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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(3)中井久夫訳

2008-12-24 00:10:20 | リッツォス(中井久夫訳)
海について   リッツォス(中井久夫訳)

誇らしいほれぼれする器用な包丁捌きで
波止場で大魚を切る。
頭と尾を海に投げる。
血が板をポタポタ伝って光る。
足も手も真赤になる。
女たちが囁き合う--、「あの赤い包丁、
あの子の黒い瞳に似合うわ、赤と黒と赤、ね」
波止場の上の狭い通りでは
漁夫の子たちが煤けた古い竿秤りで
魚と石炭の重さを計っている。



 魚を捌く少年(?)を描いている。タイトルは「海について」。海そのものというより、海とともにある生活--それを含めて、海と考えるということだろう。
 少年をみつめる「女たち」。女たちは少年よりも年上である。年上の女性の余裕が少年を冷酷に、残酷に、つまり生々しく自分たちの生活に引きつけた上で、じっくり眺めている。こうした女たちの視線はリッツォスの詩では珍しいと思う。
 そういう生々しい肉体的な感じと、同じ時間に、同じ場所で、少年たちが家の手伝いをしている別の描写も描かれる。そうすることで、海の暮らし、漁師の街の暮らしが、強い日差しの中にくっきりと浮かんで見える。
 なつかしいような、かなしいような気持ちになってくる。そのかなしみというのは、たぶん、どの国にも共通する「暮らし」に基づくものだと思う。



 この詩は、中井久夫から預かった原稿の中で、もっもと「書き直し」の多いものである。私が先に引用したものは、ワープロの文字を手書きで推敲したものである。推敲のあとのある作品である。
 手書きの推敲が入らないものを引用する。

誇らしいほれぼれする器用な包丁捌きで
彼は波止場で大魚を切った。
頭と尾を海に投げた。
血が板をポタポタ伝って光った。
彼は足も手も真赤になる。
女たちは囁き合った--、「あの赤い包丁、
あの子の黒い瞳に似合うわ、赤と黒と赤、ね」
波止場の上の狭い通りでは
漁夫の子たちが煤けた古い竿秤りで
魚と石炭の重さを計っていた。

 過去形「……した」がすべて現在形「……る」に変わっている。「彼は」という主語が省略されている。
 これはとても興味深い翻訳である。
 私は原詩を知らないのだが、「……る」と現在形にすることで、情景がなまなましくなる。そして、そのなまなましさが女たちの「ささやき」(うわさ)にぴったり合う。また「彼は」を省略することで、魚を捌いている人間の年齢があいまいになる。「彼は」という主語があったときは、たぶん「彼」を「少年」とは思わない。終わりから2行目に出てくる「漁夫の子」とは年齢の違った青年を想像するだろうと思う。女たちがうわさしている男が「青年」か「少年」かというのは、とても大事なことだ。「青年」だと、あまりおもしろくない。「ささやき」が卑近になってしまう。「少年」だと、おなじようになまなましくても、すこし距離が出てくる。そして、その距離がここに描かれている暮らしを清潔にする。

 リッツォスの詩は、私にはどれもとても清潔に感じる。そして、その清潔さは、この詩にあるような距離が生み出している。人間と人間が存在するとき、そのふたりのあいだにある「空気」の隔たり、その距離が人間の思いを洗い流し清潔にするように思われる。


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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(2)中井久夫訳

2008-12-23 10:23:11 | リッツォス(中井久夫訳)
救済の途    リッツォス(中井久夫訳)

大嵐の夜に夜が続く。孤独な女は聞く、
階段を昇ってくる波の音を。ひょっとしたら、
二階に届くのでは? ランプを消すのでは?
マッチを濡らすのでは? 寝台までやって来るのでは?
そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。
ただ一つ黄色い考えしきゃ持たない男の--。このことが女を救う。
女は波が退く音を聞く。女はテーブルのランプを見つめる。
そのガラスは少し塩が付いて曇っていませんか?



 この作品も、前半と後半が違っている。違った印象を与える。
 前半は夜の描写。後半は女の空想。しかし、よく考えてみれば、前半も女の想像力の世界かもしれない。女は波を具体的に見ているわけではない。音を聞いて、その波が襲ってくることを想像しているだけである。「そうなると」以下も、空想という点ではおなじである。同じ空想なのに、なにかが違う。なにが違うのか。
 前半は、そこにあるもの、近くにあるものを想像している。それがどんな形をしているか、どこまで迫っているかを想像している。後半は「不在」を想像している。「溺れた男」は女の近くにはいない。ここにないもの、「不在」を想像していることになる。
 「不在」を想像することが、女を救っている。女の不安をやわらげるきっかけになっている。そして、その「不在」は「非在」でもある。存在しないだけではなく、存在し得ない。「海の中」の「ランプ」はもはや「ランプ」ではない。明かりを点すことができない。けれども、その「非在」を「存在」として人間は想像することができる。海なのかで、なお、黄色い明かりを点していることができるランプというものを人間は想像することができる。なにも見えないのに、ただ、黄色い光が見える。荒れ狂う海の中に、ランプが黄色く点っているのが見える。
 あ、これは素敵だ。
 この、現実には存在しないはずの、海のなかのランプを見ることができる、その不思議さが女を救済する。人間の想像力を楽しいものにする。海の中でランプが黄色く点っているなら、女はそのランプと一緒に生きることができる。男と向き合うように、ランプと向き合って。少しばかげた(?)考えを持っている男を楽しく見つめるみたいに、ランプと向き合って見つめることができる。
 これは楽しい空想である。
 この楽しい空想の出発点の、「そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。」がとても美しい。「そうなると、」という口語が楽しい。
 最終行も、とても美しい。「そのガラスは少し潮が付いて曇っていませんか?」の「いませんか?」という口語がやわらかくて、とても気持ちがいい。

 中井の訳は、ことばが自在である。漢語も出てくるが、この詩にあるように、口語のつかい方がとても気持ちがいい。口語が、深刻な状況、危険な状況(嵐)を、かるくいなしていく。「頭」で考えると、恐怖に陥ってしまうが、「肉体」で受け止めると、なんとかなるさ、という気持ちになる。
 「頭」(知)ではなく、なにか別のものが人間を最終的に救済するのだ、という感じがする。そういうきっかけのようなものを、私は、中井のつかう口語に感じる。

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(1)中井久夫訳

2008-12-22 00:20:21 | リッツォス(中井久夫訳)
陶工    リッツォス(中井久夫訳)

壺も造った。植木鉢も。土鍋も。
粘土が少し残った。
女を造った。乳房を大きく丁寧に。
彼の心は揺れた。その日の帰宅は遅れた。
妻がぶつぶつ言った。彼は返事をしなかった。
翌日はもっと沢山の粘土を残した。翌々日はもっともっと。
彼は家に帰ろうとしなくなった。妻は彼を見限って去った。
彼の眼は燃えさかる。上半身裸。赤い腰帯を締めて、
夜をこめて陶土の女たちを練る。
明け方には工房の垣根の彼方に彼の歌声が聞こえる。
赤腰帯も捨ててしまった。裸。ほんとうに裸。
彼の周りには、一面、空の壺、空の土鍋、空の植木鉢、
そして耳も聞こえず目も見えずものも言えない美女たち、
乳房を噛み取られて--。



 寓話のような詩である。つくったものに魅せられて、そこからのがれられなくなる。ここに描かれているのは「陶工」だが、そういうことは詩でもあるかもしれない。ただ、同じものだけをつくるということが。

 この作品では、私は2行目が好きだ。2行目の「少し」ということばが。そして6行目の「もっともっと」ということばが。
 「少し」であるからこそ、逸脱してしまったのだ。最初はいつでも「少し」なのだろう。「少し」逸脱する。「少し」なので大丈夫(?)と思い逸脱する。そして、それを繰り返してしまう。「少し」から「もっともっと」への変化。その変化を、リッツォスは素早く書いている。中井は素早く訳している。
 たぶん、「もっともっと」が一番の工夫なのだと思う。
 「もっともっと」のあとには「沢山」が省略されている。省略することで、ことばにスピードが出る。そして、そのスピードにのって、ことばが加速する。加速して、逸脱していく。「陶工」が常軌を逸していく。
 この陶工の恋は狂おしい。加速するだけで、減速することを知らないからだ。1行目に出てきた「壺」「植木鉢」「土鍋」ということばをひっぱりだしてきても、もう、もとにはもどれない。逆に、「過去」によって、「いま」がさらに逸脱していることが浮き彫りになるだけである。
 この対比も、とてもおもしろい。


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リッツォス「証言C(1966-67)」より(4)中井久夫訳

2008-12-21 00:09:30 | リッツォス(中井久夫訳)
ナルシスの没落    リッツォス(中井久夫訳)

しっくいが壁から剥がれ落ちている。そこも、ここも。
ソックスとシャツが椅子の上に。
ベッドの下にはいつも同じ影。気づかれないが。
彼は裸体になって鏡の前に立った。できるだけしゃきっとしようとした。
「やっぱりだめだ」と彼はひとりごちた、「だめだ」。
テーブルの上にあったレタスの大きな葉を一枚むしって
口元に持って行き、しゃぶり始めた。裸で鏡の前に立ったまま。
自然な態度を取り戻すか、せめて芝居をしようとして。



 最後の行に詩がある。「自然な態度」と「芝居」は矛盾する。その矛盾の中に詩がある。矛盾は、それを乗り越えるとき、そこに思想が生まれるからである。矛盾は、それを乗り越えるとき、「肉体」になるからである。それがどんな形の「肉体」かはだれもわからない。その「肉体」の手がどんなふうに動くことができるのか。なにをつかむことができるようになるのか、だれもわからない。
 その、わからないものが始まる一瞬が、最後の行の矛盾に凝縮している。
 さらにいえば、「せめて」に凝縮している。
 「せめて」ということばは、矛盾したものを並列するときにはつかわない。逆に、同列のものに対してつかう。1万円、せめて5000円あれば。目標(?)があって、それにおよばないまでも、それに近く……。こういうことばは、矛盾したものを並列するときには、そぐわない。間違っている。
 けれど、「あえて」、あるいは「わざと」、そう書くのである。そのとき、矛盾が、かけ離れた存在ではなく、とても近いものになる。ほとんど融合しそうなものになる。そして、そのとき、あらゆるものが「近い」存在として浮かび上がる。隣り合い、いつでも入れ替わるものとして浮かび上がる。
 そういうもののひとつが、ナルシスの美である。

 自分が自分にみとれてしまう美。それは、それ自体矛盾である。だから、そのなかで「自然な態度」と「芝居」が近接し、同居してしまうことにもなるのだ。

 この詩の中では、しかし、私は最後の行よりも、

「やっぱりだめだ」と彼はひとりごちた、「だめだ」。

 にとてもひかれる。その口語の響きに。そして、口語の孤独に。
 この詩の中に描かれているものは「しっくい」にしろ、「ソックス」「シャツ」にしろ、互いに響きあっている。「無残なもの」「形の崩れたもの」として「ナルシス」そのものときつく結びついている。「レタス」も「鏡」も響きあっている。
 ただ、「やっぱりだめだ」「だめだ」という口語--ことばだけが孤独である。

 かつてナルシスには美があった。そのとき、ことばは必要なかった。美そのものがことばだったからである。いまは、それがない。そして、美を失ったとき、ことばが、「肉体」のことばがふいにあふれてきたのだ。「肉体」を突き破って、孤独な状態で。
 「だめだ」はなにとも結びついていない。なにがだめなのか、書いてはいない。しかし、誰にでもなにがだめなのか、完全にわかってしまう。「肉体」のことばとは、そういうものである。説明はいらない。「肉体」が受け止めてしまうのである。それが、どんなに孤立していることば、孤独なことばであっても。--このとき、つまり、孤独なことばにふれるとき、「せつなさ」のようなもの、「かなしみ」のようなものが生まれる。


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リッツォス「証言C(1966-67)」より(3)中井久夫訳

2008-12-20 00:17:53 | リッツォス(中井久夫訳)
活動不能  リッツォス(中井久夫訳)

この家でのおれたちの暮らしはこうだ。
家具付きの部屋。暗い廊下。
晒さぬ布。木食い虫。氷のように冷たいシーツ。
おれたちの寝台に仰向けに寝ている誰とも分からぬ他人。
ゴキブリが台所から寝室に走って行った。
ある夜、誰かが玄関でわれわれに開けろと言った。
村の女が暗闇の中で何か言った(確かにおれたちのことだった)。
しばらくあって、玄関の扉が軋るのを聞いた。足音も人声もしなくて。



 内戦。逃れてきて、隠れている家だろうか。どこへも行けず、ただ隠れている。そのときの「おれたち」の暮らし。「おれたち」が何人かはわからない。何人いても、そのひとりひとりが独立している。「他人」である。

おれたちの寝台に仰向けに寝ている誰とも分からぬ他人。

 それはたとえ知っていても「知らない」人間である。知っているからこそ「知らない」人間なのかもしれない。何かあったとき、「おれたち」は全員、他人である。他人であることによって、生き延びる。そういう緊迫感と孤独がこの詩の中にある。

 この詩の訳は、この形になる前に別の形をしている。何か所か推敲されてこの形になっているのだが、一番大きな変化は1行目である。中井は、最初、

この家でのおれたちの暮らしはこうだと彼は言った。

 と訳している。そして、「と彼は言った」を消している。この訳はとてもおもしろい。「この家でのおれたちの暮らしはこうだ。」という行では、誰が言ったのかわからない。「おれたち」が言ったのか。「おれたち」が声を揃えて言うことはないから、「おれたち」のなかの誰かが言ったことになるのだが、「彼は言った」という主語と述語が消されると、「彼が言ったこと」が「おれたち」全員に共有されている印象を引き起こす。
 「彼は言った」という主語、述語があるときは、それはあくまで「彼」の主張であって、ほかの「おれたち」はそうは思っていないということも考えられる。
 この作品の中で、省略される形で書かれている「彼」は、そんなことは望んでいない。誰ものか(この家にいる全員が)、同じように思っていると感じたがっている。それが、対立者からのがれ、隠れている「仲間」の思いである。
 しかし、その「団結」は、同時に、いつでも「知らない」と言わなければならない「団結」でもある。仲間であればあるほど、「知らない」と言わなければならない。敵にであったとき、「知らない」ということが他の仲間を守る唯一の方法である。自分を犠牲にしても、仲間を守る。そういう決意が隠されている孤独。

 「彼は言った」を消すことで、その孤独が、より強く共有されるのだ。そして、その孤独の共有が、最後の2行の不安を生々しくする。「活動不能」--ただ隠れていることしかできない不安を生々しくする。

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リッツォス「証言C(1966-67)」より(2)中井久夫訳

2008-12-19 00:29:21 | リッツォス(中井久夫訳)
井戸のまわりで  リッツォス(中井久夫訳)

女が三人、壺を持って、湧井戸のまわりに腰を下ろしている。
大きな赤い葉っぱが、髪にも肩にも降りかかっている。
鈴懸の樹の後ろに誰か隠れて石を投げた。壺が一つ壊れた。
水はこぼれない。水はそのままだった。
水面が輝いて我々の隠れているほうを見つめた。



 この詩に書かれている情景は矛盾している。なぜ矛盾していることを書いたのかといえば、それは現実そのものの描写ではないからだ。現実に触発されて見た、一瞬の情景だからである。こころが見た情景である。だから矛盾していてもいいのだ。
 女たちの気を引こうとして小石を投げる。それは手元がそれて壺にあたる。その音を聞いた瞬間、小石を投げた「我々」は、もう壺を見ていない。はっとして、身を隠す。隠れてしまうので肉眼は壺の様子がわからない。「壊れた」と思っても、壊れてはいない。「水はこぼれない。水はそのままだった。」--これは、一つの、見方である。
 また、次のようにも読むことができる。こころは、次のような情景を見たとも考えることができる。
 壺は壊れた。しかし、その瞬間、水はすぐにこぼれるのではなく、壺の形のまま直立している。壺の形のまま、丸みを帯びて垂直に立っている。いわば、壺という衣裳を脱いで、裸で立っている。その裸の水面、きらきらとした水面が、その不思議な力(垂直に立っていることができる力)で、「我々」を見ている。隠れているけれども、隠れることのできない「我々」をしっかり見ている。--水に、見られてしまった。隠れながら、「我々」はそう感じる。
 
 このふたつの読み方。そして、私は、実は、後者の読み方をしたいのだ。

水はこぼれない。水はそのままだった。
水面が輝いて我々の隠れているほうを見つめた。

 この水の、水自身で立っている美しい姿。それは「輝いて」としか表現できない。艶やかで、透明で、美しい輝き。その輝きが、私はとても好きだ。
 その水は、一瞬、こころのなかで輝いた後、壺のように壊れるだろう。壊れて、女たちの足をぬらすかもしれない。けれども、その水が壊れる前の、一瞬の、水が水自身が剥き出しになったことに驚き、恥じらい、固まったようにして輝く--その一瞬が、その輝きが私はとても好きだ。

 そんなものは現実にはありえない、とひとはいうかもしれない。けれど、そういう現実にはありえないものを、ことばは見ることができる。詩は、そうやって現実を超越する。矛盾を超越する。そして、矛盾を超越するところにこそ、思想は存在する。美はあらゆるものを超越して存在することができるという思想が、そこには存在する。

 この詩は、とても好きな詩である。私の読み方が誤読だとしてもかまわない。私は、むしろ、ずーっと誤読しつづけていたい。

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リッツォス「証言C(1966-67)」より(1)中井久夫訳

2008-12-18 01:24:45 | リッツォス(中井久夫訳)


古代ふうの動作  リッツォス(中井久夫訳)

一日中身体に泌み通る暑さ。馬たちがひまわりの傍で汗をかく。
風が立つ。午後には山から吹き降ろしがあるのだ。
永遠の同じくくぐもった音がオリーヴの茂みを通り抜ける。
湧井戸の傍の桑の木の下に低い丸椅子がある。
百歳にもなろうかという老婆が出て来た。その庭だ。
椅子に座る。古代ふうの動作で。
その前に黒い前掛けの埃をひょろ長い僧侶ふうの腕ではたく。



 午後のスケッチ。最初の2行が好きだ。人間とは違った生き物。馬。それが人間のように汗をかいている。汗という肉体の表現が、馬をとても近しいものにする。

風が立つ。午後には山から吹き降ろしがあるのだ。

 この行は感覚の動き、意識の動きをとてもすばやくスケッチしている。風を感じる。そして、そのあとに風がどういうものか説明しているのだが、「風が立つ」という短い表現が、はっと風に気がついたときの瞬間をきわだたせている。「午後、山から吹き降ろしの風が吹いてきた」では、風に気がついた瞬間のさわやかな感じは出ない。あくまで「風」、そしてその理由という順序がいい。

 清水哲男の「ミッキー・マウス」という詩のなかに、次の2行がある。

「ああ、くさがぬっか にえがすっと」
(ああ、草の暖かいがするぞ)     (「現代詩文庫」1976年06月30日発行)

 この標準誤訳(?)に対して、私は批判したことがある。「草の温かい匂いがするぞ」では、口語のリズムを壊している。感覚の動きを壊している、という批判である。あくまで、「草が温かい」と感じ、そのあとで「匂いがするぞ」というのが口語のリズム、肉体の感覚である。草に触れた瞬間「温かい」という感覚が瞬時にやってきて、そのあとで「温かさ」を感じた肉体が(温かさによって目覚めた肉体のなかの嗅覚が)、「匂いがするぞ」と感じたのである。「草の暖かい匂いがするぞ」では、「頭」が全体を整理してしまっていて、肉体の動きが疎外されている。

 「頭」ではなく、「肉体」そのものでことばを動かす。ことばをつかむ。リッツォスのことばは短いが、それは「頭」で書いているからではなく、「肉体」で詩を書いているからである。

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リッツォス「証言B(1966)」より(39)中井久夫訳

2008-12-17 00:31:20 | リッツォス(中井久夫訳)
弔いの辞  リッツォス(中井久夫訳)

陽が沈んだ時、死者たちを浜に運んだ。
半円の湿った砂。金色と葵色と桃色の反射がそのずっと向うまで広がった。不思議だった。
この輝きもこの死者の顔も--。死んでなんかいない。
特にこの身体--若い。若木のような繁り。香油を塗られて新床にこそふさわしい。
天幕のあった場所にラジオが一台鳴ったまま。ずっと下のほうに敵の凱歌がはっきり聞こえた。
最後の夕映えが消えようとしてエフメロスの爪先と楯を赤紫に染めた。



 「エフメロス」とは誰か。私は知らない。ギリシア神話の英雄のひとりかもしれない。あるいは、現代の内戦の、死者のひとり。その「彼」を弔う詩。
 色の変化が美しい。金色と葵色と桃色、赤紫。夕暮れの色だ。そして、その最後の色が染めるのが「爪先」。この肉体のはしっこ。この細部へのこだわりが、「彼」をなまなましく浮かび上がらせる。

 この中井久夫の訳は、1行目が、最初は違った形をしている。「死者たちを浜に運んだ。」には主語がないが、これは中井が消したためである。最初は「彼等は」という主語があった。それを中井は消している。
 主語が「われわれ」である場合と、「彼等」である場合は、微妙にニュアンスが違う。日本語の場合、印象が違う。「われわれ」の場合、死者は身近である。親しい感じがする。「彼等」の場合は、あくまで客観的な、すこし冷たい感じがする。
 リッツォスは「彼」を主語に選ぶことが多い。主語は「私」ではなく、「彼」。しかし、その「彼」はほんとうに第三者なのか。そうではなく、「彼」にリッツォス自身を託しているのだと思う。ひとつの「理想」の人間として「彼」を描く。そこにありうべき「自己」を投影している。
 そういう文脈のなかで「彼等」ということばを選ぶと、少し事情が変わってくる。
 この詩の場合「エフメロス」が「彼」のはずなのに、ほかに「彼等」が登場してしまうと、詩が完全に自己から分離したストーリーになってしまう。「私」の居場所がなくなる。だから中井は「彼等」を省略する。「彼」と「彼等」をはっきり分離してしまう。「彼等」を「われわれ」と感じさせ、たどりつけない存在としての「エフメロス」を、これまでの作品の「彼」にしてしまうのである。

 この訳の操作は、非常におもしろい。中井の、リッツォスの詩の理解のしかたがとてもはっきりとでた訳だと思った。これはもちろん草稿だからわかることで、実際に出版されてしまえば、その痕跡がないのだから、原文と対比しない限り、中井の訳の工夫がわからないことになる。--草稿を読むことができる喜びが、こんなところにある。


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リッツォス「証言B(1966)」より(38)中井久夫訳

2008-12-16 00:09:59 | リッツォス(中井久夫訳)
怒り  リッツォス(中井久夫訳)

目を閉じて太陽に向けた。足を海に漬けた。
彼は己の手の表現を初めて意識した。
秘めた疲労は自由と同じ幅だ。
代議士連中が代わるがわる来ては去った。
手土産と懇願と、地位の約束とふんだんな利権とを持って来た。
彼は承知しないで足元の蟹を眺めていた。蟹はよたよたと小石によじのぼろうとしていた。
ゆっくりと、やすやすと信用しないで、しかし正式の登り方で。永遠を登攀しているようだった。
あいつらにはわかっていなかった。彼の怒りがただの口実だったのを。



 この詩のキーラインは3行目だ。「彼」は「自由」を味わっている。「自由」を味わうために、怒りをぶちまけるふりをして海へ逃れてきたのだ。
 やってきたのは「代議士連中」であるかは、どうでもいい。「代議士連中」は比喩かもしれないし、本物かもしれない。比喩にしても、実際に「代議士」と同じような権力者的な存在には違いないだろう。
 そして、「彼」の自由とは「蟹」になることだ。
 たった一匹で、誰にも頼らず石に登ろうとする蟹。たった一匹であることが「自由」なのだ。いまの「彼」のように。
 「彼」にとって登るべき小石が何かは、この詩では書かれてはいない。ただひとりであること、ただ一匹であることが、「彼」を「自由」にする。

 孤独と自由は、リッツォスにとって同義語かもしれない。

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リッツォス「証言B(1966)」より(37)中井久夫訳

2008-12-15 00:38:15 | リッツォス(中井久夫訳)
最初の喜び  リッツォス(中井久夫訳)

誇り高い山々。カリドロモン。イテ。オスリス。
こごしい岩。葡萄の樹。小麦。オリーヴの茂み。
ここは石切り場だった。昔の海の引いた跡だ。
陽に灼けた乳香木のいつい香り。
樹脂が塊になって滴っている。
大きい夜が上から降りて来る。あそこだ、あの山稜のあたりだ、
まだ少年のアキレスが、サンダルを履こうとして、
かかとを掌に包み、あの特別の快楽を感じたところは--。
水鏡に己の姿を見て一瞬こころここにあらずになった。それから
気を取り直して鍛冶屋に楯を注文に行った。
彼には今分かった、形が隅々まで。楯に色々な情景が描かれていた。
等身大で。



 この作品もまた前半と後半でことばの動きが違う。描いている世界が変わる。前半は自然の情景。そして、後半は人間がつくりだした光景である。こころの動きが世界をかえてしまう。
 「特別な快楽」について、この作品は具体的には書いていない。ギリシア神話に詳しいひとならアキレスのエピソードのいくつかを思い出すだろうか。一番有名なのはアキレス腱のエピソードだろうか。不死のはずが、母がかかとをにぎっていたために、そこだけ不死の水に浸されず、死の原因になった。
 そうすると、この「快楽」は「死の快楽」ということになるだろうか。誰でもが死ぬ。死ぬことができるという快楽。逆説としての快楽。そうであるなら、水鏡に映った己の姿とは死んで行く姿だろう。死んで行く己を見るというのも、不死を約束されたはずの人間には快楽かもしれない。知らないこと、体験できないはずのことを体験できる、不思議な快楽、絶対的な快楽。その瞬間、アキレスはアキレスを超越する。アキレス自身を超えて存在してしまう。
 そして、わかったのだ。楯に描かれている戦場の詳細が。戦場の情景のすべてが。
 「等身大で」というのは、実際にその大きさというよりも、比喩だろう。「等身大」の大きさで、歴史が、つまりこれから起きることが分かったということだろう。

 その瞬間にも、山々はおなじ姿をしている。岩も葡萄もオリーヴも。だからこそ、人間の悲劇が美しく輝く。

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リッツォス「証言B(1966)」より(36)中井久夫訳

2008-12-14 15:05:37 | リッツォス(中井久夫訳)
影のレース  リッツォス(中井久夫訳)

夏至だった。何という暑さ。
市の壁の外側の神聖道路を何時間歩いたか。
埃はいつまでも静まらなかった。汗と太陽。白いパラソルを
僧侶が二人、頭の上にかざさせていた、古代の下人アイテオブターダイの子孫四人に。
彼等は汗にまみれ、哀れな様子だったが、なお傲然としていた。
この白い移動天幕に太陽全体の力が集まったみたいだった。
ついに着いた。むきだしの石はわれわれを盲にした。われわれはイコンを土で掩った。
すると汗がぴたっと止まった。こまかな露がパラソルを湿らせていた。
かろやかな雲が丘の頂上に現れた。影が下りて来て睫毛をかげらせた。
この行進の吐き出した蒸気だったか。まさか。
青年たちはもう服を脱いだ。体操競技が始まるところだった。



 この作品も前半と後半では趣が違う。
 前半は過酷な暑さが印象に残る。「白い移動天幕に太陽全体の力が集まったみたいだった。」「むきだしの石はわれわれを盲にした。」この白く燃える光の強さが、とても印象に残る。その白さに照らされて、酷使される肉体がきらきら光る。汗と、その過酷さに耐える気力が光る。
 後半は、酷使されていた肉体が一気に解放される。同じ人間の肉体ではないのだけれど、肉体そのものがいきいきとしたものにかわる。その変化をもたらすきっかけが「イコンを土で掩」うという行為なのだが、この行為が象徴するものが私にはわからない。古代ギリシアの何かの祈りの象徴なのかもしれない。
 私がおもしろいと思うのは、この行為を境にして、後半、さわやかな影のレースが青年たちを覆い、体操競技をする肉体を祝福する感じに詩が変わっていく、そのきっかけの1行の書き方である。

ついに着いた。むきだしの石はわれわれを盲にした。われわれはイコンを土で掩った。

 「着いた」と「イコンを土で掩った」は別の行為である。改行があった方が自然だと思う。けれども、リッツォスはこれを1行で書く。そして、そのふたつの行為の間に「むきだしの石はわれわれを盲にした」という主語の転換した文がはさまれる。「スタジアムのむきだしの石の白さにわれわれは盲になった」ではなく、あくまで「石は」が主語であり、その白さゆえに、「われわれ」は「盲に」になった。「われわれ」は「盲」にさせられたのである。この主語の転換、一気に方向をかえながら、瞬時に「いま」「ここ」へもどってくる感覚。漢文のような、森鴎外の文体のような、遠心と求心の結合。
 この1行が厳しく凝縮しているがゆえに、前半と後半は、一気に転換することができる。
 
この行進の吐き出した蒸気だったか。まさか。

 ふっと挿入された、この1行。口語のざわめきもおもしろい。「まさか」というナマな印象の残る口語は、そのまま肉体へと繋がっていく。その肉体のイメージが、最終行の「体操競技」を自然に引き寄せる。
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リッツォス「証言B(1966)」より(35)中井久夫訳

2008-12-13 00:07:07 | リッツォス(中井久夫訳)
回想  リッツォス(中井久夫訳)

家が燃えた。虚ろな窓から空が見えた。
下の谷から葡萄摘みの声。遠い声だった。
ややあって、若者が三人、水差しをさげてやって来て、
新しい葡萄液で彫像を洗った。
イチジクを食べ、バンドを外して、
乾いた茨のなかに身を寄せ合って座り、
バンドを締めて去って行った。



 1行目と他の行との関係がわからない。わからないけれど、書き出しの1行を私はとても美しいと感じる。火事の家の描写が美しい。うっとりしてしまう。
 家が燃える。屋根が落ちたのだろうか。壁は立ったままで、そこには窓があって、その窓の、虚ろな穴の向こうに、真っ青な空が見える。その赤と青の対比。それが「虚ろ」ということばとともにある不思議さ。火の暴力。空気の、つまり風の高笑い。そして、青空の無関心。不思議な美しさがある。
 若者三人の美しさは、その火と、空気と、青空の絶対的な美しさに対抗しているのかもしれない。
 水差しの中にはぶどう酒。焼け残った彫像に、みそぎ(?)の酒をそそぎ、それから快楽にふける。飲んで、食べて、体を寄せ合って、何事もなかったかのように帰っていく。家が燃えたことなど、何の意味もない。

 他者を拒絶した美しさがある。いつのことを思い出しているのかわからないけれど、こういう他者を拒絶した回想は詩のなかにしか存在し得ない美しさだと思う。



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リッツォス「証言B(1966)」より(34)中井久夫訳

2008-12-12 10:36:00 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス「証言B(1966)」より(34)中井久夫訳

儀式の後  リッツォス(中井久夫訳)

叫びに叫んだ。ざわめき。とりどりの色鮮やかな美しい衣裳。
すっかり忘我。目を挙げて見るのも忘れた。神殿の背の高い破風を。
つい一月前、足場を組んで職人が洗ったのを。だがあたりが暗くなり
ざわめきも静まった時、一番若いのがふらふらと皆を離れて、
大理石の階段を昇って独り高みに立った。儀式が朝にあった、今は無人の場所に。
彼の立ち姿(われわれは後に続いた。あいつより駄目に見えたくはなかった)。
端麗な容貌を微かに挙げ、六月の月光を浴びて破風の一部に見えた。
われわれは近寄って肩を組み、沢山の階段を下に降りた。
だが彼の雰囲気はまだ彼方のものだった。若い神々と馬の間の遠い大理石の裸像だった。



 儀式の後、その儀式にとりつかれた独りの若者が「神」になる。憑依。それを見る「われわれ」。
 最後の行は、どう読むべきなのか。
 「若い神々と馬の間の遠い大理石の裸像」。特に、その「神々と馬の間」をどう読むべきなのか。私は、半神半獣を思うのだ。「彼」は単なる「神」ではない。「半神半獣」なのだ。それはたぶん単純な「神」よりもはるかに尊い。「神」は「人間」に似ているが、「半神半獣」は「人間」には似ていないからだ。
 では、何に似ているのか。
 欲望に似ている、と私は思う。私たちの肉体の内部に眠っている欲望。いのちの欲望。その、形の定まらないざわめき。
 --ここから、詩は最初の1行に戻る。循環する。神話になる。
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リッツォス「証言B(1966)」より(33)中井久夫訳

2008-12-11 08:43:25 | リッツォス(中井久夫訳)
宿命  リッツォス(中井久夫訳)

あてどなく放浪して、彼が帰るのはいつも同じ場所だった。
同じ一点だった(彼は宿命だと言った)。
壁を凹ませてある箇所 アーチ型の天井の部屋。入り口の、植木鉢に花を植えて置く所。
鉢の後に鍵。ここはいつも彼の出発点だ。
その鍵を忘れようとして。いや、鍵探しのこともある。
ものの形の変化の厚い層の下にありはしないかと。
時にはほんとうに忘れる。しかし不意に
通りでの知らない人の姿勢や歩き方が
また彼を自分の秘密に沈着させる。
少し向うのスタディウムからは、夕暮時に同じ声が聞こえて来る。
逆らえない声が、体操の後、次々に部屋を変えて。



 この詩もカヴァフィスを連想させる。「秘密」を解き放つ部屋。「秘密」を解き放つときの声--その、逆らえない引力。そういうものに出会い、苦悩する。
 リッツォスとカヴァフィスが違うととたら、自分を「自分の秘密に沈着させる」か、させないかの違いだろう。リッツォスは沈着させる。押し殺す。カヴァフィスは解き放つ。そういう違いがあると思う。

 この詩にはとても不思議な1行がある。どう読んでいいか、わからない1行がある。

ものの形の変化の厚い層の下にありはしないかと。

 とても抽象的だ。他の行がそれぞれ具体的であるのに対して、この行には具体的なことは何も書かれていない。「ものの形」とは何? 「変化」「厚い層」「下」--どのことばも知っている。知っているけれど、具体的に何を指すのか、私には見当がつかない。
 わかるのは、この行を分岐点にして、詩が前半と後半に分かれるということだ。
 前半は、具体的な「部屋」のありか。室内が舞台である。しかし、この行を境にして、彼のこころは「通り」、つまり「室外」へさまよいでる。「部屋」のなかにいるにしろ、こころは「室外」にある。「街」にある。そこをさまよっている。
 そして、そのさまよいのつづきとして、「次々に部屋を変えて」がやってくる。さまよいは、永遠に続く。放浪はあてどなくつづく。(書き出しの1行にもどる。)
 さまよいでるために、彼は「部屋」にもどるのだともいえる。
 そういう「意識」の場が「ものの形の変化の厚い層の下」なのかもしれない。


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リッツォス「証言B(1966)」より(32)中井久夫訳

2008-12-10 00:02:00 | リッツォス(中井久夫訳)
理髪店  リッツォス(中井久夫訳)

廃墟に部屋を一つ、煉瓦でこさえた。
窓にボール紙を嵌めた。看板も出した。「理髪店」と書いた。
宵闇の忍び寄る日曜の遅い時刻、
弱い光が半ば開いた海側の扉から差して
鏡は淡い青。--若い漁夫らと
船員たちが髭を剃りに来た。
とっぷりと暮れてから彼等は帰った、反対側の扉から、
影のように静かに、うやうやしい長い長老髯を垂らして。



 この作品も前半と後半に分かれる。そして、その「ふたつ」の部分は矛盾する。あるいは、対立すると言った方がいいだろうか。
 「船員たちが髭を剃りに来た。」しかし、彼等は「うやうやしい長い長老髯を垂らして」帰った。髭は口ひげ、口の上のひげ。髯はほほのひげ。口の上のひげは剃ったが、ほほのひげは剃らなかった、と考えれば「矛盾」ではないが、それでも一種、奇妙な感じは残る。こは、「矛盾」、あるいは事実の対立があると考えた方がいいだろう。
 詩のなかの時間は、「宵闇」と「とっぷりと暮れ」た時間。その間の現実の時間は短い。しかし、この詩のなかでは1日を超える時間が存在するのだ。「理髪店」を開いたのは遠い過去。昔は、若い漁夫、若い船員がひげを剃りに来た。しかし、今は老いた男たちがやってくる。彼等はひげを剃りにくるのではなく、昔の思い出のために、理髪店へ来るのである。そして、思い出を語って帰っていくのである。「とっぷりと暮れてから」。

 「ふたつの時間」は対立しながら、響きあう。「昔」があるから「今」がある。その間には、「廃墟」のような時間がある。「廃墟」の時間によって、若い昔の時間が洗われ、いまの老いた時間が透明になる。「影のように静かに」なる。若い時間は「光」なのである。その光はたしかに「宵闇」の光であり、淡いかもしれないが、それが淡く感じられるのは若い漁夫らの肉体の力の方が太陽よりもみなぎっているからだろう。いまは、そういう力もなく、ただ「影のように静かに」(影のように静かな)肉体と向き合っている。
 ここにも、やはり孤独が描かれている。孤独をみつめる人間(理髪師)が描かれていると言えるだろう。

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