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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(56)

2020-05-22 10:33:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「初期詩篇」から

* (匂い 距離のために凋みはじめる)

形  時間に影をたべられる
己  円周のないむなしい歴史

 「己」を「巳(み、へび)」と読んでみたい衝動に襲われる。
 蛇が尾を噛むと「円」になる。蛇がどぐろを巻けば、そこに「円」があらわれる。しかし、それはいつでも完全なものではない。「むなしい」がつきまとう。

 私は小学生のころ、どぐろを巻いた蛇を、気づかずに踏みつけたことがある。裏の池のそばだった。蛇はどぐろを解いて、私の足をのぼり始める。私はとっさに足を池に突っ込んだ。蛇はさーっと解けて、水の上を泳いでいった。夢のようなできごとだが、夢にしてはあまりにも鮮やかすぎる。そのときの、ほどけていった「円周」というものを思い出すのである。











*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(56)

2020-05-20 12:24:22 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (何を忘れたのか)

手足 枝葉を切り取って小さく小さくして呑みこむ

 「忘れた」と「手足」を「呑みこむ」の関係がよくわからない。さらに何かを忘れてしまいそうだ。「忘れる」ということが目的なのかもしれない。
 「忘れる」という動詞を思い浮かべるとき、「細部(枝葉)」と「大筋」の関係もおもしろい。「細部」は思い出せるのに、それはなんだったのかわからないときがある。きっと「細部」こそが、大切な「詩」なのだ。











*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(57)

2020-05-16 11:00:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (何もない ぼくの空間に)

一日だけ ぼくがどこかに消えることがある

 「どこか」とは「どこ」を指しているのか。「ぼくの空間」の「どこか」なのか。そのとき、世界はどうなるか。

庭には
野菊の花が露にぬれている

 ここで終われば「俳句」になる。「ぼく」が消えて「野菊」になる。あるいは「露」になる。「ぬれる」という動詞になる。すべてが「一つ」になる。「遠心と求心」。
 しかし、嵯峨は「俳句」を拒絶して、このあとことばを動かしているのだが、それは逆に「俳句」を説明することになっている。だから、その二行は引用しない。






*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(56)

2020-05-14 15:55:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あの大きな貝殻を背負っていなければ)

蝸牛は真実をみんなしゃべるだろう
少しひかっている手足をだして

 とても不思議だ。
 「少しひかっている手足をだして」ということばが、「真実」に「怒り」がこもっているように感じさせる。「怒り」のために、全身が光っている。ことばが、同じように光っている。
 こう感じるのは、私がいまの状況に対して怒っているからかもしれない。
 隠されている「真実」がある。それを告発することばは、必ず光り輝く。そして、それは多くの人の怒りを吸収し、反射し、爆発して、光そのものになる。
 「少しひかっている手足をだして」はほんとうは、それにつづく行を修飾することばなのだけれど、その行を切り離すと「蝸牛は真実をみんなしゃべるだろう」を修飾することになる。
 こういう「誤読」をするのが、私は好きだ。「意味」ではなく、ことばそのものが勝手に動くときが。







*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(55)

2020-05-13 19:10:08 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (その船が川上へさかのぼっていくとき)

きみは時刻をつげる鐘の音を遠くにきいた
たったひとりになったきみが触れることのできるのはその音だけである

 「触れる」。このことばが誘い出すのは、「肉体」である。ひとりになる前は、だれかがいた。そのだれかに触れることができる。しかし、いまは触れることができない。
 そのかわりに「音」に触れる。このとき「触れる」は比喩である。
 「触れる」は、そして「接触」である。接するである。比喩としての「触れる」という動詞は、「遠く」にある「音」に触れる。「遠くから聞こえてくる」音に触れる。
 そうではなく、「触れる」は遠くまで音に触れに行くのだ。

 そうであるなら、いま、嵯峨はそういう遠くまで触れに行くという行為に、いまはそこにいないだれかに触れるという行為を重ねていることになる。







*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(54)

2020-05-12 10:18:17 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (背中は無言だ)

腕は動いていても自分から離れられない
背なかは毎日が背なかである

 「腕」も毎日が腕だろう。また、「背なか」も自分から離れられないという点は同じだろう。
 そうすると、「背なか」の意味は「動かない」ということ力点があるのか。
 しかし、この動かないは微妙だ。腕のようにはっきりと目に見える動きはなくても、やはり動いてはいる。
 無意識のようなものだ。背中は見えないから、無意識になってしまうのかもしれない。








*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(53)

2020-05-11 08:39:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「雑草詩篇 Ⅲ」から

* (頭脳から削ぎ落とされた辞書の屑)

すべての種類の虫がばらばらと落ちて
そこここに小さな炎が燃えあがる

 辞書の中に「登録」されている虫。ふつうは、辞書の中にしかいない。いわゆる「名もない虫」。それゆえに、それは、無視されて、いま辞書からもこぼれ落ちる。「頭脳から削ぎ落とされた」とは、そういう意味だろう。嵯峨が積極的に削ぎ落としたのではなく、無意識が削ぎ落とす。
 しかし、いったん「白紙」の上に落ちると、そういうことばがあったのだ、そういう虫がいるのだと明確になる。
 「名もない存在」はない。「名もない存在」が「名前」を主張する。その「炎」のようないのちの強さ。
 「虫」とはもちろん「ことば」の比喩である。








*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(52)

2020-05-10 09:57:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (旅立っていった妻よ)

どうして「時」を残していったのか
おまえの影をさむざむと宿している時を

 「記憶」を「時」と言い直しているのか。
 しかし「時」は過ぎ去る。
 そうであるなら、この「時」は「未来」である。未来が「さむざむ」とするのである。どこまでもどこまでも、「未来」であるかぎり「さむざむ」とする。
 逆に言えば「時」は過ぎ去らない。「未来」もない。あるのは「さむざむ」とする「いま」だけが永遠に続く。












*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(51)

2020-05-09 21:57:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (文字からなにがいちばん遠いか)

生命から剥がされた時刻もしだいに色褪せてくる
もうはるか彼方という時間ではない

 非常ににわかりにくい。「文字」と「時刻」が「生命」ということばをとおして向き合っている。「時刻」は「時間」とも言い直されている。
 「生命から剥がされた時刻」とは「記憶」のことだろうか。「文字」は「記憶(思い出)」を記録する。しかし、その「記録」が色褪せてくる。「記憶」が色褪せてくる。
 そのために「記憶/記録」が「遠い」ものに感じられる。「彼方」へ言ってしまったように感じられる。
 でも「はるか彼方」とは言えない。
 「いちばん遠い」のに「はるか彼方」では「ない」。この矛盾に哀しみがある。色褪せるけれど「消える」のではない。「記憶」は消えるが「記録/文字」は消えない。
 ことばで特定できないところを、ことばはさまよっている。








*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(50)

2020-05-06 22:49:58 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (心の奥の方へかけだした)

哀しさが二重になり 誕生祝いの銀のスプーンを落としてしまった
それに灰をかけよう

 心の奥には隠している哀しみがある。隠していたものに出会ってしまった。
 「誕生祝い」は嵯峨の誕生祝いではなく、嵯峨が贈った誕生祝いだろう。
 だから「哀しみ」はほんとうは「よろこび」だったかもしれない。哀しくて、こころの奥に隠してある「よろこび」のところまで行ったら、そこに「よろこび」があったために、いまの哀しみをもう一度確かめることになってしまった。
 詩は、読むたびに表情を変える。







*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(49)

2020-05-05 09:54:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (わたしは幾日も筏を待っている)

筏はながれてくる
単なる川しもへ 失われた方角へ

 「単なる川しも」とは、どういうことだろうか。「単なる」がわからない。これを「失われた方角」と言い直している。
 「単なる」は「失われた」状態なのだ。
 何が失われたら「単なる」になるのか。「思い入れ」のようなものだろう。「気持ち」だろう。それまでは嵯峨には「川しも」に思い入れがあった。「川しも」には海がある。あるいは街がある。そこへ行きたい。行けば、何かが始まる。そういう「夢」のようなものが失われた。
 「行く」というのは必然的に「方角」をもつが、「行く」という意欲がなくなれば「方角」もなくなる。
 「単なる」は「失望」がとらえる世界である。そこには「もの」しかない。気持ちを拒絶する「もの」、気持ちの存在しない「世界」が「単なる」と呼ばれている。







*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(48)

2020-05-04 10:06:25 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくが不在でも)

時の幕がゆれ 噴き上げの水が空に消える
死がやってきた

 「死」を批評することもむずかしい。死を体験したことがないから、肉体のなかでどういう変化が起きているか、わからない。ことばの「よりどころ」がない。
 あえて言えば。
 私は「時の幕」を見たことがない。だから「ゆれる」もわからない。しかし、「吹き上げの水」(噴水の水、と考えてみる)が「空に消える」は、見たことがある。「空のなかに消える」のではなく、「空に届かず、地上に落ちる」のだが、この「空に届かず」を嵯峨は「空に消える」という。そのとき消えるのは「水」ではなく「空に届きたい」という気持ちだ。
 何かを思うこころ、それが消えることが「死」というのなら、この比喩は切実で悲しい。「ぼくが不在でも」とは、ぼくがいるのに、ぼくを不在としてあつかうだれかがいて、そのためにぼくの「気持ち」がどこにも届かずに消えていく。それが「ぼくの死」だ。






*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(47)

2020-05-03 10:49:13 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (死をたそがれの唄だといいながら)

ぼくはだれを訪ねようとしているのだろう
いままで冷たく固い扉に何度か手を触れた

 「冷たく固い扉」とは「遺体」の比喩か。遺体に対面したとき、どこに触れるだろうか。顔か、手か。「冷たく固い」は、逆に、嵯峨が「温かく、柔らかい」状態の肉体を知っているからこそ、生まれてくることばだ。
 そのとき、「扉」は開かれていた。いまは閉ざされている。このとき、自分で自分に問う「だれ」はもちろん名前ではない。そのひとの「温かさ」「柔らかさ」である。生きているとき、ひとにはぞれぞれ「固有」の「温かさ」「柔らかさ」がある。それをどんなことばで言い表わすことができるか。それを嵯峨は自分に問いかけている。

 もし固有のことばで言い表わすことができたなら、その人は永遠に嵯峨といっしょに生きる。





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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(46)

2020-05-02 23:13:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (雨の日も晴れた日も)

話ならばつづく言葉もあろう
あり得ないことだって
あるように話される

 「言葉」がテーマである。
 ことばは「あり得ないことだって/あるように」表現できる。しかし、ほんとうか。「あること(あったこと)」なのに「あり得ない」と批判されることもある。
 ことばは「事実」とは関係がないのだ。「認識」と関係しているだけなのだ。
 「雨の日」「晴れの日」と反対のものが、あたかも同じ条件として書かれてしまうのも、それが「認識」だからだろう。





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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(45)

2020-05-01 11:59:55 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

* (ぼくが君を失えば)

 これを嵯峨は、こう言い直す。

きみがぼくの前から消えていくと
すべての方向のなかでぼくは道に迷う

 重要なのは「前」ということばだ。きみがいるとき、嵯峨にはいつも「前」があった。「方向」というとき「東西南北」「前後左右」があるが、嵯峨は「前」のみを「方向」と無意識に定義している。
 





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