goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「胃底部の白雲について」(再び)、白石かずこ「逢いにいったゴビに」

2007-01-05 22:40:48 | 詩(雑誌・同人誌)
 岡井隆「胃底部の白雲について」(再び)、白石かずこ「逢いにいったゴビに」(「現代詩手帖」2007年01月号)。

 きのう岡井隆の詩を読みながら書いたことは、岡井の詩の魅力をまったく伝えていないのではないか、という気持ちがだんだん強くなってくる。
 岡井の詩のいちばんの魅力は音の美しさにある。「胃の底部にしづかに白雲が沈んでゐて」の不思議な響きは「し」のくりかえし「い」の響きあいというふうに説明(?)しやすいので、どうしてもそういうことを書いてしまうが、ほかの行もすべて美しい。口にやさしいというか、のどにやさしいというか、口蓋をはつらつとさせるというか、魅力的である。私は詩を読むとき声に出して読むことはないけれど、無意識に舌や声帯が動いているのだろう、ある詩ではとても読み終わったあとのどが疲れるが、岡井の詩にはそういう疲れがない。逆に口が軽くなる印象がある。
 2行目の「今朝はその雲が話題を独占した」。何気ない1行に見えるけれど、リズムがとてもいい。イントネーション変化も魅力的だ。3行目の「語られなくなつたねイラク といつて」の「といつて」の音、「イラク」と「といつて」のあいだの1字空き、その一呼吸の気持ちよさ。--こういう気持ちよさを、どう表現していいのか、私は知らない。ただ気持ちがいいとしかいいようがない。
 2連目1、2行目。「世界にはなんと六七八四もの言語があるが/そのうち二週間に一つの迅さで絶滅していくんだつてきくと心強くて」。これがたとえば「世界には六七八四もの言語があるが/二週間に一つの迅さで絶滅していく。そうきくと心強く」だとすると、その「論理上の意味」はかわらないのに、リズムが消えてしまう。のどがとても疲れる。「なんと」という軽い驚きの声、「そのうち」という先行することばを受けることばの軽さ、そして何より、「……ときくと心強くて」の一気のたたみかけ。これがのどに、そして耳にやさしい。散文の論理(?)では1行目と2行目を結ぶ「そのうち」はなくても意味はかわらないし、「……ときく」でいったん文を閉じた方が意味は明確になる。「……ときくと心強くて」と連続して次の行にわたってしまうと、先行する絶滅する言語のことより「心強くて」という気持ちの方が前面に出てきて、意味がぼやけてしまう。それなのに、というか、それゆえというか、私が仮にこころみた文体よりも岡井のオリジナルの文体の方が、はるかに魅力的である。気持ち(心強くて)と肉体(のどや耳の感覚)がぴったりくる。
 岡井は「論理」ではなく、「気持ち」を前面に出しているのだ。そして、その「気持ち」とは肉体と深く結びついているのだ。
 この論理よりも肉体という感じは、「そのうち二週間に一つの迅さで絶滅していくんだつてきくと心強くて」の「きく」ということばにも象徴的にあらわれていると思う。この「きく」は実際にだれかが発言している声を「聞く」ときの「聞く」ではない。伝聞として「知る」、認識するという意味である。それを聴覚を前面にだすことによって、無意識のうちに、その認識が「頭」というよりも肉体で知ったものという印象を残す。無意識のうちに肉体が刺激される。
 口語ではなく「しやべり言語」、話すではなく「しやべる」、伝聞では「絶滅」ではあっても岡井自身のことばでいうときは「おだぶつ」。肉体がそこにあるときの、口調、耳で聞いた音(意味というより、音が先行することば)。岡井は常にことばを肉体で動かしているのだ、という印象が強い。それがとてもおもしろい。
 その一方、岡井は「沈んでゐて」「なつたね」「やうに」と旧かなで表記する。「頭」でことばの本来の動きを認識しながら、音はあくまで現代に即している。肉体が存在する範囲だけで認識を終わらせるのではなく、頭で辿れる部分はどこまでも頭で辿る。明確にする。
 その強靱な(ということばしか思いつかないが)精神があって、岡井のことばは、イラクへもバッファロオへも中村憲吉の歌へも自在に飛び回る。自在に飛び回って、それを頭だけのできごとではなく、肉体の場へまで引き寄せる。そして、そこに不思議な、はつらつとした世界を繰り広げる。日本語が「滅びるかも知れんのだ」と言いながら、その声が、なんといえばいいのだろうか、しんみりした感じではなく、高らかな(?)怒りのように聞こえてくるのだ。
 私は詩の朗読には関心がないが、こういう岡井の作品のような詩に出会うと、これは朗読で聞いてみたいなあと思う。きっと黙読したときより生き生きとことばが動いている感じがすると思う。



 白石の作品も朗読で出会った方がおもしろいのでは、と思う。ただ、その「おもしろさ」は岡井の詩に感じるおもしろさとはかなり違う。

50年をポケットに入れ、ヤン・リアン、フォスター、田原、樹才(シューサイ)、
エリオット、
だがあの男は いなかった
ジンギスハーンの眼玉を洗い
心臓をなめていたカオス
シャーマンは どこにいるのか
モンゴルの風は コトバたちを粥にまぜ
人々の心臓と記憶を うまく織物にまぜ
それを着ると うたいだすのだ

 このリズムはだれにでも声にできるリズムではない。こういう詩は、作者の肉体が目の前にあって、そこで声を聞くときに動きだすものだ。「芝居」と同じように、肉体を見せるためのことばである。
 「精霊」ということばが白石のこの詩には出てくる。(魂とかスピリットとかいう表現も、たの作品に出てくるが。)その「精霊」は、私のことばで言えば「肉体」になる。触れるもの、具体的なものである。「芝居」において、ことばは次々に消えていくのに、役者の肉体はいつもいつも目の前にある。それと同じように、白石の詩においては、肉体はいつも目の前にある。「精霊」はその「肉体」の動きそのものである。「眼玉を洗い」の「洗う」、「心臓をなめていた」の「なめる」。
 さらには、次の部分。

 わたしは手さぐりで眠りの中でさえ あの砂嵐が脳髄を行き来するのを見、きくのだ。

 この「見る」「きく」。それは肉眼で見て、頭の両側についている耳で聞くのである。それが肉体であるからこそ、というか肉体と呼んでしまうと、論理上「矛盾」してしまうから、それを「精霊」と呼ぶことで、白石は「論理」を成り立たせているように思える。(こういう「矛盾」のなかにこそ、「思想」がある。)

 さらには。

わたしは幼年の年齢を加算し ようやく
きみの年齢に達する わずか三十年たらず
だというのに そこに達するのに
三百年かかったのだ そう 生まれる前から
わたしの精霊は いたのだろうネ

 これは三百年前からわたしは肉体として存在していた。いまの肉体になる前は別の肉体だったが、それもほんとうはわたしの肉体だ。肉体そのものに会ったのだ、といっているように私には思える。
 「精霊」ではなく生身の肉体が時空を超えるから「詩」になる。「精霊」が時空を超えるというのでは「ファンタジー」にすぎない。白石のことばは「ファンタジー」ではなく、「詩」である。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする