詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

17 N沼(嵯峨信之を読む)

2018-06-17 11:01:54 | 嵯峨信之/動詞
17 N沼

 沼に女性が投身自殺する。

白い木製の十字架を呑んだ沼は
沼自身も傷ついて
大きな海鼠のようにときどき動いた

 「沼」は、このとき嵯峨のこころの象徴だろうか。嵯峨のこころは投身自殺を知って、「海鼠のように」「動いた」。ずーっと動くのではなく「ときどき」動いた。
 「ときどき」は「副詞」だが、「動詞」として読み直すとどうなるだろうか。「動いた(動き)」は途切れるのか。それとも途切れるということを拒んで動き始めるのか。ことばにできない「交渉」がある。おそらく、このことばにならない「交渉」が「海鼠」という比喩を生み出している力だろう。「動く」ことによって、それが「海鼠」であると「わかる」。

ぼくはなぜその沼を見に行つたのであろう
霧雨が白くもやつているなかにうずくまつていた沼は
一夜
忽然と消えてしまつた

 「なぜその沼を見に行つたのであろう」は「なぜその沼は大きな海鼠のようにときどき動いたか」という問いを言いなおしたものだ。沼は、霧雨が白くもやつているなかに「海鼠のように」うずくまつていた。「動く」と「うずくまる」は違うことばだが、嵯峨にとっては「同じ動詞」である。「うずくまる」が「動く」こと。うずくまりながら「ときどき」動く。「ときどき」だから「動く」は「うずくまる」と言いなおされることもある。
 「うずくまる」という「動き」しかできないときもある。
 「動いた」ではなく「うずくまる」という「動詞」を「投身自殺」のなかに見たのだ。「自殺」は自ら動いて死へ向かうことだが、それは生へ向かっての動きをやめること、「うずくまる」ことであある。
 「うずくまる」という動詞を見つけたとき、嵯峨には、投身自殺した女性のすべてが「わかった」のだろう。了解した。だから、「沼」は消えた。

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