goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころは存在するか(20)

2024-03-02 12:34:19 | こころは存在するか

私は多なる一であり、一なる多である

 このことばがベルグソンのなかに出てくる。「なる」を「即」と「誤読」すれば「多即一、一即多」であり、「多」を「色」と、「一」を「理(空)」読み替えれば「色即是空、空即是色」になるだろう。このとき「なる」は英語で言えば「be動詞」になるのかもしれないが、「なる」を「なす」、つまり「為す」あるいは「生す」と読み替えれば、それはすべて「私」という「肉体」によって誕生する世界になる。
 私がベルグソンに親近感を覚えるのは、こういう「誤読」を誘ってくれるからである。ベルグソンのことばのどこかに、私が知らずになじんできた「東洋」のことばがある。
 「多」を「色」と私は書き換えたが、これは「私が出会った、私以外の存在」であり、それは「意識が存在として分類しているもの」というものであり、「私(肉体)」を抜きにしては存在し得ない。意識は単独では存在せず、常に「肉体」とともにある。むしろ「肉体(いのち)」が理解しているものを「ことば」にしたものが「意識(知性)」である。

 こんなことばもある。

直観は生命の方向に進み、知性は逆の方向に進む。

 「直観は生命の方向に進む」とは、直観はいのちを維持・継続・持続させることを目指す、ということ。そのために「知性」をつかう。つまり、「知性は逆の方向に進む」とは、知性は「もの」の方に進むということ。「もの」を「無機物」と言いなおすと(ほんとうは有機物も含むのだが、とりあえず)、それは、人間は「もの」を解体し、別のもの(いままで存在しなかったもの)をつくるとき、そこには知性が働いているということである。簡単に言えば、鉄鉱石から鉄をつくり、その鉄から橋をつくる、ビルの骨組みをつくる、あるいはさまざまな機械をつくる。鉄鉱石を鉄鉱石ではなくしてしまう。そうすることで、「いのち」の維持・継続・持続をはかる。「生きやすく」する。
 しかし、「人間」は解体できない。解体すると「殺人」である。鉄鉱石から、武器をつくり、戦争を有利に進めるということも、人間はしてしまうのだが、これは少し脇に置いておく。
 実は、「殺人」以外の、「人間の解体」も、あるには、ある。「いのち」を「労働力」に解体し、「肉体」を拘束することができる。ひとつの方向に「限定」して動かすことができる。しかし、これもまた別の問題である。
 ベルグソンが言っているのは、直観は持続を目指し、知性は切断を目指すということである。そして、その接点に「肉体」があると、私は考えている。「存在するのは肉体だけ」というのは、そういうことである。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(19)

2024-02-27 12:31:56 | こころは存在するか

 ベルグソンのことばも、和辻のことばも、「変わらない」。つまり、彼ら自身がもう書き換えることはない。だから私は、彼らがもうそのことばを書きないということを知っていて(そして「反論」も絶対にしないことを知っていて)、「私のことば」に変換していく。つまり「誤読」していく。「私自身のことば」を書き換えていく。「変わっていく」のは私のことばである。「読書日記」はその「わがままな記録」である。
 「創造的進化」のなかに、こんなことばがある。

母性愛が示しているのは、どの世代も、つぎに続く世代に身をのりだしているということである。

 この「身をのりだす」という表現がおもしろい。「身をのりだす」とき、ひとは、自分を忘れている。だから、「身をのりだした」ひとに向かって「危ない」と叫ぶときがある。注意するときがある。
 ベルグソンの書いている「身をのりだす」というのは「比喩」なのだが、その「比喩」をとおして私が知るのは「意味」というよりも「欲望」である。母が「身をのりだす」ときの「欲望」。彼女の「肉体」を動かしてしまう力。「知性」の制御を無視して、暴走する「欲望」。そして、それを「欲望」と感じるのは、私自身に何かに対して「身をのりだした」体験があるからだ。それは私の「肉体」のなかに残っている。
 「つぎに続く世代」というのは、これもまた「比喩」である。実際にはまだ存在しない。その存在しないものに向かって「身をのりだす」とき、そこには何があるのか。ただ、新しいものへの「欲望」がある。「身をのりだす」欲望。そして、「肉体」そのものの、「動き」であって、「肉体」の「動き」をともなわない「欲望」というものはない。
 ベルグソンが書いていることは、私がいま書いたこことは関係がない。
 私がただ「追加」するかたちで考えたことばである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(18)

2024-02-27 12:30:46 | こころは存在するか

 ベルグソンのことばは刺戟的である。
目は見るだけではない。目で見たものが有効だと判断すれば、そのときひとは存在に近づくのだが、このとき目は実質的に肉体を動かしている。

 ここに「脳が判断し、手足を動かしている(手足に動けと命令している)」ということばを挿入したとすれば、それは「付け足し」だろうと私は思う。
 あらゆる運動、それが激しい肉体の運動ではなくても、ある瞬間目だけが動くのではない。手だけが動くのでもないし、足だけが動くのでもない。ことによると性器も動くのである。それも同時に、いくつもの場所(肉体の部署)で動いている。
 心臓とか内臓とか、そういう「不随意」の器官(組織)だけではなく、あらゆる肉体が動いている。なかには動くのを怠けている部分もあるかもしれないが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(17)

2024-02-27 12:29:06 | こころは存在するか

 和辻のことばにヒントを得たのか、ベルグソンのことばにヒントを得たのか、はっきりしないが、たぶん和辻のことばだと思う。こんなメモがノートにあった。

 どんな独創的な比喩であろうも、それがいったんことばにされれば、それはその比喩をとりまくさまざまなことばによって説明、把握されてしまう。これは逆に言えば、どんな独創的な比喩・暗喩も、それを比喩・暗喩としてささえる「過去」を持っているということである。いいかえれば、すでに「ことば」が存在しなければ「比喩のことば」が生まれることはない。「ことば」とは論理でもある。そして、「ことば」とは肉体でもあるからだ。詩だけではない。小説も、哲学も。
 これは、野沢啓が書いている「言語暗喩論」への批判のためのメモだと思う。
 なぜ、和辻のことばの影響なのか、ベルグソンのことばの影響なのか、私がはっきり思い出せないのは、たぶん、いま私がベルグソンの「創造的進化」(ベルグソン全集4)を読んでいるからだ。和辻につづけて読んでいる。
 ベルグソンは、「序論」に、こう書いてる。

理解能力は行動能力の付属物である。

 「行動能力」をどう「誤読」するか。私は「肉体」と置き換えてしまう。「肉体」が動く。そして、その肉体と対象(存在)がうまく合致して動いたとき、私はその存在(対象)を「理解」していると考える。肉体でできること。それを肉体で理解できること、と思うのである。
 さらにベルグソンは、こう書いている。

意識をもつ存在者にとって、存在することは変化するということは、変化するということは成熟することであり、成熟することは限りなく自分を自分で創造することである。

 もの(対象)に働きかけ、対象を変化させ、同時に肉体の方も変化する。動ける範囲が広がる。それは「理解力」の成熟であり、理解力が成熟すれば、新しい行動が可能になる。「自分を自分で創造する」ことができる。
 しかし。
 ここにひとつ大きな問題が横たわる。
 「肉体」は自分自身でつくることができない。「肉体」は、まず、他者によってはじままる。他者によってつくられる。つまり「父」と「母」によってつくられ、「母」の「肉体」から分離されることによって、「ひとりの肉体」となる。
 この、せっかく母というひとりの肉体から分離された私というものを、どう動かしていけば、私は私を「創造する」ことになるのか。
 こんなことを考えるのは、私の「死期」が近いからだと思うが、どうも気になって仕方がないのである。

思考は生命の発散物もしくは一つの相貌にすぎないのである。

 ベルグソンは「生命」ということばをつかっているが、私はやはりこれを「肉体」と読み替える。思考とは肉体の発散物のひとつである。肉体がなければ生まれてこない。
 「生命」ということばと同時に、ベルグソンは「生きられる時間」ということばもつかっている。これは、言い換えだろう。そして「生きられる時間」とは「持続」のことだが。

時間の本性を深く究明していくにつれて、持続とは、発明を、形態の創造を、絶対に新しいものの絶えざる仕上げを意味する

 この文章の中に、「創造」が出てくる。それは「新しいもののたえざる仕上げ」であり、それは「限りなく自分を自分で創造すること」である。
 さて、ベルグソンと和辻は、どこで「交錯」するのか。

生命の諸特性は決して完全に実現されているわけではなく、つねに実現の途上にある。それらる特性は状態というよりも、むしろ傾向である。

 ベルグソンのつかっている「傾向」ということばは、和辻の「構想力」に似ている。私は、だから、これを「構想力」と「誤読」することで、和辻とベルグソンを結びつけるのである。
 さて。きょうの日記に書いた冒頭の文章だが。ベルグソンの、次の文章を「誤読」した結果が、あの文章かもしれない。

われわれる意識的存在の根底そのものは記憶であり、いいかえれば過去が現在のなかへ延長したものであり、要するに活動的で不可逆的な持続である

 どんな比喩・暗喩であれ、その根底には記憶がある。つまり記憶(過去)が現在のなかに噴出してきたものが「比喩・暗喩という新しいことば(表現)」である。私たちは、過去の時間のなかへ、「比喩・暗喩」を持ち込めない。「いまあることば」を「過去」に存在させることはできない。しかし、すでに存在することば、過去のことばを成熟(成長)させ、、それによって自分の意識(肉体)を新しく「創造」することができる。
 そして、そのときの「創造」を手助けするのは、あくまでも「肉体」である。「肉体」の動き(動詞)が、新しい意識の誕生に立ち合っているのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(16)

2024-02-27 12:27:37 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集8「イタリア古寺巡礼」。ミケランジェロとギリシャ彫刻の違いについて、303ページに、おもしろい表現がある。

この相違は鑿を使う人の態度にもとづくのかもしれない。

 和辻は、技術、技巧とは言わずに「態度」と言っている。これは、人間とどうやって向き合うか、人間の(肉体の)何を評価するかということ、「道」につながることばだろう。
 ミケランジェロ(あるいはローマの彫刻)が、表面的(外面的)であるのに対し、ギリシャの彫刻には「中から盛り上がってくる」感じがあると言い、「中からもり出してくるものをつかむ」とも書いている。
 「中から」は「肉体の中から」である。「中にあるもの」とは「生きる有機力」だろう。それを「つかむ」という態度(向き合い方/生き方/人間の評価の仕方)が違うと和辻はとらえている。
 「知識(技巧/技術)」と言わずに、あくまで「人間全体」の表現(態度)、つまり「目に見えるもの」として和辻は把握している。
 もちろん態度の「奥」には「意識」があるだろうが、それを「意識/技術」とはいわずに、目に見える「態度」ということばでとらえるところに、和辻の「直観」がある。存在するものは、まず、「目に見える」、あるいは「耳で聞き取れる」「手で触れる」「鼻で匂いを嗅ぐことができる」「舌で味わうことができる」。
 存在するのは「肉体」である。「意識」の本意はつかみにくいときがあるが、「肉体」の本意は、だれもが見分ける(識別する)ことができる。どんな子供でも、母親が自分を愛してくれているか、いま喜んでいるか、叱っている、そのときの「意識の論理構造/意識の運動」をことばで言い表すことはできなくても、それを感じ取り、「態度(肉体)」で反応することができる。
 ここで「態度」ということばをつかっていることに対して、私は、やっぱり、はっと驚き、同時に安心するのである。人間は「肉体」であり、「肉体の行動」が人間のすべてである。

 逆に読む。意識的に「誤読する」、そこから「飛躍」が生まれる。私は、こういうことも和辻から学んでいるかもしれない。和辻から学んだという意識はなかったが、こういう「無意識」こそ、「影響を受ける」ということなのだと思う。
 和辻は、どんな風に「誤読」するか。つまり「意識的に読み替える」ことで、ことばを「飛躍させる」。
 システィナ礼拝堂のミケランジェロの壁画、天井画について、こう書いている。それは本来、礼拝堂を装飾するはずのものである。しかし、

この堂自身が壁画や天井画のためにあるのであって、絵がお堂のためにあるのではない(略)。その位置を逆転しているのである。(316ページ)

 「通説」を逆転させている(これも、私にとっては「誤読」ということである)、そうすることで和辻は自分の言いたいことへと「飛躍」する。
 その上で、この考え(ことば)を次のように発展させている。さらに「飛躍」させている。

堂がおのれをむなしゅうして絵に仕えている結果、絵は完全にその効能を発揮して堂を飾り、堂の装飾の役目を果たしていることになる。

 これは和辻が最初に書いたこと(最初の引用部分)を、さらに和辻自身で「誤読」する形でことばを動かしたものである。つまり、ここには一種の「矛盾」があるのだが、それを止揚するかたちで、ことばは、こう動く。

両者が互いに生かせ合っているのである。

 「互いに生かせ合う」というのが「道」だろう。人と人の出会いのように、礼拝堂と絵が出会っている。その出会いにミケランジェロが立ち会っている。ミケランジェロの「肉体」のなかにある「生ける有機力」があふれ出て、礼拝堂(建物)と絵に分裂し、さらに統合されている。そういうドラマチックな展開があるのだが、こういう「飛躍(止揚)」の過程で「おのれをむなしゅうする」とか「仕える」とか、「互いを生かせ合う」という、私の両親で聞いて納得できることばをつかっているのが、私はとても好きである。
 和辻のことばの運動がたどりついた頂点としての表現も好きだが、その過程でつかわれる「態度」のように、誰もが知っていることばのつかい方が、私にはとても納得が行く。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(15)

2024-02-27 12:24:25 | こころは存在するか

 人はだれでも、自分の求めていることばを探して本を読む。その求めていることば、探していることばとは、直観としてつかんでいるが、まだことばになっていないものである。それはたとえて言えば、昆虫の新種や、未発見の遺跡のようなものかもしれない。あるはず、と直観は言っている。
 和辻哲郎全集8。「風土」にも、そういうものがある。あ、このことばは和辻が探していたものに違いないと感じさせることばが。
 たとえば、ヘルデルの文章の中から引き出している「生ける有機力」ということば。それを引き継いで、和辻は、こう言いなおしている。

我々自身は知らずとも、我々の肉体の内にそれは溌剌と生きている。

 「知らず」は意識できない、ということだろう。
 だから、こうつづける。

理性の能力というごときものは、この肉体を道具として働いてはいるが、しかし肉体を十分に知る力さえなく、いわんや肉体を作ったものではない。

 これは、逆に言えば、肉体は知性をつくる。あらゆるものをつくる、ということだ。さらに言いなおしている。

精神的思惟といえども肉体の組織や健康に依存するものであるから、我々の心情に起こるあらゆる欲望や衝動が動物的な暖かみと離し難いものであることは当然のことであろう。これらは何人も疑うことのできぬ自然の事実なのである。

 「自然の事実」には傍点が打ってある。「生ける有機力」から「自然の事実」への「飛躍」。あるいは「飛翔」。「有機力」の「力」は、エネルギーということだろう。それは、不定形。それ自身は、ただ使い果たされ、それを使い果たすときに何かが起きる。何かが生まれる。何かを生み出す。つまり「つくる」。
 そしてそれは「動物的な暖かみと離し難い」。かならず「動物的な暖かみ」を持っている。「動物的」は「人間的/肉体的」と言い換えることができる。この「暖かみ」には、和辻の、とても重要な「人柄」のようなものをあらわしている。

 「生ける有機体」の存在の仕方、風土や生活の仕方は、主体的な人間存在の表現であるというようなことも和辻は書いているが、その「主体的な人間存在の表現」には、そのひと独特の「人道の観念」を明示する。「人道」ということばのなかにある「道」。和辻の父が、和辻に向かってお前の道はどうなっているのか、と「古寺巡礼」のなかで問うているが、その「道」である。和辻はここから倫理へ、つまり歴史哲学へと入っていく。
 人間がつくってきた「道」が「歴史」のなかにある。「哲学」のなかにある。

 「古寺巡礼」のなかには、いろいろなことばが書かれている。そして、その主力は「道」ではなく、古い美術への鑑賞なのだが、私はなぜか、あの「道」ということばが忘れらない。そして、その「道」につながることばを探して、和辻を読んでいるのだと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(14)

2024-02-20 21:44:20 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集8。「風土」のつづき。大事なことは、だれでも、それを繰り返して言う。書く。そして、そのとき、そこには不思議な変化がある。飛躍がある。
 たとえば。

明朗なるギリシャ的自然が彼らの肉体となったとき、彼らはこの隠さない自然から「見る」ことを教わった。(81ページ)

 ここから、こう変わる。

「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだしていくことである。(89ページ)

 「見いだしていく」という動詞をつかっているが、この「見いだす」は「創造する」の方が近いだろう。私は「見いだす」を「創造する」と「誤読」して、理解する。
 最初の引用の「肉体」という表現も、私はとても気に入っている。和辻はここでは「身体」とは書かずに「肉体」と書いている。「肉体」で見る。「肉体」で「創造する」。「見いだす」を「創造する」と読み替えるのは、「創造する」の方が多くの「肉体」の部署がかかわると考えるからである。

 179ページには「商業銀行のニオベの娘」に関する美しいことばがある。その特徴を「内なるものを残りなく外にあらわにあらわしている」と要約しているが、これをさらに182ページで、こう言いなおす。

