっともっと過剰に、過激に増やしていってほしい。そういう石山の肉体に根差したことばで書かれた批評、批判を読みたい。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする