goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころ(精神)は存在するか(6)

2024-01-30 15:39:10 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第六巻。「ホメーロス批判」の125ページに「まとめなおす」ということばが出てくる。「まとめる」という動詞と「なおす」という動詞が組み合わさったことばである。「イリアス」を完成させたのは誰か。複数の人間が、現在残っている形に「ととのえおなした」のではないか。そこには複数の人物の「構想力」が交錯しているのではないか。
 この「まとめる」という動詞は170ページにも登場し、「まとめなおす」は171ページでは「整理して」「編み込む」という形で出てくる。
 私が「構想力」ということばで呼んだものを、和辻は「見渡す」ということばをつかいながら「全体の構図を見渡す」(177ページ)と書いている。「全体の構図(全局ということばが178ページにある)」を見渡す力が「構想力(和辻のつかっている構図ということばのなかに、同じ構という漢字がある)」である。「見渡す」そのものは(175ページ)に出てきて、それは「見とおす」(183ページ)ということばにもつながっている。
 和辻の文章の基底には、いつも肉体の動き、具体的な動詞が存在する。
 「編み込む」という動詞に関連しては、195ページで「手の働きが見出せる」と書いている。和辻には、「手」が見えるのである。「頭の動き」ではなく、「手の働き」として、ことばをとらえているのである。精神の動き、こころの動きというような、抽象的なものではなく、あくまで「手の働き」に引き戻して、ことばと肉体をつないでいるように感じる。私が和辻の文章に惹かれるのは、それがあるからだ。
 ついでに書いておくと、和辻は「手の動き」ではなく「手の働き」と書く。「動く」は単独で可能だが、「働く」という動詞は「相手(対象)」が必要である。そこには「具体的な接触」がある。自分の肉体が、何かと「接触」し、それを「動かす」。それは逆に言えば、「対象(相手)」しだいで、自分自身の「働き方」を変えないと何もできないということでもある。「働く」ということは、自分自身が変化することでもある。

 このことと関連すると私は考えているのだが、和辻は「思想」ということばを否定的な意味合いでつかっている。168ページ。

この作者にあるのは人間の運命が神々に支配されているという「思想」だけであって、神々の世界と人間界という二つのことなった世界の並行的なヴィジョン(幻視)ではない。

 和辻は、「思想」と鍵括弧付きで、このことばをつかっている。「固定化された考え方」(規定の考え方、動きのないもの)という意味であるだろう。それは「意図(結論が想定されている)」につながるかもしれない。動く「思考」ではなく、動いたにしろ「結論」が判明している何か、それにつながるものが「思想」である。そこでは、自分は動いていかない、変化しない。
 ここから、もう一度、43ページのことば読み直してみる

 Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができた

 「思想」とは「哲学」である。「約束された世界(結末)」である。一方「文学」には「約束された結末」がない。ただ「構想力」があるだけで、それはどこへ動いていくかわからない。人間が、生きて、動いていく。
 和辻は文学の登場人物に人間の動きを見ると同時に、その作者にも「肉体の動き」を見ている。「まとめなおす」「見渡す」「見とおす」「編み込む」「手の働きが見出せる」ということばが、それを語っている。
 人間に精神とかこころとか呼ばれるものがあったにしろ、それは「目(で見る)」とか「手(で編む)」とか、肉体の動きに還元できるものである。

 これは、逆の言い方もできる。和辻のことばではないが、百人一首の平兼盛の歌、「忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。恋(こころの動き)は色(素振り、態度)になって、人にわかってしまう。見られてしまう。どんなときにも、人間には「肉体」がある。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(5)

2024-01-27 22:29:22 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第六巻。43ページ。「ホメーロス批判」の「序言」にケーベル先生のことばを引用している。

 Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができた

 これは、和辻自身が自分の体験を語っていることばのようにも思える。
 私が和辻の文章を読むのは、それが「文学」でもあるからだ。私のつかっている「文学」ということばは、引用した文章に出てくる「文学」とはかなり意味が違うと思うが、まあ、気にしない。
 私は「学問」として和辻を読んでいるわけではないのだから、そういうことは気にしないのである。

 この文章で印象に残るのは、「哲学」「文学」ということばと同時に「約束」ということばである。
 「約束」とは何か。
 「論理的結論」と言いなおすことができるかもしれない。「哲学」は「結論」を持つ。しかし「文学」は「結論」を持たない。「おわり」があるが、それが「結論」とは言い切れない。
 「哲学」が「論理」だとすると、「文学」とは何か。
 和辻がよくつかうことばを借りれば「人格」かもしれない。「人格」は「結論」を持たない。しかし、その「結論」のない「人格」から受け取るものは非常に多い。和辻がケーベル先生から受け取ったのも「人格的影響」だろうと思う。
 「人格」の定義はむずかしいが、「人格」を含む文章に、こういうものがある。18ページ、「ケーベル先生」。

目下の者への高慢を「心根の野卑下劣」とし、人の真の教養と気高さとが小さきものへの態度において認識せられるとした先生自身の人格のしわざである。

 「人格のしわざ」の「しわざ」ということばが強い。それは「こころ」の動きというよりも、人間の肉体の動き(態度)そのもののように、私には感じられる。ひとは態度(肉体の動き)に肉体の動き(態度)で反応する。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こころ(精神)は存在するか(4)

2024-01-22 12:09:56 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第五巻。545ページ。

法華経は文学と哲学との合い子であって、純粋の文芸作品でもなければ、また純粋の哲学書でもないのである。同じようなことはプラトーンの対話篇についても言える

 読みながら、これは和辻の文章についても言えるのではないか、と思う。和辻の文章には、文学的魅力と哲学的魅力がある。逆に言った方がいいかもしれない。哲学的魅力と文意学的魅力がある。別な言い方をすると、哲学(論理)を追究して言って、ある瞬間に、論理を打ち破って感覚が世界を広げる瞬間がある、と私は感じる。そして、その感覚が押し広げた世界は、いままで存在しなかった論理を待っている感じがする。論理の予感がある。
 いま引用した文章にプラトン(対話篇)が登場するが、これも私が和辻に惹かれる理由である。私はいつでもプラトンを読み返したい。ここ何年か、毎年正月一日にはプラトンを読む。プラトンのことばを追いかけるのは、とても楽しい。

方便はあくまでも実践上の必要として出てくるのであって、理論上の必然としてではない。

 551ページの、このことばにも私は傍線を引いた。それは、こんなふうにつづいている。

諸説が一つの統一に達するとすれば、それは説かれた法における内容的な統一ではなくして 、むしろ法を説くブッダにおける主体的な統一だといわざるを得ない。

 「実践」は「主体的統一」と言いなおされている。「主体的統一」をもって行動(実践)するとき、そこには論理(法)ではなく「方便」が動く。「方便」とは「個別の事情」と言いなおされるかもしれない。
 「個別の事情」をそれぞれの個人の「肉体」と言いなおし、「法(論理)」を「こころ」と言いなおせば、そこからやはり「こころは存在しない(存在するのは肉体だけ)」というところへ、私のことばは動いていこうとするのだが、これは私が私自身で納得していることであって、他人を納得させる形では書き直すことはできない。
 このことと直接的な関係(論理的脈絡)を追うことは難しいのだが……。557ページ。

主題が動因であって、それが事件を産んで行く

 というのも、印象に残る。「動因」は「主体的統一」であろう。それが「肉体」だからこそ、そこには「事件」が起きる(生まれる)。和辻は、「生まれる」ではなく「産んで行く」と書いている。たしかにそれは「肉体」が「産んで行く」ものである。
 それは、どういうことかというと。560ページ。

思想の叙述を目ざしているプラトンの対話篇に対話者として現われてくる諸人物は、いずれも実に躍如として生きているように思われる。

 「主体的統一」は「生きる」ということなのである。

 きょう最初に引用した文章、文学(文芸)と哲学との融合は、558ページ以降の部分に結晶のように輝いている。

その展開は、いわば内へ渦を巻いて行くような展開であった。(略)それは思想の論理的展開ではないが、しかしそれによって思想的主題は著しく力を高めてくるのである。

 「思想」が人間の形をして動く。これは和辻の文章から私が受け取る印象そのものである。

 

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

精神(こころ)は存在するか(3)

2024-01-20 21:16:28 | こころは存在するか

 和辻哲郎全集第五巻の464ページ。

最後の一句は、乗門道人親戚工師細民とあって、わたくしにはちょっと読みこなせないのであるが、

 この「読みこなせない」ということばが、とてもおもしろい。「読めない」ではない。「読む」ことは、読む。
 このとき、いったい何が起きるのだろうか。
 先の引用とは直接関係があるわけではないのだが、476ページには、こういう表現がある。

思うにこの答えはそういう矛盾を示そうとするものではないであろう。

 「思うに」ということばがある。
 強引に言えば、「読みこなせない」とき、その「読みこなせない」部分を「思う」のである。想像するのである。「思う」ことで「道」をつくる。
 497ページには、こんな文章がある。

古い形の法華経を一つの作品として鑑賞し、分析し、この作品の構造や、その根底に存する想像力の特性等を明らかにしなくてはならない。

 和辻が「思う」のは、ある作品の「想像力」について「思う」のである。和辻が「読みこなしたい」と思っているのは、その作品の「想像力」の動きである。このときの「想像力」とは「道」のつくり方だろう。違った存在をイコール(=)で結びつける「想像力」。そして、ある作品が完成したとき、そこには何と何がイコールであるかは「説明」されず、ただ完成した形だけがある。形のなかに、想像力は消えてしまっている。
 消えてしまっている想像力を明らかにするために、さまざまな分析をするのである。さまざまな「ことば」を動かすのである。
 逆に言えば「読みこなせない」とき、そこには和辻の知らない「想像力」が動いており、だからこそ和辻は強引に「読みこなせない」けれども、読みこなしにかかるのである。

 「読みこなす」は「読み熟す」と書くかもしれない。「熟す」は「うれる」でもある。うまく「うれる(熟す)」のは、そのとき、和辻の「想像力」かもしれない。「熟す(こなす=うまく処理する)」と「熟す(うれる)」が、入れ代わるようにして交錯する。そういうことが起きるかもしれない。「熟す(うれる)=熟す(こなす)」、つまり「熟す(うれる)即熟す(こなす)」へ向けて、和辻の想像力(思う)は動くのである。
 この瞬間がおもしろい。言いなおすと、和辻が「わかっていること」を書くときよりも、「わかっていないこと(読みこなせないこと)」を書くとき、そこに、とても魅力的なことばの運動が展開するのである。
 「古寺巡礼」のどの部分がそれにあたるか、いま私は的確に指し示すことができないけれど、私が和辻の文章にひきつけられるのは、そうしたことばの運動を随所に感じるからである。

 もうひとつ。
 きょう読んだ部分では、489ページに、こんな文章が出てくる。

道元の著書は仏教哲学史の一通りの理解なしにはこれらの高僧の思想に近づくことの無謀なのを教えたが、さてその哲学史に触れようとすると、ギリシアの哲学があの戯曲的に優れた対話の中から流れ出てくるように、大乗仏教の哲学があの巨大な交響楽のような法華経から流れ出てくるのを、無視するわけには行かなかった。

 道元とギリシャ哲学の関係を書いたものではないのだが、私は、妙にこの文章が印象に残る。「ギリシアの哲学」ということばが唐突に挿入されていることに刺戟を受ける。それは、私がプラトン(ソクラテスと言ってもいいのかもしれない)に惹かれることと関係しているのかもしれない。私はどこかでプラトン(ソクラテス)と道元が出会う「場」を探しているのかもしれない。そして、その「手がかり」を和辻の文章に感じているのかもしれない。 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

精神(こころ)は存在するか(2)

2024-01-19 21:41:18 | こころは存在するか

 和辻哲郎を読んでいると「道」ということばが、しばしば出てくる。「道」に最初に出会ったのは『古寺巡礼』だった。仏像や寺を見て回るのだが、仏像や寺の印象を語るまえに「道」が出てくる。「二」の部分で、和辻の父が「お前のやっていることは道のためにどう役立つのか」と問う。和辻は、それに即答はしないのだが、このやりとりが私の頭の中にいつまでも残っている。私は私の父から「お前の道はどうなっているのだ」というようなことは聞かれたことがないが、まるで自分が質問されているように感じてしまう。

 「道」とは何か。

 いろいろな答え方があるだろうが、(和辻の父の問いから飛躍するが)、きのう書いた「肉体=ことば=世界」を利用して言えば、このイコール(=)が道である。きのうは、それを「法」と書き換えたが、肉体とことばと世界の関係を成り立たせているのが「道」である。
 「道」は、あるときはある場所と別の場所をつないでいる。長いときもあれば短いときもあるが、ようするに「道」によってふたつの存在が結びつく。結びついた瞬間に「距離」は消える。「距離」を消してしまう、その結びつきが「道」。結びつきが「道」なのだけれど、結びついた瞬間「道」は消えてしまう。(それは「色即是空」の「即」に非常に似ている。)

