和辻哲郎全集第六巻。「ホメーロス批判」の125ページに「まとめなおす」ということばが出てくる。「まとめる」という動詞と「なおす」という動詞が組み合わさったことばである。「イリアス」を完成させたのは誰か。複数の人間が、現在残っている形に「ととのえおなした」のではないか。そこには複数の人物の「構想力」が交錯しているのではないか。
この「まとめる」という動詞は170ページにも登場し、「まとめなおす」は171ページでは「整理して」「編み込む」という形で出てくる。
私が「構想力」ということばで呼んだものを、和辻は「見渡す」ということばをつかいながら「全体の構図を見渡す」(177ページ)と書いている。「全体の構図(全局ということばが178ページにある)」を見渡す力が「構想力(和辻のつかっている構図ということばのなかに、同じ構という漢字がある)」である。「見渡す」そのものは(175ページ)に出てきて、それは「見とおす」(183ページ)ということばにもつながっている。
和辻の文章の基底には、いつも肉体の動き、具体的な動詞が存在する。
「編み込む」という動詞に関連しては、195ページで「手の働きが見出せる」と書いている。和辻には、「手」が見えるのである。「頭の動き」ではなく、「手の働き」として、ことばをとらえているのである。精神の動き、こころの動きというような、抽象的なものではなく、あくまで「手の働き」に引き戻して、ことばと肉体をつないでいるように感じる。私が和辻の文章に惹かれるのは、それがあるからだ。
ついでに書いておくと、和辻は「手の動き」ではなく「手の働き」と書く。「動く」は単独で可能だが、「働く」という動詞は「相手(対象)」が必要である。そこには「具体的な接触」がある。自分の肉体が、何かと「接触」し、それを「動かす」。それは逆に言えば、「対象(相手)」しだいで、自分自身の「働き方」を変えないと何もできないということでもある。「働く」ということは、自分自身が変化することでもある。
このことと関連すると私は考えているのだが、和辻は「思想」ということばを否定的な意味合いでつかっている。168ページ。
この作者にあるのは人間の運命が神々に支配されているという「思想」だけであって、神々の世界と人間界という二つのことなった世界の並行的なヴィジョン(幻視)ではない。
和辻は、「思想」と鍵括弧付きで、このことばをつかっている。「固定化された考え方」(規定の考え方、動きのないもの)という意味であるだろう。それは「意図(結論が想定されている)」につながるかもしれない。動く「思考」ではなく、動いたにしろ「結論」が判明している何か、それにつながるものが「思想」である。そこでは、自分は動いていかない、変化しない。
ここから、もう一度、43ページのことば読み直してみる
Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができた
「思想」とは「哲学」である。「約束された世界(結末)」である。一方「文学」には「約束された結末」がない。ただ「構想力」があるだけで、それはどこへ動いていくかわからない。人間が、生きて、動いていく。
和辻は文学の登場人物に人間の動きを見ると同時に、その作者にも「肉体の動き」を見ている。「まとめなおす」「見渡す」「見とおす」「編み込む」「手の働きが見出せる」ということばが、それを語っている。
人間に精神とかこころとか呼ばれるものがあったにしろ、それは「目(で見る)」とか「手(で編む)」とか、肉体の動きに還元できるものである。
これは、逆の言い方もできる。和辻のことばではないが、百人一首の平兼盛の歌、「忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。恋(こころの動き)は色(素振り、態度)になって、人にわかってしまう。見られてしまう。どんなときにも、人間には「肉体」がある。