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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(29)

2013-08-24 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(29)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)


 「ココロノコト」という作品に私は驚いてしまった。

たどたどしい日本語でその大男は
「ココロノコト」と言ったのだ
「ココロノコトイツモカンガエル」

 ほんとうのことなのだろうか。何語かわからないが、「ココロノコト」の「コト」を、たとえば英語ではどういうのだろう。外国語に、この文脈でいう「コト」はあるのだろうか。
 私の印象(直観)では、「こころのこと」の「こと」は日本語特有のものに思える。「こころのこと」は単なる「こと」ではなく、こころななかで「起きている」こと、つまり、「こと」は名詞だけれど、問題の焦点は「起きている」という動詞なのではないか。
 翻訳は、時々、その国語によって、動詞派生の名詞を動詞に活用させて訳したり、動詞を名詞化して訳したりすると文脈が落ち着くことがある。
 ちなみに、「私は心の中で起きていることをいつも考える」をgoogleに翻訳させると「I think all the time what is happening in the mind.」、「私はこころのことをいつも考える」は「I think always that of the heart.」である。

心事という言葉は多分知らない男の
心事より切実に響く<心のこと>
柔和な目をした大男は言う
「カミサマタスケテクレナイ」
世界中の聖地を巡る旅を終えて
妻子のもとへ帰るという
故郷の町で不動産業を営むとか

 「心事」ということばは、私は知らなかった。漢字なので読めば「意味」の見当はつくが、聞いたことがない。初めて知った私が言うと変かもしれないが、

心事より切実に響く<心のこと>

 これって、「大男」にとって「切実」じゃないよね。知らない人間は、比較のしようがない。谷川にとって「切実に」響いた。
 その「切実さ」は、大男の切実さと「ひとつ」かなあ。よくわからないのである。

すき―谷川俊太郎詩集 (詩の風景)
谷川 俊太郎
理論社
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谷川俊太郎『こころ』(28)

2013-08-23 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(28)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「裸身」という作品。

限りなく沈黙に近いことばで
愛するものに近づきたいと
多くのあえかな詩が書かれ
決して声を荒らげない文字で
それらは後世に伝えられた

 「限りなく沈黙に近いことば」は、きのう書いた「直接」と置き換えられるかもしれない。「直接」近づけることばで近づきたい。「直接」近づきたい。そして、この「直接」が「裸身(裸)」。だから、1、2行目は「裸で愛する人に近づきたい」ということになるかもしれない。いや、まちがい。「裸のことばで愛する人に近づきたい」。
 でも、裸に近いことばって、どんなことば?

口に出すと雪のように溶けてしまい
心の中でしか声に出せないことば

 なるほど、そうかもしれない。でも、それにつづくことばが、私にはよくわからない。

意味を後ろ手に隠していることばが
都市の喧騒にまぎれて いまも
ひそかに白い裸身をさらしている

 「限りなく沈黙に近いことば」と「意味を後ろ手に隠していることば」は、私の中では「ひとつ」にならない。「直接」と通い合わない。「ひそかに(白い裸身を)さらしている」も、「直接」とはうまく結びつかない。なぜ、「ひそかに」なのだろう。「さびしく」なら「直接」を否定されて「さびしく」とつながるし、「沈黙(する孤独)」とも通い合うように思うが・・・
 私はこの詩を完全に読み間違えているにかな?

ミライノコドモ
谷川 俊太郎
岩波書店
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谷川俊太郎『こころ』(27)

2013-08-22 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(27)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「目だけで」には不思議な矛盾がある。

手も指も動かさずふんわりと
目であなたを抱きしめたい
目だけで愛したい
ことばより正確に深く

 「目だけで愛したい/ことばより正確に深く」とことばでしか言えない矛盾。これは矛盾ではなく、ジレンマみたいなものかな。
 不思議なことに、ここに書いてあることが、わかる。
 そのとき、私は「何で」わかっているのだろう。ことばで? あるいは目で? たぶん、誰かをみつめた記憶によって。それは、ことばにならずに、肉体の奥に残っている。その覚えていることが、谷川のことばによって引き出されてくる。この感じが「わかる」だ。