 「道」には、時には「言う」という動詞が割り振られることもある。「言う」を名詞にすれば「ことば(言葉)」になるだろう。(「言葉」のなかに「言う」がある。)

 死ぬまでにもう一度読んでおきたいと思い、七十歳になったときから、中井久夫、林達夫、和辻哲郎と読み進んできた。三人の系列に、私は三木清も含めているのだが、この四人のことばは私のなかではつながりがある。
 中井久夫は、統合失調症について「目鼻のつかない病気などあるものか」と言ったが、このときの「目鼻をつける」が「道をつける」かもしれない。三木清は「構想力」ということばをつかうが、この「構想力」が「道」である。林達夫ならば「想像力」か。和辻も、類似のことばをつかう。ことばをとおして、そこに存在しなかったもの(意識化できなかったもの)が具体的に存在し始める。それを支える「力」。

 私は和辻の文章がとても好きなのだが、それには理由がある。和辻は、なんといえばいいのか、「専門外」の分野に足を踏み入れる。もちろん、その分野の勉強もするのだけれど、専門家から比べると、いわゆる「知識」が足りない。(専門家から、批判を受けている。)けれども、和辻は「間違い」をおそれずに、「未知」の部分を和辻の肉体のなかに動いているいのちを頼りに突き進んでいく。そこに、専門家がたどらなかった「道」ができる。
 「未知」がことばを動かすことで「道」になる。それは専門家から見れば「間違った道」かもしれないが、間違いというよりも専門家が見落としていた「可能性」であり、そこにはいつも「いのち」が存在している。「間違い」は、ある意味で「いのちの必然性」でもある。生まれてこなければならない、何かが、そこにはある。
 「道」は「いのち」なのである。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

精神(こころ)は存在するか(1)

2024-01-19 00:00:51 | こころは存在するか

2024年01月018日(木曜日)

精神(こころ)は存在するか(1)

 「精神(こころ)は存在するか」というのは、私がいつも考えていることである。考えがまとまってから書けばいいのかもしれないが、まとまるまで待っていたら書くことができないと思うので、(その前に死んでしまうと思うので)、少しずつ書いていくことにする。

 仏教というのか、東洋思想と呼べばいいのかよくわからないが、五感+心(意識)で世界を把握する。目耳鼻舌身は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それは独立している。それを統合するものとして「意識(精神/こころ)」があるというのだが、どうして「意識(精神/こころ)」という目に見えないものを持ち出すのか、これが私には疑問なのである。
 なぜ「頭(脳)」を目耳鼻舌身に追加し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚+ことば(意識=知覚)という「構図」にしなかったのか。仏教が誕生したころは脳は頭のなかに隠れていて見ることができない(触ることができない、存在を確認できない)から、目に見えない「精神(意識/こころ)」を割り振ったのか。そうだとしても、脳の存在が誰にもわかるものとして認識されてからも、その脳(頭)を組み込む形で、それまでいわれてきている仏教思想(東洋思想)を再編成しようとしないのはなぜなのか。
 私は、何も知らない人間の大胆さで、「目耳鼻舌身頭(脳)」と「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、知覚(ことば=精神/こころ)」という「構造」で「世界」を整理し直したいと思っている。
 私は、「一元論」を、私なりに書いてみたいと思っている。
 私の「一元論」は簡単に言いなおしてしまうと、世界に存在するのは「私という肉体」だけであり、そのほかのものは「私の肉体」が、そのときそのときの必要に応じて、「存在すると知覚したもの/知覚しようとしているもの」ということになる。
 コップがある。水がある。そう認識する(知覚する)とき、それは「私という肉体」がコップや水を通してことばを動かし、何かを考えたいと思っているからである。別なことばで言えば、そのとき動いたことばの範囲(領域)が「世界」であり、コップや水を書いている瞬間、花や太陽は存在しない。花や太陽は存在しないと書いた瞬間(ことばにした瞬間)、存在するものとしてあらわれてくる。「肉体」は「ことば」とともにあり、「ことば」とともに、その瞬間瞬間に「世界」は形を変えながら存在する。
 こういうことを「無常」というのではないか、あるいはこの「肉体=ことば=世界」というときの「イコール(=)」を「法」と呼べばいいのではないか。

 結論(?)を先に書いてしまうと、もう書くことはないなあとも思うのだが、その「結論」までの「道筋」をどうデザインしていけばいいのか、よくわからない。よくわからないが、それを書きたいと思っている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする