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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

現代詩文庫1048『杉山平一詩集』(その1)

2006-12-24 01:24:36 | 詩集
 現代詩文庫1048『杉山平一詩集』(思潮社、2006年11月02日発行)
 杉山平一は映画が非常に好きである。詩にその影響がとてもよくあらわれている。たとえば「橋の上」。

橋の上にたつて
深い深い谷川を見おろす
何かをおとしてみたくなる
小石を蹴ると
スーツと
小さくなつて行つて
小さな波紋をゑがいて
ゴボンと音がきこえてくる
繋(つな)がつた!
そんな気持でホツとする
人間は孤独だから

 映画のシーンのように映像が次々に動いていく。橋。橋から見下ろした谷川。小石。落ちて行く。小さくなる。川に落ちて波紋をひろげる。音が谷川から立ち上ってくる。カメラの動きが見えるようである。
 杉山のオリジナリティーは、そうした映画的映像を「繋がつた」と強く認識することである。「繋がつた」が杉山のキーワードであり、「詩」である。
 映画の映像は繋がっているようで実は繋がっていない。断片が次々にあらわれるだけである。それを「つなぐ」のは実は見ている人間の意識である。映像がつながるのではなく、人間の意識が映像をつなげるのである。
 詩を読み返すと、そのことがよくわかる。3行目の「何かおとしてみたくなる」。ここには映像にならないものがある。「おとしてみたくなる」という「気持ち」(10行目に「気持ち」ということばが出てくる。)感情。こころ。それがあってはじめて映像の断片が統一される。
 そして、この映像の断片が連続性にかわる一瞬の杉山のこころの動きが独特である。「繋がつた!/そんな気持ちでホツとする」。断片がつながり連続性を持つとき、その連続性ゆえに杉山は安心する。なぜか。
 「人間は孤独だから」。
 杉山は映像の断片に人間の孤独に通じるものを見ているのだ。
 映像の断片がつながり、一つの世界を浮かび上がらせるように、人間の孤独は他の孤独とつながり、一つの世界を浮かび上がらせる。それが「詩」である。「詩」とは人間の孤独と孤独がつながっていく世界なのである。

 この「つながり」(連続性)を「機械」という詩は別のことばであらわしている。

 古代の羊飼ひが夜空に散乱する星々を蒐めて巨大な星座と伝説を組みたてて行つたやうに いま分解された百千のねぢと釘と部品が噛み合ひ組み合はされ 巨大な機械にまで折衝するのを見るとき 僕は僕の苛だち錯乱せる感情の片々が一つの希望にまで建築されてゆくのを感ずる   (谷内注・「組みたてて」の2度目の「て」は原文は送り文字)


 断片が組み立てられ建築されてゆく。そして、そのことばと向き合っている「分解された百千のねぢと釘と部品」。世界は、部品に(孤独に)分解することができ、同時に、その部品(孤独)を組み合わせることで世界を建築することができる。この分解と建築の関係が杉山にとっての「詩」である。
 なぜ世界を分解し、そしてもう一度建築しなければならないのか。
 それは感情を明確にするためである。あるいは「希望」を鮮明にするためである。
 世界はいつでも完成している。しかし、その完成された世界は、人の眼には、あるいは感情にはいつでも鮮明とは限らない。むしろ逆によくわからないものである。その不明確な世界の構造を明確に認識するために、世界は分解され、再び建築されるのである。
 そして、そのとき重要な働きをするのが「感情」である。こころである。世界がどんなふうに分解され、同時に建築され直すのか。その連続性(つながり)の背後に感情があらわれる。
 そうした世界のありようを杉山は描いているのだと思う。



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