 しかしことばは「正確」ではないのだろうか。ことばは「深く」ないのだろうか。――と、考えると、わけのわからないところにはまり込む。
 目は、ことばを通らずに、直接、あなたに触れる。その「直接性」を谷川は引き出そうとしているのかもしれない。何かを仲介としないということは、仲介による「誤謬」を排除することであり、それが「正確」と呼ばれているのだ。仲介をはじょすると、距離が縮まる。その縮まった感じを「深く」と感じるのは、縮まった分だけ相手の中に入ってゆく感じがするからかな?
 考え方はいろいろできるだろうけれど(意味、論理なんて、適当につなぎ合わせられるだろうけれど・・・)、

目だけで「直接」愛したい

 と、そこに「直接」があるのだと考えてみる。そして、その「直接」が省略されているのは、その「直接」が、谷川にとってわかりきったことだから、と考えるなら――私がいつも主張しているキーワードが、「直接」ということになる。「キーワードはいつも省略される。筆者にはわかり切っているので、書く必然性がない。そして、そのキーワードはあらゆるところに補うことができる。」
 やってみよう。

手も指も動かさず「直接」ふんわりと
目であなたを「直接」抱きしめたい

 2連目は、もっと「直接」が省略されながら、見えないところでことばを(思想を/肉体を)統合していることがわかるかもしれない。「直接」を補った形で引用してみる。

そう思っていることが
見つめるだけで「直接」伝わるだろうか
いまハミングしながら
洗濯物を干しているあなたに「直接」

 「直接」のなかで、ふたりは融合する。区切るもの(区別するもの)がないのが「直接」なのだから。


みみをすます
谷川 俊太郎
福音館書店
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谷川俊太郎『こころ』(26)

2013-08-21 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(26)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「ペットボトル」の1連目。

中身を飲み干され
空になってラベルを剥がされ
素裸で透き通るペットボトル
お前は美しい と心は思う

 最後の「心は思う」は、なぜ書いてあるのだろう。ないと意味は通じない? 言い換えると、ペットボトルは美しくなくなる? そんなことはないね。
 では、なぜわざわざ書いたのだろう。
 「心」を強調したかった。ペットボトルを書いているふりをして、こころはこころの「理想」を描きたかった。中身がなくて、ラベルもなくて、丸裸で・・・「無心」ということかな?
 「無心」って、どういうこと?

何ひとつ隠さない肌の向こうで
コスモスがそよ風に揺れて
空っぽのペットボトルは
つつましくこの世の一隅にいる

 無心は「つつましくこの世の一隅にいる」ことではなくて、そんな自覚もなくて、「コスモスがそよ風に揺れて」いること。自分だはなくなって、別の存在をあるがままに世界の中心に引き出してくることだ。
 ペットボトルをテーブルの上において、その向こう側に、「コスモスがそよ風に揺れて」いるのを見つめたくなる。そのとき私はペットボトルだろうか。谷川俊太郎だろうか。コスモスだろうか。

ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る
谷川 俊太郎,山田 馨
ナナロク社
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谷川俊太郎『こころ』(25)

2013-08-20 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(25)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心の色」を読む。

食べたいしたい眠りたい
カラダは三原色なみに単純だ
でもそこにココロが加わると
色見本そこのけの多様な色合い

 あ、三大欲望は「カラダ」が主張(?)するんだ。
 谷川は簡単に体とこころの二元論から出発しているようにも見えるけれど、「色見本そこのけの多様な色合い」に変化するのはカラダだから、どこかでしっかり結びついていることになる。
 単純な二元論ではないね。
 だとしたら、たとえば逆は言えないのかな?

食べたいしたい眠りたい
ココロは三原色なみに単純だ
でもそこにカラダが加わると
色見本そこのけの多様な色合い

 ココロが食べたいと思ってもアレルギーがあり食べられない。したくても肉体的に不可能。眠りたいと思っても目は覚めたまま…うーん、こっちの方が「現代」とシンクロしそうだなあ・・・
 よくわからない。
 よくわからない、といえば、さっき私は1連目の最後の「色合い」がかわる「主体」をカラダと書いたのだが・・・

その色がだんだん褪せて
滲んで落ちてかすれて消えて
ココロはカラダと一緒に
もうモノクロの記念写真

 あれっ、主体はカラダからココロになっている。1連目の最後も、カラダにココロが付け加わるとき、反作用のようなものがあり、ココロの色が変わるということか。
 この主体の移行には、谷川はカラダとココロを比較したとき、ココロを優位に置いているという無意識が隠れているかもしれない。

いっそもう一度
まっさらにしてみたい
白いココロの墨痕淋漓
でっかい丸を描いてみたい

 3連目では肉体はみあたらない。「描く」というがあるから、そこのかろうじて肉体が残っているかな?
 カラダが消えると、急に、抽象的、観念的になった気がする。墨で丸を描くというのは禅宗かな? こんなことを考えるのは「意味」にとらわれているということだね。

 「意味」が強く残る詩だ。


あさ/朝
谷川 俊太郎,吉村 和敏
アリス館
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谷川俊太郎『こころ』(24)

2013-08-19 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(24)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「隙間風」は男女の間のちょっとした気まずさを書いている。

あのひとがふっと口をつぐんだ
昨夜のあの気まずい間
わたしが小さく笑ってしまって
よけい沈黙が長引いた

 「わたし」を私は男(谷川)ではなく女と読んだ。それはほとんど無意識に、である。どうしてかなあ。「あの人」といういい方が女っぽい? そうだとしても、何のためらもなく「わたし」を女と読んでしまうとしたら、私の日本語の肉体の中にはずいぶん「男女の区別(男女差別?)というものが組み込まれていることになるなあ。谷川はどうなのかな? 自然に男女によってことばをつかいわけているのかな?

最後の連でも、「わたし」に、私は女を感じた。

水気なくした大根のように
煮すぎた豆腐のように
心のスが入ってしまった
今朝のわたし

 料理に関することばが出てくるので私はしらずに「わたし」を女だと思うのだが、これは冷静に考えるとおかしい。男が料理をしてもいいし、料理から「比喩」を引っ張り出してもいいはずだ。暮らしの細部をていねいに生きていたら、そういうことは難しくはないはずである。
 でも、もしこの詩の「わたし」が男だとしたら、という問題を考えると難しくなる。ことばを読むとき、私はまず自分の無意識を点検しなくてはならない。これはできないなあ。無意識なので、どこに気をつけていいのかわからない。

 谷川は、詩を書くときどうしてるんだろう。「わたし」を女と決めて、女の視点で「比喩」の材料を集めたのかな? そのとき、その「比喩」を女のものと判断したのは谷川自身の感覚? それとも「流通概念」がその「比喩」を女のものと判断していると知っているから?
 こういう問題はフィクションを前提としている小説では起きないね。「女の感覚がきちんと描かれている、女をよく見ている」と好意的に受け止められるだろうと思う。
 詩も、同じ基準で読んでいいと思うけれど、そういう習慣はまだまだ確立されていない。これは逆にいうと、男の詩人が女になって、女の詩を書くということが確立されていない、一般的な方法と詩って認知されていないということになるが・・・
 谷川は、そういう一般的な認知の問題を軽々と越えてしまっているように思える。不思議だなあ。
 (もし岡井隆や鈴木志郎康が「隙間風」を書いたら、びっくりするでしょ? 谷川だとなぜびっくりしないのだろう。)

写真
谷川 俊太郎
晶文社
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谷川俊太郎『こころ』(23)

2013-08-18 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(23)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「旋律」の第1連。

わずか四小節の
その旋律にさらわれて
私は子どもに戻ってしまい
行ったことのない夏の海辺にいる

 さっと読んでしまうけれど不思議。旋律が「私」を過去に引き戻す。けれどその過去は知らない過去。知らなくても、それは私の過去? そういえる根拠は? 私の肉体の連続性。でも、子どもと私はほんとうに連続した「ひとり」か。
 2連目にも、少し似た表現がある。

パラソルをさした母親は
どこか遠くをみつめている

 どこか、とはわからないという意味。知らない(行ったことのない)に似ている。知らない、わからない――ということのなかにも、何かわかること、知っていることがある。
 そして、それは教えられたからではない。肉体が覚えていることなのだ。おぼえていることがよみがえる。
 遠くを見つめる母の気持ち――それは、「いま」わかるだけではなく、子どものときにもわかったのだ。遠くの意味も。ただし、「どこか」はわからない。わからないのに「どこか」であることもわかる。「ここではない」ということが・・・
 3連目。

前世の記憶のかけらかもしれない
そこでも私は私だったのか

 あ、むずかしいなあ。私ではないかもしれない。母親だったかもしれない。
 だれであったにしろ、「いのち」だった。「肉体」につながる「いのち」だった。



じぶんだけのいろ―いろいろさがしたカメレオンのはなし
レオ・レオニ
好学社
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谷川俊太郎『こころ』(22)

2013-08-17 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(22)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「夕景」。簡単に夕暮れの街をスケッチし、そのあと。

見慣れたここが
知らないどこかになる
知らないのに懐かしいどこか
美しく物悲しいそこ
そこがここ
いま心が何を感じているのか
心にもわからない

 ここがどこかわからないように、いまの気持ちがわからない。この「わからない」は、後者の「いま心が何を感じているのか/心にもわからない」は、わからないというより、言い表すことばがみつからない、ということ。そしてそれは夕暮れの街にも通じる。ここがどこであるかは知っている。でも、その名前で呼んでいた時とは違って感じるので、知っている名前で呼んでいいかどうかわからない。知っている、と結びつけると何かが違う。
 それは「覚えている」といっしょに生きている。覚えているから懐かしい。
 この矛盾の切なさ。いいなあ。

 ふつう、詩は、ここで終わる。抒情で終わる。でも、谷川は、その矛盾の定型、「流通抒情」から逸脱してゆく。

やがて街はセピアに色あせ
正邪美醜愛憎虚実を
闇がおおらかにかきまぜる

 うーーーーーーん。
 抒情を、「意味」がこわしてゆく。抒情にひたろうとするこころを、「正邪美醜愛憎虚実」という観念的なことばが壊してゆく。夕暮れは消えて、闇が現れ、闇の本質が突然語られる。
 すごい力技だなあ。
 夕暮れは、闇にかえる前の一瞬のことであると言いたいのかもしれないが、闇の魅力、魔力について語りたいのかもしれないが、そうなら、タイトルはなぜ「夕景」?
 たった14行の詩に、ふたつのことを書かなくてもいいのでは? と思うのは、私が古い詩にとらわれているためだね。
 詩の、激しい未来が、谷川のことばのなかにある。「激しい未来」というのは奇妙な、日本語ではないことばだけれど、そう呼びたい。


こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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谷川俊太郎『こころ』(21)

2013-08-16 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(21)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「うつろとからっぽ」はとても「意味」が強い詩である。うつろなこころを「空き家」、からっぽなこころを「草原」にたとえたあとの3連目。

うつろとからっぽ
似ているようで違います
心という入れものは伸縮自在
空虚だったり空だったり
無だったり無限だったり

 この5行が私にはわからない。「空き家」と「草原」の比喩だったときは、空き家よりも草原がいいなあと思った。谷川は、うつろなこころと空っぽなこころを対比させ、「空っぽ」のほうを肯定しているように見えた。
 でも、3連目でわからなくなる。
 空虚と空(くう、から)、無と無限。一瞬、無限は永遠に通じるから、無限のこころを谷川は最上位においているのかなと思うけれど・・・無限に続く哀しみ、苦悩なんて言うものもある。それは必ずしも「いいこと」ではないね。

 谷川は「伸縮自在」と書いているが、意味・論理というのは、私のことばで言い換えるといい加減なものだ。どうとでも言い換えることができる。意味は固定しない。ことばはひとうの意味になるのではない。だから、意味がうまれたや、それは、うさんくさいもの、詩ではないと思った方がいいと思う。

 では、詩は何?
 意味にならない「もの」や「こと」なのだと私は思う。

 で、意味にならない、という「こと」を起点にすると・・・
 うーん、この詩の最後の2行は意味を特定できないから、詩?
 私にはよくわからない。
 詩集の中では、この詩は「好きではない」部類に入る。
こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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谷川俊太郎『こころ』(20)

2013-08-15 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(20)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「あの日」は亡くなった人との最後の会話を思い出そうとする詩。何を話したのか、そのことばがどうしても思い出せない。

微笑みは目にやきついているのだが
話したことはきっと
あの人が持っていてしまったのだ
ここではないどこかへ

この連だけで、じゅうぶんに悲しみが伝わる。思い出せないことが、思い出に深い輪郭を与える。
これをしかし谷川は3連目で言い換える。

いやもしかすると
私がしまいこんでしまったのか
心のいちばん深いところへ
取り返しのつかない哀しみとともに

そうか。取り返しのつかない哀しみか。思い出すと、哀しくて、自分が自分でいられなくなる。だから、そっと隠した…哀しみがゆっくりと伝わってくる。思い出すと哀しい、でも思い出さずにいられない、という矛盾が「思い出せないことば」となって「あの日」を結晶させる。
――そういう作品だと思うけれど、私は「いやもしかすると
」の「いや」ということばに、何かそれ以上のものを感じた。哀しみ、抒情というには強すぎる「響き(音楽)」を感じた。感情、抒情を否定する「論理構造」を動かす力を感じた。
そして実際にそこで動くことばは論理であり、意味なのだが…論理、意味を追い、それをつかむことによって谷川の悲しみが伝わってくるのだけれど。
でも、論理、意味で哀しみがわかるというのは、変だよね。
何か、論理、意味じゃないものがここにあるはず。それは何だろう。
対話である。
谷川は自問する形で、亡くなった人と対話している。「いやもしかすると」以下は谷川のことばだけれど、もしかすると亡くなった人が言っているのかもしれない。谷川と亡くなった人は「ひとつのこと」を違う角度からいうとどうなるだろうというような対話を無意識のうちに繰り返し、友情を深めてきた。そういう対話が、いま、ここに、「あの日」のようによみがえっている。
「あの日」のことばは思い出せなくても、いつでも対話を繰り返すことができる――といっても、それで哀しみが消えるわけではないが・・・

ミライノコドモ
谷川 俊太郎
岩波書店
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谷川俊太郎『こころ』(19)

2013-08-14 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読

谷川俊太郎『こころ』(19)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「心の皺」は、珍しく谷川自信を描いているように見える。

セピア色の写真の中の三歳の私
母の膝で笑っている
この子と喜寿の私が同一人物?

という書き出しである。「心臓に毛が生えたぶん/頭からは毛がなくなって」と常套句の笑いを経て、顔の皺、脳の皺とことばは動いて行って、

もみくちゃにされ丸められ
磨く暇もなかった心
芯にはいったい何があるのか

 最終行に私は驚く。皺と言うのは確かに「表面」に刻まれる。その表面の反対が「芯」になるのかなあ。そうかもしれないけれど、こころの「芯」があるとは思ったことがなかった。こころにあるのは「底」だよなあ。こころの水表の反対はこころの水底・・・
あるいはこころの中心、真ん中。それは一点だね。
でも谷川は「芯」という。棒みたいなのかな。
心棒?
辛抱?
谷川って、いろいろ辛抱して生きてきたのか・・・

あさ/朝
谷川 俊太郎,吉村 和敏
アリス館
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谷川俊太郎『こころ』(18)

2013-08-13 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(18)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「悔い」という作品。作品のなかを動いている時間がかなり複雑である。

何度繰り返せば気がすむのだろう
心は 悔いを
わざとかさぶたをはがして
滲んだ血を陽にさらして
それを償いと思いこもうとして

時間がゆっくり進んでいる。一瞬を凝視して、その一瞬のなかで動いているこころを描いている。かさぶたと血のにじむ感じなど、きっと誰もがやってみたことがあると思う。それは直接「悔い(後悔)」とは関係ないのだけれど、うーん、悔いと言うのは比喩にするとこんな感じか、と納得する。一瞬の「時間」のなかに、感情と肉体が入り混じる。
ここから、ひとつの「哲学」を抽象し、批評のことばをつづけることができるが、今回はしない。そういう面倒なことは、こんかいは書かないと決めているので。
で。
2連目。1連目のように、じっくりと肉体とこころに迫ってくる、考えさせる、というのではないのだが・・・

子犬の頭を撫でなら
遠い山なみを眺めながら
口元に盃を運びながら

この3行に私は1連目以上に驚いた。
1連目の「かさぶた」を中心とした「比喩」は、抒情詩が得意な詩人なら書けるかもしれない。
2連目の3行も、1行ずつなら、多くの詩人は書けるかもしれない。けれど3行並列で書くことは難しい。
時間の進み方が1連目と2連目では違うのだ。
1連目はゆっくりしている。かさぶたをはがす。そうすると血がにじんでくる。ここまでに時間がかかる。にじむというのはゆっくりした動きだ。それを陽にさらす。血がかたまろ、またかさぶたになるのがわかる。ここでも時間はゆっくり流れている。そしてその時間を体験しているのは「ひとり」である。「私」である。
2連目はどうだろう。
子犬の頭をなでたのも、遠い山なみを眺めたのも、盃をなめたのも、「私」かもしれないが、それぞれに違う主語を考えることができる。少年は子犬の頭をなで、若い女は山なみをながめ、老いた男が盃をなめたのかもしれない。若い女ではなく若い男が山なみをながめたと書き直すと、そこには少年、青年、老人という三つの時間がある。若い女が山なみを眺めたなら、そこには男と女がいる。「複数」の人間、「複数の時間」があることになる。
ただし、複数の時間と言っても、そこには「共通性」がある。複数の時間は、過去から未来へ流れているのではなく、何年、何月何日という日付を無視して「悔い」という瞬間として、共通している。複数なのだけれど、ひとつ。
 同じように複数の人も「悔いる」という「ひとつ」のことをしているので、複数なのだけれど「ひとり」。

ふつう、詩は「個人の感情」を書いていると受け止められている。1連目は確かに「ひとり」の思いかもしれない。そして一瞬の時間かもしれない。けれど2連目は違う。複数の時間、複数のひとがいる。
これが谷川の詩の特徴だと思う。「複数」と「単数」が重なる。
複数の時間、複数の人が「ひとり」を装って登場する。読者はそのうちの「ひとり」を選んで、その詩の中へ入ってゆく。そして、その「ひとり」を自分だと思う。そういう世界へ、谷川のことばは誘ってくれる。
で、
私はひとりではない、と私をつつんでくれる。


すき好きノート
谷川 俊太郎
アリス館
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谷川俊太郎『こころ』(17)

2013-08-12 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(17)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「捨てたい」。先月、感想を書いた。重複するかもしれない。

何もかも捨てdて
私は私だけになりたい
すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから

 「・・・から」は理由をあらわす。つまり、ここには「論理」が書かれている。しかしその論理は、ほんとうに論理か。いいかえると、もし、心と体を捨てられたらさびしくならないのか。ちょっと考えることができない。
谷川の「論理」にはこういうものが多いような気がする。論理的なことばを(文法を)つかいながら、厳密には論理のせかいとは別なことを書く。でも、それが論理と言うか、知性的なことばの運動のように感じられ、その「意味」をなんとなく納得してしまう。そういう「疑似論理」が。
逆を考えてみると不思議な気持ちになる。心も体も捨てる。心がどうなってもいい、体がどうなってもいい――そういう感じは、たとえばドラッグに溺れる人などが一瞬抱くのではないだろうか。それこそ「さびしい」としか言いようのないことかもしれない。
あ、さびしいの「意味」が違う? そうだね。意味が違う。ことばは同じでも「意味」が違う。
こういうことは、「名詞」「形容詞」「動詞」だけではなく、「・・・(だ)から」というようなことばでも起きるのかもしれない。「・・・(だ)から」が「論理」の運動を促すけれど、論理は知性(理性)を動かすだけではないのかもしれない。「感情の論理」と言うものもあるかもしれない。
 谷川は、こういうことを、つべこべとは書かずに、さっと飛び越していくね。その飛躍の軽さとスピードが独特。やはり天才としかいいようがない。谷川にだけ与えられた力である。
最後の1行、

一番星のような気持ちで

この非論理的な飛躍は、何度読んでも美しさがかわらない。そこには「意味」がなく、ただ一番星と言う「もの」だけがある。ものと人間が、ことばをつかわずに直接に向き合う「時間」だけがある。それは一瞬なのだけれど、一瞬だから永遠でもある。





ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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谷川俊太郎『こころ』(16)

2013-08-11 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(16)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「アタマとココロ」はアタマとココロの対話である。ひとりの人間が自問するとき、それはアタマとココロの対話?
よくわからないが、

アタはコトバを繰り出すけれど
割り切るコトバにココロは不満

これは論理的なことば、論理にココロは不満を持つということ。論理はアタマに属している。ココロはアタマに不満を持っている。それをコトバで言わないといけないからややこしいんだね。アタマのコトバの方が論理的だから。
ココロは論理になっていないことを言いたいのだけれど、そんなコトバはない。

コトバで言えない気持ちに充電されて
突然ココロのヒューズが切れる!

で、そういうとき、ココロはどうする? 何をする。何かを殴ったり蹴ったり・・・ 

殴る拳と蹴飛ばす足に
アタマは頭を抱えてるだけ

あ、コトバのかわりに、肉体(手、足、頭)が出てきた。ココロは肉体をあばれさせる。肉体を振り回す。そうすると肉体はココロの代弁者?
でも、同じ肉体でも、頭は振り回せない。

アタマは頭を抱えてるだけ

は何だかおやじギャグみたいだけれど、うーん、わたしはつまずくなあ・・・ことばがあふれてくる。
そうか、手足は動かせても頭は振り回せない、というところから考えていけばいいのか。
でも、今回の感想は、そういうところへ踏み込まない、批評は書かない、「意味」は書かないと決めたのだ。
おやじギャグへ引き返して、
アタマが頭を抱えるのなら、ココロは何を抱えればいいのだろう、と私はつっこみたくなったのだ。
だれに?
あ、谷川にじゃないのだ。
ことばに対してつっこみたくなったのだ。

もしかすると、アタマが頭を抱えるようには、ココロは心を抱え込まない(抱え込めない)ということをことばは知っているかもしれない。抱え込むという動詞とは違うことばがあって、それがかってに動いているのかも。
で、その動詞って何?
ふいに私は「爆発」というととばを思いつく。爆発させる。
あ、それは谷川のことばでいえば「ヒューズが切れる」。
いやだなあ、谷川は私のつっこみなんかはとっくの昔に知っていて、先回りして、ことばにしてしまっている。書いてしまっている。私は何かを感じたり考えたりしたつもりになってしまうけれど、それは間違いだね。



すてきなひとりぼっち
谷川 俊太郎
童話屋
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谷川俊太郎『こころ』(15)

2013-08-10 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(15)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「道」という詩はとてもとても変な詩である。

歩いてもいないのに
どこからか道がやって来た

この書き出しは有名な高村光太郎の「道」とは逆。だいたい道なんて動かないのが常識。「やって来た」がおかしい。ま、おかしくてもいいけど。詩、なんだから。事実じゃなくてもかまわない。
だから、ほら。3連目。

これは自分だけの道だ
心がそう納得したとたん

詩は事実ではない。「心が納得」すればいい。これを「心の事実」と呼んでみるのもいいかも。
問題はそのあと。

これは自分だけの道だ
心がそう納得したとたん
向こうから言葉がやって来た
がやがやとうるさい他人を
ぞろぞろ引き連れて

びっくりするなあ。まったく予想外の展開だ。1、2連は、どちらかというと「孤独」の匂いがする。ロマンチック、センチメンタル。だから3連目の「自分だけ」「心が納得した」がすんなりと読める。いわば「流通詩」の範疇にいれて読んでしまう。
それが突然、激変する。
こんな展開は谷川に詩か書けないなあ。

道がやって来た
言葉がやって来た

「やって来た」というひとつのことばを動詞(述語)にするということは、道と言葉には共通する何かがあるんだね。
これを考え始めると、うーん、哲学になるぞ。「言葉=うるさい他人」という関係も見えてくる。
ことばのうしろには「他人」がいる。そして「他人」はがやがやとうるさい。
この問題を考え始めると、ややこしくなる。批評(?)はしない、思いついた「感想」だけを書くというのが、私自身のテーマなので、
そうか、
谷川は自分だけの静かなことばがほしいのか、と思った。

これが私の優しさです 谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社
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