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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(14)

2013-08-09 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(14)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

「こころのうぶ毛」は、わからないところだらけである。

自分でも気づいていないこころ
そのこころのうぶ毛に
そっと触れてくるこの音楽は
ごめんなさい
あなたのどんな愛撫よりも
やさしいのです

 「この音楽」って、どの音楽? 「この」がわからない。でも、彼女(彼ではないと思う)がいう「ごめんなさい」以下は、「わかるなあ」という感じ。でも、ほんとうにわかるのかと問われるとあやしくなる。
 「わかる」は、彼女の感じていることがわかるのではなくて、そういうことがあるなあ、と自分の体験を思い出しているのである。肉体が覚えていること思い出している――と書き直すと、私が繰り返し書いていることになる。
で、そうすると。
そのときの「この音楽」は読者一人ひとりの覚えている音楽。
読者一人ひとりだから「この」も一人ひとり違う。モーツァルトとかサティとか特定できない。
ふうううううん。私は書きながら、これでいいのかなとちょっと不安。谷川って、こんなに理詰めで詩を書く?
私の感想は、きっと間違っている。

2連目はもっとわからない。

宇宙が素粒子の繊細さで
成り立っているのを
知っているのは
きっと魂だけですね
あなたのこころは
私の魂を感じてくれていますか?

 「知る」は知識。頭の仕事。とは簡単には言えないね。こころで知る、いや魂で知る。こころで感じる、いや魂で感じる。こころと魂と、どっちが上(?)かな。なぜ、区別があるのかな。わからないけれど、ある瞬間はこころと言ってみたい。ある瞬間は魂がしっくりくる。知るも、感じるも、ちょっとずつ違うのでなんとなく使い分ける。
この感覚は、わかる。
っ変だね。



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谷川俊太郎『こころ』(13)

2013-08-08 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(13)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 こんな詩は書けないなあ――と書くと、ほかの詩なら書けるのかとつっこまれそうだが、書けなくても「まね」はできるかな、と思えるのが谷川の詩の不思議さ。
「散歩」(30ページ)は鬱屈して(?)やりきれないこころをかかえて散歩に出たときのことを書いている。「泥水」の比喩が少し変わっている。2連目の、散歩で見る風景も特別新鮮なわけではない。どちらかというと平凡。これが大詩人の書く散歩の風景?
ところが、3、4連。

いつもの景色を眺めて歩いた
泥がだんだん沈殿していって
心が少しずつ透き通ってきて
世界がはっきり見えてきて

その美しさにびっくりする

 4連目の1行の大胆さに、それこそびっくりする。こんなふうに手放しに、私は書けない。美しいということばをつかわずに美しさを感じさせるのが詩じゃないの? 美しいということばで美しさを表現しようとするのは販促じゃないの?
そう聞いてみたい気持ちを突き破って、何かが私の肉体から飛び出す。びっくりする。びっくりして、それがどんな美しさかよくわからないのに、なぜか納得する。
そうか、こころが泥水ではなく、透き通ると世界がはっきり見えて、美しくなるのか・・・。
私はその美しさをまだ見ていない。悔しいけれど。


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谷川俊太郎『こころ』(12)

2013-08-07 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(12)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「悲しみについて」は3連構成。1連目と2連目は主語がかわっているが基本的な意味は同じ。役者も作家も悲しみを表現するとき、本人は悲しんではいない。観客や読者のこころをつかみ、奪い取ろうとしている。これは極論かもしれない。でも、悲しむよりも、悲しみを印象づけようと思っていることには間違いないだろう。役者、作家は同時に「ふたつ」のことをしようとしている。矛盾したことをしようとしている。悲しみに集中していたら(?)、悲しみを表現できない――と、ことばにすると、ちょっと変な感じだけれど。つまり、ほんとうに悲しみ、涙を流しているのなら、どうして観客や読者にそれが伝わらないんだろうという問題が起きるのだけれど。

 あ、脱線しそう。脱線してしまおう。
 この観客、読者の問題は実は書くつもりが全くなかった。ところが左手だけで書いていると、どうしても書くスピードが遅くなり、右手で打っていたキーボードを探しながら意識が散らばる。その瞬間に、ふっと何かが忍び込む。
 観客、読者のことを谷川は書いていないが。
 観客、読者も、もしかしたら悲しみを見たいと思っていないかもしれない。この役者は、この作者は悲しみをどう表現するだろうか、といことにこころを砕いているかもしれない。芝居、虚構とわかっているのに、その表現にひきつけられ、それが芝居、小説であることを忘れた瞬間に、観客・読者は涙を流してしまう。
 悲しみではなく、悲しみの表現をひとは何度も繰り返し見てしまう。ほんとうの悲しみは自分ひとりの分で十分ありあまっている。

 で、脱線から唐突に、詩にもどる。
 3連目が非常におもしろい。2行目までは1連、2連を踏襲するが、そのあと激変する。(ルビは省略)

悲しげに犬がと遠吠えするとき
犬は決して悲しんでいない
なんのせいかも分からずに
彼は心を痛めている

 3連目で、突然、ほんとうの悲しみを直接見た――という気持ちに襲われる。
 1連、2連が、いわば語りつくされたような内容だったからかな。だから私も脱線したのかな。
 でも、3連目のどこが新しいのだろう。

なんのせいかも分からずに

 この「分からずに」だね。誰にも(犬にも)わからないことがある。犬にわからないことがあるとが、どうしてわかった?なんて野暮な質問はしちゃだめだよ。詩なのだから。比喩なのだから。詩人と犬は「一体」になっているのだから。
 理由がわからない――はしかしほんとうではない。なんのせいかはわかっている。わからないのは、それを説明する方法、説明することばだ。どうすれば、このことばにならない悲しみをことばにできるのか。だれか、それをことばにしてくれよ。
 ――その声を谷川が聞き取り、この詩がうまれた。

 「ほんとう」はいつもわからない。わからないもののなかに「ほんとう」があり、それに触れようとしてことばにする。ことばになった「ほんとう」は、でも「うそ」なんだ。「うそ」に掬い取れなかった何か、ことばになれなかった何かに「ほんとう」がある。
 矛盾の、どうどうめぐり。
 それが、詩。


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谷川俊太郎『こころ』(11)

2013-08-06 11:59:40 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(11)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 07月30日に右腕を負傷。思いのほか重傷で、昨日からギプスで固定。親指シフトのキーボードが使えない。詩は引用せずに、感想だけをメモする。
 「建前」(26ページ)。
 しばしば語られる本音と建前の関係を書いている。3連目の

建前にヒビが入っている
そこから本音が滲み出ている
決壊前のダムさながら

 というのは、ちょっと「流通概念」っぽいかな。だれでもダムを壊してみたい。本音をぶちまけてみたい――というのは、しかし、ある意味では「建前」かもしれない。「本音」の「流通定義」という気がしないでもない。いいかえると、3連目だけを読むと(結論だけを読むと)、谷川独自の「ことば」がみあたらない。私にはそう感じられる。
 でも2連目は違う。

建前よ
おまえは本音を狂わせる

 建前は本音を隠す。押し込める。押し込められるのはいやだ。暴れて本音は狂う。
 これも「流通定義」を短く言い直したものかもしれないが、

高い塀で囲いこんで
守っているつもりの本音が
いつか暴動を起こしたらどうするんだ

 本音を閉じ込める、ではなく「守る」。本音を守りたいから、本音はほんとうの自分だから「守る」。本音は、実現されないと、意味はないのに、囲いこむ形で「守る」。
 でも、囲いコムは「守る」ではなく「閉じ込める」かもしれない。本音にとっては「閉じ込められる」になるかもしれない。
 「囲いこむ」は立場が違えば「意味」が違う。矛盾したものになる。
 あれっ、これって、建前と本音みたい。建前と本音は立場が違えば意味が違う。相手次第で、建前が本音、本音がかわる。――この「矛盾」を谷川は2連目に、軽快なスピードで書いている。



やっぱり片手では書けないなあ。





こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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谷川俊太郎「こころ」再読(10)

2013-08-05 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(10)

 きのう「頭」について少し書いたせいか、「アタマ」ということばの詩があらわれた--というのは、変な言い方だが。つまり、私が「頭」について書こうが書くまいが、詩集には関係がない。だいたい詩集の成立が先にあって、それに対して私が感想を書いているだけ。「水のたとえ」「曇天」という詩の順序は変わらない--というのが客観的事実なのだけれど、人間の感想というのは客観的事実とは無関係に動く。
 私が「頭」を批判したから、詩集がひそかに順序を変えたのだ。私の読んでいる詩集では「水のたとえ」「曇天」とつづいているが、別のひとの読んでいる詩集では、その順序は違うかもしれない。
 と、私は「非常識」なことを考えるのである。感想だから。
 で、その「曇天」

重苦しい曇り空だが単調じゃない
灰色にもいろんな表情があって
楽譜のように目がそれをたどっていると
ココロが声にならない声でハミングし始める
昨日あんなつらいことがあったのに

目をつぶると今度は北国の波音が
形容詞を消し名前を消し動詞と疑問符を消す
「おれにはおまえが分からんよ」
ココロに向ってアタマはつぶやく
「おれたちはいっしょになって悪魔を創(つく)った
力を合わせて天使も創った
それなのにおまえはおれを置き去りにして
どこかへふらふら行ってしまう」

空と海を呑(の)みこんで
ココロはひととき
「無心」にただよっている

 「アタマ」と「ココロ」はどういう関係にあるのだろう。悪魔も天使も(つまり正反対のものが)、同じように「アタマ」と「ココロ」の合作であるのなら、どうして正反対のものができたのかな? わからないけれど、わかるね。そういうものなのだ。世の中は、そういう天の邪鬼なものなのだ。ココロとアタマのどっちが天の邪鬼かわからないけれど、してはいけないということをしたくなる、したくないことだってしてしまうからおもしろい。--どんな動き(運動)も、それが動くとき「反作用」のようなものがあって、それは外部に対して働くだけではなく、自分自身の内部にもわからない形で蓄積し、あるとき噴出するものなのかもしれない。
 なんてことはどうでもいいけれど。
 2連目の「ココロに向ってアタマはつぶやく」以下は、とってもおもしろい。
 あ、どうでもいいことではなく、きっと大切なことなんだね。
 ほんとうはもっと考えないといけないことなんだろうけれど、「意味」にならないようにするのが、今回の「日記」の目的。
 なんて、思っていたら。

 3連目。これが、また不思議。
 「無心」って、何?
 この詩を読むかぎり「ココロ」がないということではなく、「アタマ」がない、ということだね。
 「アタマ」の苦情を置き去りにして、ココロは海と空を飲み込んでいる。でも、それって「飲み込む」でいいのかな? 飲み込まれるという感じもする。きっと「飲み込む」ことが「飲み込まれる」こと。だって、海と空を飲み込んでしまったら、ココロには「ただよう」場所(空間?)がない。場所がないから「無心」なのかもしれないけれど、そうすると「無心」とは「無場」のこと。言いなおすと、場にとらわれないこと?
 実際に、詩人は曇天の空と海に向き合っているのだから、場にとらわれないとは、場を超越すること? 無心とは場の超越? 時間の超越?
 もっと簡単に言いなおすと、場とか時間とかいうものはアタマで考えるものだから、無心とはアタマの超越?
 それなら、なぜ「無頭」ではなくて、「無心」なんだろう。
 あ、だんだん、めんどくさくなるぞ。
 おおい、いま動いているのは、アタマなのかい? ココロなのかい? アタマとココロは「いっしょになって」「力を合わせて」、どんなことばの迷路を創っているんだい?
 私は私のココロとアタマに向って叫んでみるが、それ以上ことばを動かすとめんどうになるからやめておけ、という声が聞こえた。

 だから方向転換。
 1連目。曇天をみつめる。「楽譜のように目がそれをたどっていると」の「楽譜」がおもしろい。びっくりする。灰色の変化が谷川には楽譜に見えるのか。目で何かを見ると、そこから音が始まるのか。その音は「音楽」になっていく。育っていく。
 2連目は逆だね。「目をつぶる」。そうすると音が聞こえる(音が始まる)のだけれど、それは音楽には育たない。……ではなく、音が「意味」を消していく。「形容詞」「名詞」「動詞」という「意識」を消していく。声になろうとする声を消していく。
 どうやら谷川にとっては、「音楽(ハミングできるもの)」と「意味(ことばの文法/分類)」は反対のものらしい。
 音楽のなかに意味はなく、意味のなかに音楽はない。
  そして、そんなようなことを考えた瞬間に、「アタマ」があらわれる。
 目と耳とアタマ(声)の、谷川独自の「一体」の動きがここにある。
 この1連、2連だけでは断言はできないけれど、谷川の「肉体(思想)」の根幹のようなものがむき出しになっている。








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谷川俊太郎「こころ」再読(9)

2013-08-04 21:56:32 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(9)

水のたとえ

あなたの心は沸騰しない
あなたの心は凍らない
あなたの心は人里はなれた静かな池
どんな風にも波立たないから
ときどき怖くなる

あなたの池に飛び込みたいけど
潜ってみたいと思うけど
透明なのか濁っているのか
深いのか浅いのか
分からないからためらってしまう

思い切って石を投げよう あなたの池に
波紋が足を濡(ぬ)らしたら
水しぶきが顔にかかったら
わたしはもっとあなたが好きになる

 前に感想を書いたと思う。意味が消える、別の意味にとってかわる--というようなことを書いたと思う。
 その感想と同じになるか、まったく違うものになるかわからない。
 1連目、2連目は池を描写している。
 3連目は「石を投げる」ということばがあって、そこで詩がずいぶん変わる感じがするが、どう変わったのかな? 2連目も「潜る」ということばがあって、潜るの方が水に接触する部分が多いから、2連目の方がほんとうは「あなたの心」を知ることになるかもしれない。よく考えると。でも、3連目の方が印象的。
 たぶん。
 水に潜っても、水は変化しない。わたしが水に飲み込まれている。水はわたしを飲み込み平然としている。--この平然にわたしは戸惑っている。
 3連目の石を投げるは、わたしは水の外にいて(安全な場所にいて)、水だけが変化する。それがおもしろいのかもしれない。
 わたしは、水の変化が見たいのだ。変わる瞬間に何か、いままで見えなかったものが見える。発見できる。
 それはもしかすると、わたしに水しぶきがかかるということかもしれない。水が動いてきて、わたしに接触する。ポイントは、水が動いてくるということだね。わたしが動いていくのではない。
 あなたが動いてくるなら、「わたしはもっとあなたが好きになる」。

 わたしがあなたを好きな理由は、あなたの心がいつも落ち着いているから。でも、そのこころが乱れたなら、そしてそれがわたしに影響してくるなら、もっと好きになる。

わたしはもっとあなたが好きになる

 これは、「もっと好きになりたい」ということだね。
 いまも好き。でも、もっと好きになる。「好き」というのは、変わるのである。好きが嫌いにではなく、「もっと」好きに「なる」。それは、もっと好きに「なれる」ということ。
 ひとは変わる。
 わたしは、あなたが好き。それが1連目。3連目では、あなたをもっと好きに「なれる」。変わってしまっている。この変化のなかに詩がある。1篇の詩を書くと、書いたひとは書きはじめたときの「わたし」から変わってしまう。そこに詩がある。



 この詩には、一か所、つまずくところがある。2連目の、

深いのか浅いのか

 これは不思議。「意味」はわかる。その前の「透明なのか濁っているのか」と対句になっている。だから透明の反対の濁るに対して、深いと浅い。
 でも、実際に潜るということを想像した場合、ほんとうにこんな具合に考えるかなあ。想像するかなあ。
 私は、その池が、どこまで深いのか、ということに悩むと思う。もしかすると果がない。あるいは底だと思っていたら、それが私に絡みついてきて、飲み込まれてしまう。底無しの池。「浅い」は「潜る」ときの疑問のことばにはなってこない。
 「潜る」とき、「深い」の反対側にあることばは「底無し(どこまで深いかわからない)」だと思う。
 --これは意地悪な読み方なのかもしれないけれど、「浅い」ということばは、「好き」という実感からは遠いことばだなあ、と思う。対句という方法にひっぱられて動いたことばだなあ、と思う。「頭」で書いた1行だな、と思う。「頭」が出てきてしまった、といえばいいのかもしれない。








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谷川俊太郎「こころ」再読(8)

2013-08-03 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(8)

 私は実は07月30日火曜日の夜、車道を逆に走ってきた自転車を避けようとして、自転車ごと転び、右手が動かせない。(08月02日までのものは、事前に書きためておいたもの。)で、手が不自由だとことばもなかなか動かないのだが、そういうときは、詩に対してどんな反応が起きるのか、それを知りたいと思って、ちょっと書いてみる。

靴のこころ

ふと振り向いたら
脱ぎ捨てたスニーカーが
たたきの上で私をみつめていた
くたびれて埃(ほこり)まみれで
あきらめきった表情だが
悪意はひとつも感じられない

靴にもこころがある
自分にもこころがあるからそれが分かる
靴は何も言わないが
何年も私にはかれて
街を歩き道に迷い時にけつまずいた
もう身内同然だ
新しい靴がほしいのだが……

 この詩で思わず傍線を引いてしまうのは2連目の

靴にもこころがある
自分にもこころがあるからそれが分かる

 ここ。
 そうか、何かがわかるというのは、自分以外のものに自分の「こころ」を感じるからかもしれない。「こころ」がひとつになる、といえばいいのか。
 靴からはなれて。たとえば花。その花を美しいとこころが感じるとき、花のこころを私は美しいと感じている。花のこころと私のこころが「美しい」ということばのなかで「ひとつ」になっている。花の形、花の色というものがあるとしても、それは花のこころが形、色になったもの。花の形、色は、花のこころである。
 でも、その「靴のこころ」は何を感じてる?
 すぐには、わからない。私は、それを探してしまう。--というも、不思議だ。靴のこころが何を感じているか、それを実感しないのに、

靴にもこころがある
自分にもこころがあるからそれが分かる

 ここに感動する。
 そのことをよく考えてみると、「靴にこころがある」ということ、そのことの発見自体に感動していることがわかる。靴にこころがあるとは考えたことがなかった。だから、靴にこころがあると言われたとき、私はびっくりした。そして、靴にこころがあるとわかるのは、自分にこころがあるからだ、と気がついた--というふうに読んでいることに気がついた。
 何を考えていてもいいのだ。何を感じてもいいのだ。こころがあるとは思ったこともないものに、こころがあるとわかったから、そしてそのことを「分かる」と谷川が書いているから感動したのだ。
 だから。
 私は先に「靴のこころ」と「自分のこころ」が「ひとつ」になっている--というようなことを、よく考えもせずに書いたけれど、実は違うね。
 自分のこころ(谷川のこころ)は「新しい靴がほしい」と思っている。ところが、靴はそうではない。新しい靴にとってかわられたくないと思っている。捨てられたくないと思っている。「もう身内同然だ」と心底思っているのは、私(谷川)ではなく、靴の方だろう。
 あれ、でも、そうすると変だね。
 「もう身内同然だ」というのは、私(谷川)の思いであり、身内同然だから新しい靴がほしいのだけれど、捨てるわけにはいかない、というのが、この詩ではないのかなあ。
 何かが(論理が、意味が)どこかで、すれ違っている。入れ替わっている。
 この入れ替わりがたぶん、詩なのだ。
 入れ替わることができるのは、それが「ひとつ」のもの。「同じもの」だからである。言い換えると、「靴のこころ」と「自分のこころ」は「ひとつ(同じもの)」である。
 ほら、最初にもどった。何かがわかるというのは、自分以外のものに自分の「こころ」を感じるからかもしれない。「こころ」がひとつになる、といえばいいのか--と書いたことに、もどってしまった。
 「こころ」は「ひとつ」で、こころではないものが入れ替わる。
 「こころ」はいつでも「ひとつ」。
 ある時は「靴」と、ある時は「花」と入れ替わる。あるいは、ある時は若い娘と、ある時はおばあちゃんとも入れ替わる。すべての「いのち」と入れ替わる。そうやって、何かが「分かる」ということが起きる。

 あ、こんなふうに「意味」にしてはいけないね。

 違うことを書いておこう。
 なぜ「スニーカーのこころ」ではなかったのかな? 「たたきの上」の「たたき」っていまの若者はわかるかな? 最初に読んだときは気がつかなかったけれど、あ、このスニーカーとたたきの組み合わせは、なかなか新しいな、と思った。
 詩の意味とは関係がないだろうけれど、あ、谷川はまだ「たたき」ということばが自然に出てくるのだ、と驚いた。あ、私自身、最初に読んだとき、違和感はなかったのだけれど、書き写してみて、あっ、と声が漏れてしまったのだった。

 (左手だけで、親指シフトのキーボードをつかうのはとても不便。左半分の文字と右半分の文字の入力スピードが完全に違い、ことばが動かない。ことばは、頭だけでは動かない、とあらためて思った。--ということも、書いておこう。)











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谷川俊太郎「こころ」再読(6)

2013-08-02 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(6)

うざったい

好きってメール打って
はーとマークいっぱい付けたけど
字だとなんだか嘘(うそ)くさいのは
心底好きじゃないから?

でも会って目を見て
キスする前に好きって言ったら
ほんとに好きだと分かった
声のほうが字より正直

だけど彼は黙ってた
そのとたんほんの少し私はひいた
ココロってちっともじっとしていないから
ときどきうざったい

 何の断り書きもないのだけれど、これは少女が書いたもの--じゃなくて、谷川が少女の気持ちを書いたものだとわかる。
 でも、そうなんだろうか。
 なぜ、谷川のことじゃないのだろうか。谷川が自分の気持ちを書いたっていいのに、と書いてしまうと、違った感想になってしまうけれど、今回の「目的」は最初に読んだときのままの感想を、「批評」にせずに書くことなので、最初にもどる。

 女の子っぽい。ハートマークが出てくるから? いや、そのあとの「字だとなんだか嘘(うそ)くさいのは/心底好きじゃないから?」の変化の激しさの方が、そうか、なるほど女の子って、こんな具合にこころが動くのなか、と思う。心底好きではなくても、好きとメールを打つ。
 2連目の「キスする前に好きって言ったら/ほんとに好きだと分かった」もいいなあ。こころが動いている。3連目の「彼は黙ってた/そのとたんほんの少し私はひいた」も動きが速いなあ。「ひいた」というのは、こういうことか。女の子だなあ。
 谷川さん、誰かに聞いたことを書いたの?
 そう質問したくなる。

 でも、よくみると(って、その瞬間の感想ではなく、少し批評が入った感想になるけれど--読み返すと感想は感想のままでは終われないのかなあ)、「声のほうが字より正直」は少女には言えないかも。谷川が整えないと、ことばにならなかったかもしれない。少女をつきやぶって、ことばで生活を整えてきた谷川が顔をのぞかせている。「頭」をのぞかせている、のかな?
 3連目の「ココロってちっともじっとしていないから/ときどきうざったい」も少女には言えないかもしれない。少女は「(ココロは)うざったい」とは言っても、その「理由」を「ちっともじっとしていないから」とはことばにはできないだろうと思う。ことばにしても、意識的ではないので、正確に(整えて)書き留めるということはできないだろう。つまり、ここにも少女を突き破って谷川が登場していることになる。
 少女のふりをして、谷川はきちんと谷川のことば(肉体)を見せている。

 でも、自分を見せるのなら、どうして同性の少年ではないのだろう。少年を主役にしてことばを動かさないのだろう。現代は、少年よりも少女の方がことばを一生懸命動かしているのかな? 少年の方が「奥手」なのかもしれない。少女を選んでいるところに、もしかしたら「メール」「ひいた」「うざったい」以上に「いま/ここ」があらわれているのかもしれない。



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谷川俊太郎「こころ」再読(5)

2013-08-01 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(5)

 感想を感想のまま書くのはむずかしい。すぐに批評になり、批評は「意味」にたどりつこうとする。あることばに反応し、そこからいままで誰も言っていない「意味」を引き出すと、それが「批評」と呼ばれたりするのだが、
 あ、うさんくさい、
 と、自分で書きながらこのごろしきりに思うようになった。
 「意味」になる前にことばをほうりだしたい、と思うようになった。
 谷川の詩には、「意味」にたどりつかない詩と「意味」になってしまう詩とがある。「意味」はそのまま「感動」を呼び起こすのだけれど、もしかすると、その前のことばの方が詩そのものとして大切なのでは、重要なのでは、とも思うのである。
 「キンセン」という作品。

「キンセンに触れたのよ」
とおばあちゃんは繰り返す
「キンセンって何よ?」と私は訊(き)く
おばあちゃんは答えない
じゃなくて答えられない ぼけてるから
じゃなくて認知症だから

辞書ひいてみた 金銭じゃなくて琴線だった
心の琴が鳴ったんだ 共鳴したんだ
いつ? どこで? 何が 誰と触れたの?
おばあちゃんは夢見るようにほほえむだけ
ひとりでご飯が食べられなくなっても
ここがどこか分からなくなっても
自分の名前を忘れてしまっても
おばあちゃんの心は健在

私には見えないところで
いろんな人たちと会っている
きれいな景色を見ている
思い出の中の音楽を聴いている

 この詩では「共鳴」と「健在」が「意味」をつくる。何かに共鳴する心がある時、その心は健在である。--そして、その「意味」に満足して、この詩に「共鳴」した気持ちになってしまう。
 最後の4行に、あ、いいなあ、そうなんだなあ。おばあちゃんは、琴線に触れる瞬間をいま生きている、と思うとなんとなく幸せな気持ちにもなる。
 --と書くと、きっと「批評」に近づく。

 でもね。
 その前の、

おばあちゃんは答えない
じゃなくて答えられない ぼけてるから
じゃなくて認知症だから

 この「じゃなくて」の繰り返し、言い直し--そのなかにも、若い人の「口調」だけではなくて、瞬間的に動くものがある。それは詩とは呼ばれないものかもしれないけれど、その口調にであった瞬間、あ、こんなふうにして動く心があるなあ、と思い出す。こころというより「肉体」が近いかもしれない。「肉体」で、言い換えると「舌」をつかって言いなおすことで、何かを整える。ことばで自分を整え直す。
 これも、もしかしたら、詩の仕事。--ことばの仕事。
 「健在」の前に出てくる、

ひとりでご飯が食べられなくなっても

 これも、いいなあ。「ここがどこか分からなくなっても/自分の名前を忘れてしまっても」というのは「分かる」「忘れる」という動詞といっしょになって、「認知症」そのものを浮かび上がらせる。「認識」の問題、何かを認識できるかどうかが「認知症」かどうかの分かれ目。
 そういう「認識」の前に、ふっと差し挟まれた「ご飯を食べる」。「ひとり」で食べる。でも、ごはんというのは、もともとひとりで食べるものなんかじゃない。いや、そのときの「ひとり」は意味が違う--という反論が聴こえてきそうだけれど(聴こえてくるのを承知であえて書いているのだけれど)、そこに「肉体」があるという感じ、そしてその「肉体」というのはいつでも「他人」を求めているということが、うまくことばにならないまま、ふっと感じられる。
 こういうところが、谷川のすごいところだなあ。
 「ここがどこか分からなくなっても/自分の名前を忘れてしまっても」だけでは抽象的で(意味になりすぎていて)、おばあちゃんが見えてこないのだけれど、「ひとりでご飯が食べられなくなって」があると、いっしょにご飯を食べている「くらし」が「肉体」(家族の肉体)とつながって見えてくる。
 何度か詩を読み返していると、この行で、ふっと胸が熱くなる。それこそ、この行が「キセンに触れてくる」。


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谷川俊太郎「こころ」再読(4)

2013-07-31 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(4)

こころ ころころ

こころ ころんところんだら
こころ ころころころがって
こころ ころころわらいだす

こころ よろよろへたりこみ
こころ ごろごろねころんで
こころ とろとろねむくなる

こころ さいころこころみて
こころ ころりとだまされた
こころ のろのろめをさまし

そろそろこころ いれかえる

 3連目の「さいころ」がとても楽しい。「こころ」という音には「お」の音が多い。そしてこの詩も「お」の音が多い。「ころん」「ころころ」「よろよろ」「ごろごろ」「とろとろ」「ころり」「のろのろ」「そろそろ」。みんな子音+「お」で始まる。「さいころ」だけ「あ」の音で始まる。
 この音楽はどこからくるのだろう。
 この「さいころ」の異質な感じは、これまで私が「矛盾」と呼んできたものと似ているかもしれない。異質。異質なものが突然ぶつかり、そこで化学変化をおこす。それに似て、何か、それまでとは違ったものになっていく。そのきっかけ。

 最後の1行の「こころ いれかえる」は「ねころんで」怠けているのをやめてというような「こころを入れ換える」ではないね。「さいころ遊び」をするような、やくざなこころを入れ換えるだろうね。
 でも、そんな簡単には入れ換えられない。もちろんねころんで怠ける癖もそうだけれど、博打(?)ひるの方がもっと、なんというか脱けだせない。入れ換えを許さない力が強い(と思う)。魔力がある(と思う)。
 そして、そこには何かしら「さびしい」感じがある。やくざなことをやってみたいなあ、という未練のようなものがある。「暗い」ものがある。
 それが魅力的。

 ひとつ、注文。

こころ ころころねころんで

 は、ちょっと健康的すぎる。だから「さいころ」で補っている(?)のかもしれない。でも、もうちょっとはみだして、

こころ ころころねんごろに

 くらいのことをどこかにしのばせてくれたらなあ。でも、そうすると、青少年向けではなくなる?
 思い返してみると。
 谷川って、詩が清潔だねえ。
 「さいころ」だって、ほんとうのやくざな感じとはちょっと違う。溺れて脱けだせないという感じがしない。



これが私の優しさです 谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社
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谷川俊太郎「こころ」再読(3)

2013-07-30 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(3)

 谷川俊太郎は平気で他人を書く。「私」以外の人間を登場させる。

彼女を代弁すると

「花屋の前を通ると吐き気がする
どの花も色とりどりにエゴイスト
青空なんて分厚い雲にかくれてほしい
星なんてみんな落ちてくればいい
みんななんで平気で生きてるんですか
ちゃらちゃら光るもので自分をかざって
ひっきりなしにメールをチェックして
私 人間やめたい
石ころになって誰かにぶん投げてもらいたい
でなきゃ泥水になって海に溶けたい」

無表情に梅割りをすすっている彼女の
Tシャツの下の二つのふくらみは
コトバをもっていないからココロを裏切って
堂々といのちを主張している

 前半の「彼女」のことばは、「彼女」がほんとうに言ったことばなのか。そうではなくて、谷川が感じていることを「彼女」に語らせたのかもしれない。どちらでもいいが、どちらにしても、そこには「他人」がいる。

石ころになって誰かにぶん投げてもらいたい
でなきゃ泥水になって海に溶けたい」

 この2行は、どうみても「彼女」のことばではない。それまでのことばと文体が違いすぎる。こころの奥深くをとおって、整えられている。「石ころ」「泥水」という比喩によって、思考(肉体)が整えられている。
 谷川自身のことばである。けれど、それは谷川が隠していることばという意味では、やはり「他人」だろう。
 この「他人」は、これまでの詩で、私が「矛盾」と呼んできたものかもしれない。
 いま、こうしている。けれど、その、いま、こうしているのとは違うものがある。それはまだことばになっていないけれど(ことばになっていないから?)、ことばになろうとしている。
 そして、ことばになる。そのとき、そこに詩がある。

 前半だけで、詩、が成立しているのだけれど、そしてそれがあまりにも「谷川詩」なので(谷川自身のなかにある「他人」の噴出)なので、谷川はそれをちょっと隠す。
 それが最後の4行。
 若い乳房のみなぎる力。
 それを描くことで、「彼女」の「体(いのち)」と「ココロ」を対比させている。
 それは互いに拮抗して、戦いながら、生きている。それはほんとうは「協力」なのだが、ココロにも体にも「裏切り」に見える。
 その「裏切り」を私は「矛盾」と呼ぶのだけれど、そこに「意味」にしてはいけない詩がある。

二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
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谷川俊太郎「こころ」再読(2)

2013-07-29 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(2)

 谷川俊太郎は、「意味」を固定しない。詩のなかに、違った「意味」というか、対立するもの、矛盾するものを用意している。

こころ3

朝 庭先にのそりと猫が入ってきた
ガラス戸越しに私を見ている
何を思っているのだろう
と思ったらにやりと猫が笑った
(ように思えた)

これ見よがしに伸びをして猫は去ったが
見えない何かがあとに残っている
それは猫のあだごころ?
それとも私のそらごころ?
空はおぼろに曇っている

猫がこれから行くところ
私がこれから行かねばならないところ
どちらも遠くではないはずだが
なぜか私は心もとない

 「こころ1」「こころ2」とはまったく調子が違う。
 ここには「耳年増」のことばがない。--言い換えると、すべてが谷川の「体験」に根ざしたことばのように見える。猫を見て、詩を思いついたのだ、という感じがとても強い。
 で、私が今回の詩で書こうとしている「意味の違い」(対比)も、

それは猫のあだごころ?
それとも私のそらごころ?

 という具合。
 そうか、谷川は真剣に考えたんだなあ。
 何を?
 その直前のことを。つまり、猫が去っていって、そのあとに「見えない何か」が残っている。見なないものって、なんだろう。「こころ」。
 そうかな?
 そうなのかもしれない。で、こころがどこかに残ったままだと「心もとない」ということが起きる。最後の行に書いてあることだね。
 この詩は「心もとない」ということはどういうことか--それを「定義」した詩なのかもしれない。そういう意味では「意味」の強い詩だ。

 ということよりも、私がほんとうに書きたかったのは。

それは猫のあだごころ?

 実は、私はこの行を「誤読」して、

それは猫のあごだろ?

 それは猫の「顎」だろう、と読んで、とってもおもしろいと思ったのだ。猫は伸びをしたのであって、あくびをしたのではないのだが、私は伸びとあくびをいっしょに考えているのだろう、その、あくびのときの広がった顎がまぼろしのようにそこに残っている。残像になっていると思い、あ、いいなあそういう残像をみたいなあ、と思ったのである。
 でも、違ったね。
 違ったのだけれど、その残像というものは、実は猫が残したものであっても、猫だけでは成立しない、その残像を受け止める「こころ」がないと成立しない。
 そう考えると、
 あれっ? 私と谷川はどこで交錯しているのだろう。


自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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谷川俊太郎「こころ」再読(1)

2013-07-28 22:15:55 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(1)

 谷川俊太郎「こころ」(朝日新聞出版、2013年06月30日)は、朝日新聞に連載中に何回か感想を書いた。詩集にまとまってからも感想を書いたのだが、全部の作品についてもう一度少しずつ書いてみる。書いたことの重複になるかもしれないけれど。
 なるべく「意味」にならないように、最初に読んだ気持ちに帰るように。

こころ1

ココロ
こころ

kokoro ほら
文字の形の違いだけでも
あなたのこころは
微妙にゆれる

ゆれるプディング
宇宙へとひらく大空
底なしの泥沼
ダイヤモンドの原石
どんなたとえも
ぴったりの…

心は化けもの?

 あ、私のこころはは文字の違いだけではゆれません。むしろ、文字の違いだけでゆれると書いている谷川の「こころ」に対してゆれる。えっ、谷川って文字の違いだけで何かを感じる? という具合に。
 2連目が「ゆれるプディング」からはじまることがおもしろい。1連目の「ゆれる」を受けているのだが、もし、プディングがゆれなかったら、それでも谷川はプディングが好きだろうか。
 谷川は、きっとゆれるものが好きなんだろう。それから、辛いものよりも甘いものが。つるりとした、やわらかいものが。
 次の宇宙はどうして出てきたのだろうか。プリンと宇宙って似ている? あるいは、対極にある? よくわからない。きっと、「宇宙」が好きだから、宇宙ということばが出てきたのだろう。谷川は昔から「宇宙」をことばにしている。
 底なしの泥沼は、宇宙との対極にある。宇宙も限りがないけれど、宇宙は底なしではなく、透明。
 この対極のぶつかりあいのなかから、谷川はダイヤモンド(透明)を選んで、そっちの方向へことばを結晶させる。
 でも、どうしてこんなに「こころ」はどんなたとえをもってきても「ぴったり」なんだろう。なぜ、なにもかもを受け入れてしまうのだろう。
 そういう「意味」を考えはじめると、
 その瞬間、

心は化けもの?

 この1行は、「底なしの泥沼」とちょっと似ている。意味=抽象的なものではなくて、抽象的=比喩として「文学」に定着しているものではなくて、もっと「なま」な感じの「もの」をぶつけてくる。
 「化けもの」は「幽霊」よりも形がありそうで、「もの」に近いようで、不気味で、こわい。抽象的=嘘、からは遠い「ほんとう」があるような感じがする。
 谷川は、「意味」を結晶させずに、ぱっと突き放す。そして、そこに私たちが知っているけれど、知らないものをぶつける。
 「知っているけれど、知らない」というのは矛盾だけれど、「化けもの」って定義ができないよね。ずっとむかし、いちばん最初にこわいもののの代名詞として、それでもなんとなく知っている。そういうもの、ことばとしてつかっているけれど、あいまいな、そのくせ「わかる」ものをぶっつける。

 こころは、そういう「わかる」ものと向き合っている。



こころ2

心はどこにいるのだろう
鼻の頭にニキビができると
心はそこから離れない
けれどメールの着信音に
心はいそいそすっ飛んで行く

心はどこへ行くのだろう
テレビドラマを見ていると
心は主役といっしょに旅を続ける
でも体はいつもここにいるだけ
やんちゃな心を静かに守る

体は元気いっぱいなのに
心は病気がこわくて心配ばかり
そんな心に追いつけなくて
そんな心にあきれてしまって
体はときどき座りこむ

 心は矛盾している。心とも矛盾しているけれども、体とも矛盾している。
 でも、そういう「意味」以前に、私は「鼻の頭のニキビ」が気になる。私はニキビに悩んだことがない。これまで生きてきて(?)、数個くらいできたかもしれないが、それは瞬間的なことで次の日には消えている。谷川って、ニキビに苦しんだ?
 どうも、そんなふうには見えないんだけれど。
 で、私は、こういう行に出合うと、あ、谷川は「体験」を書いているわけではないのだな、と思う。なんとなくなんだけれどね。確信があっていうわけではないのだけれど。
 メールの着信音にすっ飛んで行くというのも、そうなのかな? と疑問に思う。だいたい、この詩の「主人公」は誰? 私には谷川ではなく、少女が思い浮かぶ。
 で、
 ここには具体的な体験体験以上に、「まわりから聞いた体験」が入っているような感じがする。「耳年増」という感じ。「少女」の体験を聞きかじって知っていることについて「耳年増」というのは、何か変かもしれないけれど。
 いろんなことばを聞き、そこに「こころ」があることを、谷川は学んでいる。自分の「肉体」からことばを紡ぎだすだけではなく、聞いたことばから「肉体」をつくりだすということもできる詩人なのだと思う。谷川は、そのとき、自分の時間を遡って「過去(若い年代)」をも先取りできる。「耳年増」というより「逆耳年増」かな。「耳年若(?)」かも。

 いろいろな矛盾を書いて、その最後。

体はときどき座りこむ

 この行は不思議だね。たしかにどうすることもできなくなって体は座りこむことがある。でも、そのとき、こころは? 
 こころも座り込んでいるのだと、私は思う。
 「体はときどき座りこむ」という行を読みながら、私は「こころ」こそが座り込んでしまって、そのために体が動けずに座り込んだ形になっているのを想像してしまった。
 谷川は体がこころをとじこめている、という具合に書いているように見えるけれど、そのことばを読んで私が感じるのは、こころが体をとじこめている、という感じ。それはしかし、支配している、というのではなく、こころが体を整えているという感じ。
 そういう感じが、詩の主人公は少女なのに、少女を超えて詩人になっているという印象を引き起こす。詩人が(谷川が)この詩を書いたのだという感じを強める。

 そこからちょっと飛躍して。
 私は、詩が、谷川の体を整えているというか、暮らしを整えていると、なんとなく感じる。谷川の暮らしを私は一度も見たこともないのだけれど。

こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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