それは外にあらわになるもののほかに内なるものが存せぬことである

 この二つの文章の間にある「飛躍」、目眩を感じるくらいに大きい。はっきりと理解できるが、思わず、「いま、なんて言った? もう一度言って」と言いたくなるくらいだ。そして、「もう一度言って」と言われたら、和辻はきっと言い間違えるだろう。そんなことを感じさせる「飛躍」である。それは「直観」が動かしてしまうことばであり、どうやって動いたかはたぶん和辻にもわからないと思う。つまり、もう一度言いなおせば、また違ったことばになってしまうような、そういう「飛躍」である。
 それはたとえば100メートル走でボイトが世界記録を出したあと、もう一度走って見せてと言われても同じタイムで走れないようなものである。人間の「肉体」が理性だけで動いているわけではない(同じ状態にコントロールできるものではない)のと同じように、「ことばの肉体」もまた理性だけで動いているわけではなく、「肉体」そのもののように、何かコントロールできないものの影響を受けて動いているのである。
 この、私が「肉体」と呼んでいるものを、和辻は「気合い」と呼んでいるかもしれない。「気合い」で「飛躍する」。「気合い」は規則ではない。そして、それは「直覚的に得られた」ものであると、和辻は書いている。
 これは、端折りすぎた、私のためのメモである。この「日記」はメモなのだから、ときどき詳しく書いたり、突然端折ったりする。

 脱線したが。
 先に引用した文章は、さらに、こんなふうに言いなおされる。202ページ。

彼(ポリュクス)の日常寓目する人間の肉体は彼の想像力によって作りなおされ、高められ、類型化され、そうしてたとい現実には存せずとも彼の体験においては溌剌として生きている人間の姿として外に押し出されて来た。

 「想像力によって作りなおされ」は、単なる「修正」ではなく「創造」である。それは「対象」を描写したものではなく、ポリュクスの「肉体」のなかから、ポリュクスの「肉体の外」へと「押し出されて来た」ものなのだ。
 で、この最後の「押し出されて来た」という表現。これが、また、おもしろい。「押し出した」のではなく、「押し出されて/来た」。それは「抑制できない」なにかなのである。想像力には想像力の「肉体」があり、それが自律的に動くのだ。
 和辻のことばは和辻が書いているが、そこにはやはり「押し出されて来た」ことばがあると思う。その感じがあるからこそ、ポリュクスの彫刻を見ても「押し出されて来た」と反応してしまうのだと思う。
 私は大雑把にしか読まないが、もし、ていねいに和辻のつかっている「動詞」を分析していけば、ことばと肉体の関係が、もっとわかるかもしれない。

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(14)

2024-02-17 14:00:24 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集8。「風土」はハイデガーの「存在と時間」への批判として書かれたもの。空間性に排除した時間性は真の時間性ではない。ハイデガーのいう存在は個人にすぎない、という視点から「空間」を含めた「人間存在」を描こうとしたもの。このとき「空間」というのは「社会(生活)」を含む。人間は個人であると同時に社会的存在(他人といっしょに生きている)ということ。
 15ページに、ベルグソンに通じることばがある。

人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する運動である。この分裂と統合とはあくまでも主体的実践的なものであるが、しかし主体的な身体なしに起こるものではない。従って主体的な意味における空間性・時間性が右のごとき運動の根本構造をなすのである。ここに空間と時間とがその根源的な姿において捕らえられ、しかも空間と時間との相即不離が明らかにせられる。

 ベルグソンの「時間=と=空間」を、私は「時間=肉体=空間」と言いなおした。「肉体」は「運動」の言い直しなのだが、和辻は「肉体」を「身体」、「運動」を「実践」と言っていると私は「直観/誤読」する。つまり、読み替える。
 和辻もまた「身体(肉体)と「実践(運動)」は切り離せないものと考えているから、人間が生きていることを「主体的な身体」よる「主体的実践」と読んでいると「誤読/解釈」する。
 こう読むと、あらゆる哲学者は、それぞれ「個人語」で同じことを言っているように感じられる。
 実際に、そうなのだと思う。どんな思想家が目指しているのも「人間はどうしたらみんなが幸福になれるか(幸福であることが人間の理想)」という問題への「答え」探しだからである。
 もし、そうだとしたら。
 問題は、こういうことである。
 私はいま和辻を読み、きのうはベルグソンを読んだが、「思想」は、彼らだけのものではない。あらゆる人間が「どうしたらみんなが幸福になれるか」と考えている。
 私の両親は、和辻もベルグソンも読まなかった(そもそも私の家には、学校の教科書以外の本はなかった)が、両親はそれでは「思想」を持たずに死んでいったと、私は考えることができない。何も話さなかったし、何も書き残さなかったが、ふたりが「思想」を持たずに、幸福になりたいと考えずに、何十年も生きられるはずがない。いったい何を考えていたのか。
 たとえば母は、何か困ったことがあると、必ず仏壇の前で「南無阿弥陀仏」を繰り返していたが、「念仏を唱えれば幸福になれる(問題が解決する)」という考えが、和辻やベルグソンの「思想」に比べて劣っているとは思えない。生きて、死ぬまで、それで生きて行くことができたのだから。
 私は、母や父の「思想」を私自身のことばで「取り戻す」ということができない。あるいは「回復」できない。ここには、なんとも言えず、不思議な「問題」がある。私はそんなに余命があるとは考えていないが、死んでいくためには、それを知る必要があると思う。わからないならわからないで、「私には何もわからない」ということを知った上で、死にたいと思う。

 脱線したが。
 「回復」と書いて、私は、ふたたび和辻に戻る。
 和辻の書いている問題は、時間、空間を考えるとき、あるいは「人間存在」を考えるとき、人間はどうやって生きているかを考えるとき、「個人/肉体」というものが、どんなふうに実現されるか。「個人/肉体」をどう「回復」するかということなのだろう。
 「個人/肉体」を「回復」できたとき(取り戻すことができたとき)、人間は幸福になることができる。(正しく生きることができる。)

 私の書いている「世界に存在するのは私の肉体だけ」という考えは、「人間存在は無数の個人に分裂することを通じて種々の結合や共同態を形成する」と矛盾するか。
 傍から見れば「矛盾」に見えるかもしれない。
 しかし、私は「世界に存在するのは私の肉体だけ」と考えるけれど、その私が出会った肉体(他人)が同様に「世界に存在するのは私の肉体だけ」と考えることを拒まない。誰かと出会う(これも運動である)とき、「世界」はそのつど「新しくなる」。「世界」とは「時間と空間」であり、その「時間と空間」は「私の肉体」が「動く」とき、それまでとは違った「時間と空間」になって「出現」する。そうした「変化」のさなかにあって、存在していると確信できるのは「私の肉体」という存在だけである、と言いなおせばいいのかもしれないが。

