詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)太田大八(絵)『詩人の墓』

2006-12-04 23:17:52 | 詩集
 谷川俊太郎(詩)太田大八(絵)『詩人の墓』(集英社、2006年12月10日)。
 8月26日の日記で「詩人の墓」の感想を書いた。「現代詩手帖」で読んだときの感想である。その詩に太田大八の絵がついて「絵本」になった。絵本になることによってまったく印象が違ったことばがある。

「何か言って詩じゃないことを
なんでもいいから私に言って! 」

 この2行が違ってみえてきた。最初に読んだときも今も「詩じゃないこと」が「詩」と響いてくるのは同じだが、「現代詩手帖」で読んだときは「私に言って! 」を軽く読みとばしていた。大切なことばとして印象に残らなかった。ところが「絵本」になってみると、「私に言って! 」が痛切に響いてくる。「詩じゃないこと」に「詩」があるという印象はかわらないが、それよりもっと強い「詩」が「私に言って! 」にはある。「私に言って! 」こそが、この作品の「詩」なのだと思った。

 「詩」はだれに対して書かれているのだろうか。読者に向けて書かれている。ほとんど無意識に私はそう考えている。読者が読んだとき、あることばが「詩」になる。作者の意図(精神や感情)とは無関係に「詩」になってしまうことがある。書かれた瞬間からことばは詩人の手を離れ、読まれた瞬間からことばは読者のものになる。そして読者が必要とするなら、それがどんなことばであるにしろ、それは「詩」である。
 --ほんとうに、それでいいのだろうか。

 「詩」はだれに対しても開かれている。ことばを読み、そこに「詩」を感じる人すべてのものである。「詩」は詩人の所有物ではなく、「詩」を読んだものの所有物である。それが「詩」の理想の形である。
 --ほんとうに、そうだろうか。

 谷川と太田の「絵本」を読み返して、私は、今、上に書いたことは「空論」だと思い始めている。
 「詩」はだれに対しても開かれている(文学は、あるいは芸術は、だれに対しても開かれている)、というのは「理想的な姿」でも「真実」でもない。そんなものなど、だれも求めていないのだ。「私に」(私だけに)、存在していてほしい。それこそが「詩」なのだ。
 「何か言って詩じゃないことを」とは、「何か言って、だれに対しても『詩』であることではないことを」という意味である。その1行には「だれに対しても」ということばが省略されているのだ。そして、その省略された「だれに対しても」と向き合っているのが「私に」である。
 「だれに対しても詩じゃないこと」を言ってくれれば、それを「私は」私だけの「詩」として抱き締める。これは「私だけのあなたでいてほしい」と言うのと同義である。愛の告白である。「なんでもいいから私に言って! 」の「なんでもいいから」は正確には「それがなんであっても私はそれを受け入れるから、私に言って」という意味である。だれに対しても開かれていることばではなく、私だけにしか伝わらない(私だけしか受け止められない)、限りなく「私的」なことを言って、という切実な祈りなのである。だれに対しても開かれていることばではなく、私だけにしか開かれていないことば--それを抱き締めるとき(それを受け止めるとき)、詩人と私は一体になる。そこに愛がある。そう娘は告げているのだと思う。

 「絵本」を読んだとき、そうした考えが、突然わきあがってきた。
 「絵本」を読んだとき、太田の絵が、娘そのものに見えてきたのである。「私に言って! 」と叫んでいる「私」が突然見えてきて、その「私」こそが谷川のことばとまっすぐに向き合っていることがわかったのだ。
 「現代詩手帖」でことばだけを読んでいたとき、私は「娘」を忘れていた。そこに書かれているのが谷川の自画像だとばかり思っていた。
 しかし違うのだ。
 そこに描かれている「詩人」は谷川が鏡を見ながら描いた自画像ではなく、「娘」という他人が見た、「娘」だけの谷川俊太郎なのである。ある「私」だけがとらえた谷川俊太郎なのである。

 これは、谷川俊太郎から、詩を読むなら人間という抽象的な存在ではなく、たったひとりの「私」になって詩を読めという厳しいメッセージである。

男の詩はみんなに気にいられた
声をあげて泣かずにいられない詩
お腹の皮がよじれるほど笑ってしまう詩
思わずじっと考え込んでしまうような詩

人々は何やかやと男に問いかけた
「どうすればそんなふうに書けるんだい」
「詩人になるにはどんな勉強をすればいいの」
「どこからそんな美しい言葉が出てくるのかね」

 そんなふうに受け止められたものは「詩」ではない。「みんなに」ではなく「私に」だけ、「私に」しか受け止められないことば--それが「詩」であるなら、「詩」を読むとは、「私」にしか読み得ないような読み方でことばを読むことだ。そういう読み方をとおして詩人と向き合うことだ。
「私」になれ。
 そんなふうに谷川は言っているのだと思った。

 そして、私は、いま書いた私のことばのすべてが太田大八の絵によっていることを自覚しないではいられない。4行ずつのことばと向き合っている太田の絵。その1枚1枚が私の想像していたものとはまったく違う。つまり、そこには太田という完全な個人がいる。太田だけしか受け止めることのできない谷川のことばが色と形になって存在している。絵の1枚1枚が「娘」なのである。「私に言って! 」と叫んでいる「娘」なのである。これらの絵に出会わなければ、私は「私に言って! 」の「私に」を永遠に読み落としていたと思う。

 この「絵本」にはとんでもない(?)付録がついている。56-57ページの見開きに、谷川のことばはなく、ただ太田の絵がある。それは「娘」の「墓」である。つまり「娘」の完全なる「自画像」、そして、谷川のことばと向き合い続けた結果誕生した太田自身でもある。「詩人」が死んだとき、「詩人」のことばと向き合い続けた「娘」(太田)も死に、その死をとおして、新しく再生した「娘」(太田)がここにいるのだ。
 見つめていると、なぜか、どきどきしてくる。
 印刷ではなく、原画を見てみたい--そう思った。

コメント
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