 

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(13)

2024-02-16 22:11:59 | こころは存在するか

 ベルグソン・メモ(つづき)。
 誰もがつかうことばに「時間」「空間」がある。二つをあわせて「時空間」というときもある。これは「四次元」をあらわすと私は理解しているが、ベルグソンは、

時間=と=空間

 という表記をつかっている。(訳語だから、フランス語ではどう書いているか、私は知らない。私はベルグソンの研究をしているのではないから、厳密には考えない。というか、前に書いたように、私は私の考えを整えたいのだから、ベルグソンが言っていることよりも、そのことばが触発してくるものに関心がある。)
 どうして、ここに「と」が入ってくるのか。「と」とは何か。
 この「時間=と=空間」は「空間であるとともにまた時間でもある」と言いなおされ、さらに「時間であるとともに空間である」とも言いなおされる。言いなおすとき、何が変わっているか。

 ベルグソンの「キーワード」のひとつに「継続(持続)」がある。「実在的持続」は「生成」と言いなおされている。(「生成」を「実在的持続」と言いなおしていたのかもしれない。)
 そして、おもしろい「例」をあげている。
 「円を描く」と「描かれた円」は同じものか。円を描いた結果、そこに描かれた円が残ったとする。「円を描く」というとき、その「描く」は運動であり(円の「生成」であり)、そこには「時間」がある。しかし、「描かれた円」には、その「時間/生成」が排除されている。
 この「生成の排除」を指摘するために「時間=と=空間」という「わかりにくい」構文をつかったのだとわかる。
 この「排除された生成=時間(持続的時間)」をどうやって回復するか。それをベルグソンは考えているだろう。

 こういう「ややこしい」、けれど刺戟的な問題とは別に、たとえば、私は次の文章からも刺戟をうける。

継続と持続が存在するのは、まさに実在がためらい、手さぐりして、予知しがたい新しさをだんだんと作りあげるからである。

 この文章の「手さぐり」の「手」。なぜ、「手」ということばが必要なのか。「手」をベルグソンが書いているのか、翻訳者が付け加えたものなのか判断できないが、私は「手」に惹かれる。
 「手」さぐりということばとともに、私の手は動く。何も見えない闇のなかで、手が何かに触れたとき、「見つけた」と感じた喜び(安心)を思い出す。手には記憶(時間)がある。記憶は手である。そのとき記憶(意識=精神、あるいはこころ)は手である。つまり意識、精神、こころというような目に見えないものがなくても、手があれば記憶をたぐりよせることができるのである。
 「こころは存在しない」というのは、そういうことである。

 「有機」ということばから始まる次の文章の「身体」も、私にとっては、とても重要である。私は「身体」ということばをつかわず「肉体」というのだが。言いなおせば、当然のこととして、私はベルグソンの「身体」を「肉体」と言いなおして読んでいるのだが。これが「時間」と「行動」とともに書かれている。「行動」を私は「運動」と言いなおして、その文章全体を私のものにしたいともくろんでいる。

有機的なものが存在しており、意識的なものが存在している。自分の身体によって有機的世界の中に、精神によって意識的世界の中に挿入されているわたしくは、前方への歩みを漸進的豊潤化として、発明と想像の連続として知覚する。時間はわたしくにとっては、いっそう実在的で必然的なものである。それは行動の基本的条件である。--いや、それは行動そのものである。

 「肉体」が動く。運動する。そこに「時間」がある。それ以外に「時間」は存在しない。「肉体」が動く。そこに「空間(場)」がある。それ以外に「空間(場)」は存在しない。世界に存在するのは「私という肉体」だけである、というのが、私の考えである。
 「時間=と=空間」とベルグソンは書くが、私はこれを「時間=私=空間」と書き直す。「と」は「私」そのものである。ベルグソンがいなければ「と」は存在しなかった。だから、「時間=と=空間」とは「時間=ベルグソン=空間」と言いなおすことができる。これを利用して「ベルグソン」という固有名詞を「肉体」に書き換えると「時間=肉体=空間」になり、肉体が時間と空間を生み出すと私は考える。
 私がそう考えるようになったのはベルグソンを読んだからではなく、ほかのものを読んだからなのだが(それをもう一度読み直して確認するために、私は和辻を読み、ベルグソンを読んでいるのだが)、ベルグソンも同じことを考えている、と私は「誤読」するのである。ベルグソンをとおして、私のことばを整えるのである。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(12)

2024-02-15 17:43:38 | こころは存在するか

 ベルグソンは書いている。

ただ一つの実在的時間が存在し、他のすべての時間は虚構の時間である。

 「実在的時間」は「生きられた時間」を言いなおしたものである。個人個人によって「生きられた時間」だけがほんとうの時間であり、そのほかは虚構の時間である。
 私はこれを利用して逆に言いなおす。「実在的」とは「生きられたもの/体験されたこと」である、と。「実在的ことば」とは「生きられたことば」であり、その対極に「虚構のことば」がある。「実在的肉体(ベルグソンは、実在的身体、と書くかもしれない)」は「生きられた肉体」であり、その対極に「虚構の肉体」である。
 「虚構のことば」「虚構の肉体」であるにもかかわらず、私がそのことば、肉体に反応するとすれば、それはその虚構のなかに私の「体験」を直観するからである。実感するからである。

 また、こんなことを書いている。

「空間の剛い図形こそその諸条件を光の図形に課する」(略)。この命題を逆にして次のように言うことがある。「光の図形こそがその諸条件を剛い図形に課するのである」と。換言すれば、剛い図形は実在そのものではない、それはたんに精神の構造物にすぎない。

 「逆にして、言う」、つまり言いなおす。このとき、動いているのは「精神」であるが、精神が動くときは「肉体」が動いている、移動しているのである。肉体が「基準点」を変える。つまり「立場」を変える。
 「精神」あるいは「こころ」は存在しないと私は考えているので、そう「誤読」する。
 「精神の構造物」とは「ことばの構造物(ことばの運動が描き出す存在)」である。

 ここから、私は、きょうこんな詩のメモを書いた。

 Aにおいて枯れたバラ(虫食いのバラの造花)と表象されたものは、Aにおける内的荒廃を生きているとBは書き留める。しかしAにおいて内的荒廃、あるいは荒廃する内面というものは存在せず、鏡のなかでネクタイを結びなおすBの背中がもはや触れることのできないものとして世界、つまり外部を構成しているという事実があることはBは知らない。
 このことに関して、バラの造花が銅製であり、無着色のものであることに注目し、そこから別の注釈を試みた詩人がいたことを指摘しておく。
 一方、この私的に対して、詩人は次のように反論している。
 同じ物語はAとBによって、同じ空間、同じ時間に歪曲されることによって、その内部にとりかえしのつかない実在的時間が蓄積される。
 しかし、こうやって複数に複製される事実について、当のAが「私はもう鏡をのぞかない。鏡のなかからBの、私を見つめ返す視線が反射してくるから」と日記に書いたことは、Bの創作である。つまり、虚構である。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(11)

2024-02-13 21:45:16 | こころは存在するか

 ベルグソンにかぎらないが、私がベルグソン、あるいは和辻哲郎を正しく理解しているかどうか(私の読み方を他人が正しいと思うかどうか)は、私には問題ではない。私は私の考え(ことば)を整えたいのであって、ベルグソンや和辻をだれかに紹介したいわけではない。私が紹介しなくても、ほかのひとが「正しく」紹介しているだろう。

 「連続」を、ベルグソンは「充足している流出と以降の連続性」と定義したあとで、「充足」を「流れるものを含まない、移行しない」と言い直し、そこから「持続=記憶」と再定義している。このときの「記憶」とは「変化そのものの内的な記憶」である。ここから「内的時間」というものが生まれてくる。
 そのあと、こう書いている。

われわれの内的生の各瞬間には、われわれの身体の、そしてそれと「同時」の回りの全物質の瞬間が、対応している。

 ここに「身体」ということばが出てくるので、私は安心する。私は「身体」ではなく「肉体」ということばの方を好むのだが。
 それから、ベルグソンのことばは、こうつづく。

そのとき、この物質はわれわれの意識した持続性の性質をいくぶん帯びているように見える。われわれはこの持続をだんだん物質世界の全体に広げて行く。というのはこの持続をわれわれの身体の直接の近傍に限るいかなる理由もわれわれは認めないからである。宇宙はわれわれにはただ一つの全体を形成しているように見える。

 ここから私は、「宇宙」に存在するのは「私という肉体」だけ、という考えが生まれる。いや、このベルグソンの考えは、「宇宙」に存在するのは「私という肉体」だけ、という考えを支えてくれると感じる。「意識の持続性」(意識の延長線上/意識のとどく限り)が「宇宙」である。「宇宙」は「意識の持続性」として「一つ」である。
 「肉体」があれば「意識」がある。そして「意識」は「肉体」とは切り離しては存在し得ない。「肉体=意識」ならば「意識=肉体」である。「イコール」とは「即」である。

持続する実在について人はそこに意識を導入することなしには語り得ない

 とベルグソンは書いているが、この持続から「語る」という一連のことばの運動を私は、語るということは意識を持続させることであり、その持続の中に「実在」が出現すると言いなおすのである。
 実存的な時間は知覚された体験であり、それは考えられた時間であるが、考えるということは「ことば」なしにはありえない。「語る」ことは体験を知覚することであり、それは時間を実在させることである。

存在するのはわれわれ各人の持続だけであろう

 とベルグソンは書くのだが、これは私にとっては「存在するのは私の持続だけである」という意味になる。「他人の持続」は「私が想定する持続」にほかならない。それが「他人の持続」と同一であるかどうかは判断のしようがない。
 こんなことはいくら書いても「無意味」かもしれない。
 私は、ほんとうは、こういう抽象的なことではなく、次のことを書きたいのだ。
 ベルグソンは、こう書いている。

意識は、ひからびて空間となった時間に生き生きとした持続を再び吹き入れるのである。

 私は、ここに「吹き入れる」という動詞がつかわれていることに、非常に刺戟を受ける。「吹き入れる」というのは「肉体」の動きである。たとえば、風船に空気を「吹き入れる」。人工呼吸で他人の肺に息を「吹き入れる」。人間の、肉体の動きが、ここにある。何かをするとき、自分以外のものに働きかけるとき、そこには肉体が動く。
 「意識」も「肉体」である。だから、「肉体」の動きをまねするのである。
 ベルグソンは、こうも書いている。

実在するものとしてわれわれに提供されるすべてのものに対して、知覚されるという特性あるいは知覚可能という特性をわれわれが要求するとしても、驚く人はいないであろう。

 「意識」は実在するか。それは「吹き込む」という「肉体」の運動がことばになって表現されるとき、たしかに実在すると、私は言いたい。では、「意識」が肉体」のどこにあるか、という問題があるかもしれない。どこだっていい。脳のなかでも足の裏でもいい。しかし「吹き込む」という比喩がつかわれるとき、それは脳でも足の裏でもなく、たとえば口であり、手の動きであり、肺の動きである。そういう「ことば」と「肉体」の「連続=結合」のなかにある。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(10)

2024-02-12 21:06:33 | こころは存在するか

 ベルグソン全集3(白水社)、「持続と同時性」を読む。
 ベルグソンと和辻哲郎をつなぐ「ことば」は「直観」である。ベルグソンは「直観」と同時に「直接」ということばの方を好むかもしれない。アインシュタインの理論に触れながら、「知覚」について、こんなことを書いている。
 人が走るとき、人が地球の上を走るのだが、これは他者から見れば人の足の下を地球が動くととらえることもできる。これはもちろん物理(数学/論理)の可能性の問題である。しかし、実際に走る人(行為する人)は、自分の行為を「直接」知覚している。この知覚は意識と呼ぶこともできる。それは「内的絶対性」であり、「事実」である。運動する人(走る人)にとって、これはその人の内部で起きる「直接」の感覚(知覚)であり、この「直接」は「確実」であって、ゆるぎがない。
 そして、この「直接」こそが「持続」していくものである。だれにも「介入」されない「持続」というものがあり、そこから「連続」も生まれる。
 「直観」も誰からも「介入」されないものである。この直観を持続させ、そこから連続した世界を新しく描き出すことができるかどうかは、「ことば」の問題になってくるが、ことばにできなかったからといって「直観」が存在しなかったことにはならない、というようなことは、ベルグソンが書いているのではなく、私の付け足しなのだが。

 私の「ことば」が、いったい誰からいちばん影響を受けているのか、誰のことばの影響下で動いているのか、それを見極めるのはむずかしいが、私には何人かの大好きな著述家がいる。そのひとりがベルグソンだ。もちろん私はベルグソンをフランス語で読んでいるわけではないので、そのことば(翻訳)をどこまで動かしていいものなのかわからないが、「わからない」からこそ、私は「自由」にそれを動かしていく。

 「内的直観(内的直接生/内的直接知覚)」によるものだけではないが、運動はどのような運動であれ、加速する。(減速する、ということもあるだろうけれど。)この「加速」を支えるものはなんだろうか。「直観」といえば「直観」なのだろうが、それが「連続」につながるとき、そこには「構想力」が働いている。「直観的」に方向が存在する。この方向をベクトルといえばいいのか、ゲシュタルトといえばいいのか、私は知らないが、ゲシュタルトというのは新しいことばのようであって、意外と古いのだなあと感じたりする。和辻がどこかでつかっていたと記憶しているが、どの本だったかはっきりしない。

 少し脱線したが。
 運動を客観的に把握するだけではなく、「行為する人」の側からとらえなおすとき、そこにはどうしても「肉体」が介在する。「行為する人」を設定し、そこに「内的直接知覚/内的絶対性」を仮定する(想定する/想起する?)ベルグソンの考え方は、私には、和辻に似ていると思う。
 書かれている「対象」は違うのだが、「行為」に起点を置くというのが、似ている。
 和辻はいつも「行為」を見ている。「行為」を見るとは「人格」を見るということでもある。そこから「倫理」、あるいは「道」の問題が始まるのだが、そのことを私はベルグソンの文章をとおして「確認」するのである。

 ベルグソンのいう「直接」は、私にはまた「即」に通じるように思える。つまり、それは道元につながる何かがあるように「直観」する。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(9)

2024-02-10 13:02:38 | こころは存在するか

 父が死んだ年齢に近づいてきたせいか、しきりに死について考えるようになった。私は父の死に目(臨終)には立ち会っていないのだが、葬式のあと、いや焼骨のあと自宅に帰ったとき、姉が「父が自宅の前の道から碁石が峰を見ていた」とぽつりと漏らした。それは死ぬ直前のことではなく、たぶん手術後、いったん退院したときのことなのだろうが、まるで碁石が峰を見ながら死んでいったという具合に聞こえた。私はすぐに父がいただろう道に出てみた。道の向こうに田んぼが広がり、その向こうに山が見える。いつも見える山である。見慣れた山である。しかし、驚いた。それは変わらぬ山であったが、何かが違う。違うものが見える。山を見ていた父の姿が消え、父が隠していたものが見える、と感じたのである。父の肉体の形が透明になり、その透明ななかに碁石が峰が見えた。それは碁石が峰というよりも、「透明」としか呼びようのない光のようでもあった。何かはっきりとはわからないが、そういうことが起きる。

 いま、それを「死から始まる世界」と感じている。
 これは、唐突な考えだが、すべては「死後」から始まるのである。
 私はいま和辻哲郎を読み返しているが、読み返しながら、和辻が考えたことはなんだったのかは、和辻が死んで、もう和辻が何か新しいことばを書かなくなったからこそ、私にとって問題なのだ。和辻が生きていれば、和辻が考える。しかし、和辻のことばはすでに本のなかで完結している。その終わったところから、私は考える。そのとき、和辻の「隠していたもの」が見える。私が、私自身で見なければならないものが、その「透明」が見えると感じる。
 これは、私が和辻を超えるという意味ではない。
 何も理解できずにただ和辻のことばのなかをさまよい歩くだけなのだろうけれど、そのとき見るのは、私にとっては、やはり「和辻のことばが隠していた世界」なのである。私が見なければならない「透明」なのである。

 どこに書いてあったのか忘れたが(いま読んでいる第七巻を読み返してみたが、傍線を引いた部分に出てこない)、和辻のことばのなかに、「死は、直観的な何か(たとえば魂)が存在することを求める」ということばがある。このときの「死は」というのは主語ではない。主語は書かれていないが「生(いのち=肉体)」である。その「肉体」が本質=思惟の純粋直観がとらえるものを求める。純粋直観が何かを探しに行くのである。
 死んでも動くものはある。しかし、それは「死」のなかにあるのではなく、また「死」から分離してあるのではなく、ただ「死んでも動くものはある」ということばのなかにこそある。そういうことを超越的に直観する、と書いて……。
 私は、これを「直観は超越的である」と書き直したくなる。書きながら、そう書くべきだったと思いなおす。
 このとき、なぜか私は道元を思い出している。道元は、たとえば「超越的に直観する」という文章に向き合ったとき、ことばの順序を入れ換えて「直観は超越的である」という風に書き換えていないか。「直観即超越」「超越即直観」。ことばは、いれかわることでさらに強く結びつく。区別がなくなる。融合する。「即」は「透明」かもしれない。
 「父は碁石が峰を見ていた」を私自身の肉体で反復し直したとき、「死」を破壊して、何かが瞬間的に見えた。それが、私の父が私に残してくれたものである。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(8)

2024-02-08 13:13:58 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第七巻。「ボリス的人間の倫理学」。この本は、和辻によれば、先人の研究などをたよりに、その考えを「まとめたものにすぎない」(「序」、153ページ)。だから、これは意地悪い見方をすれば「剽窃」の部類かもしれないが、こうしたことを「剽窃」と呼ばないのは、林達夫の「タイスの『饗宴』」が書いている通り。林達夫と和辻は、この「剽窃」かどうかをめぐる「構想力」という考え方で共通していると思う。また、人間の「構想力」を考察するときに、個人を社会に還元しながらとらえるところで共通すると私は感じている。
 その「構想力」について、和辻は「構想力」ということばをつかっているわけではないのだが、183ページに、こんなことを書いている。

ポリスは(略)部族と部族との結合によって漸進的に成ったものとはいえない。それはむしろ氏族や部族の崩壊、従って氏族的段階からの飛躍によって、すなわち否定の契機の入り来たることによって、できあがったのである。

 「飛躍」を生み出すのが「構想力」であり。そして、その「飛躍」には、すでに存在するものを「否定する」ことによって成り立っている。先人の研究をまとめるとき、それをただ単に「集める」のではなく、あるものは「否定し」、あるものは肯定し、整理し(まとめ)、まだだれも書いていない「世界」へ「飛躍」するのである。「飛躍」するためには、「構想力」が必要なのだ。
 そして、この「構想力」を補足するのに、和辻は「原理」ということばをつかっている。途中を省略するが、こうつづいている。(183ページ)

ポリスは単に氏族が拡大されただけのものではなく、氏族の否定において、氏族と異なった原理によって発展してきたのである。

 その「原理」を見出すために、和辻はことばを動かしているとも言える。
 何かを「否定する」とき、その根拠になるのは、それまでと「異なった原理」である。「構想力」はその「原理」を直観的にとらえている。ここから「個人」というものの存在が浮かび上がるのだが、書いていると複雑になるので、きょうは省略。ただ、この「個人」が「倫理」と関係していることは、和辻の文章を読めば、おのずと理解できる。和辻は、こんな文章を書いている。(199ページ)

ポリス的人間はポリスにそむいて個人となることができる。この否定の契機にこそ倫理学が発生する地盤が存在するのである。

 私は、ここでも「否定の契機」ということばがつかわれていることに注目しているのだが、210ページには、こんな文章もある。

ポリスが人倫的組織であり、人倫の実現であるということは、私的存在の主張によってかえって明らかにされる。(略)ポリス的正義の意義は、私的な正義の主張と対比されることによってかえって発揮されるのである。

 「倫理」とは、そこに何らかの「飛躍」を含む、「原理」とはなんらかの「飛躍」を含むものである。そして、そこには「構想力」が常に働いている。
 どこに書いてあったか、急いで読み返していると見つけられないのだが、どこかに「道」ということばがあった。「道」は「倫理」であり、それは「生き方」でもあるだろう。私はいつでも「古寺巡礼」に出てきた「道」に引き戻される。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(7)

2024-02-06 17:45:27 | こころは存在するか

 「日記」を書くというのも、なかなか時間がかかる。書きたいことはたくさんあったのだが、時間がとれない。

 和辻哲郎全集第七巻。「原始キリスト教の文化的意義」を読む。私はキリスト教徒ではない。和辻もキリスト教徒ではない。だから、キリスト教を、あるいは「聖書(新約、旧約)」を「宗教」としてではなく「作品(文学)」として読み進み、そこからことばを展開する。聖母マリアについて書いた部分がとても刺戟的だ。
 聖母マリアを「想像の所産」と断定し、こう書いている。

本質の把握にとっては、与えられているものが知覚的経験的に与えられているか、あるいは想像力によって与えられているかは問わない。(147ページ)

 聖母マリアが「歴史的人物」ではない、つまり「事実」ではないとしても、そこに「本質」があれば、それで問題ではない。人間にとって重要なのは「本質」であるということなのだが、そのときの「本質」は、どんな根拠に基づくか。
 「経験」ではなく、「本質的直観」である、と和辻は言う。
 人間が、母を経験する。母と子の愛を経験する。それは個別的な体験である。それが「普遍(完全なるもの)」にどうやって変化するのか。「直観」によってである。
 こんなふうにも書いている。

我々は現実の世界において完全なるものを経験することはできない。すなわち現実の世界には完全なるものは存在しない。(略)個々の母を経験しながら「母一般」を直観し、それをさらに他の直観と結合しつつ、ついに「処女にして母」なるものにおいて完全なる愛と美を直観するに至るのは、内に働くイデーのしわざでなくてはならない。(148、149ページ)

 「イデー」とは何か。
 私は「こころ(精神)」が存在しないと考える人間である。「イデー」も「精神」のようなものではなか、と考えると、和辻のことばを頼りに自分のことばを動かしている私の文章は矛盾していることになるのか。
 だが、私が頼りにしているのは、その「結論」ではない。
 いま引用した文章で言えば「内に働くイデー」とよりも、私は「現実の世界には完全なるものは存在しない」ということばの方につよく刺戟を受けている。「完全なるものは存在しない」なら、「イデー」も存在しない。それは「現実の世界」ではない。
 存在するのは「構想力」、あるいは「想像力」であり、しかもそれは「直観」なのである。論理的根拠を持たない。では、何を根拠とするのか。「肉体」である、と私は考えたいのだが、その「通路」というか「方便」は、まあ、見つからないなあ。
 しかし、手がかりはあるかもしれない。
 和辻は「内に働くイデー」と書いている。「イデーは働く」と読み直してみる。「イデー」は固定してない。「動く」だけでなく「働く」、つまり動詞であり、なおかつ何かに作用するときの動詞である。あらゆる「動詞」は肉体とともにある。「飛ぶ」という人間にはできないことさえ、「できない肉体」とともにある。もちろんこの「できない」を「できる」に変えるのが、たとえば飛行機であるが、そのために人間は「肉体」を動かし、素材に「働き」かけ、いままで存在しなかったものをつくる。
 「こころ(精神)」ではなく、ただ「肉体」だけが「現実」として存在する。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする